劉琨雑考 上
今回は劉琨について、主に彼の并州刺史就任に関して見てみたいと思います。
劉琨字越石、中山魏昌人。西晉末に并州刺史となり、匈奴など「五胡」の攪乱する河北で孤軍奮闘し、太興元年(318)五月に殺害される。
『晉書』劉琨傳(以下本傳)には「時四十八」とあり、泰始七年(271)生れという事になる。ところが、諸書に劉琨の年齢に関する記述が見られるが、本傳の記述と整合しない。
先ず、本傳に「年二十六、爲司隸從事。時征虜將軍石崇河南金谷澗中有別廬、冠絶時輩、引致賓客、日以賦詩。」とある。これは泰始七年(271)生れならば、元康六年(296)の事となる。『文選』「潘岳金谷集作詩」注に引く「石崇金谷詩序」に「余以元康六年、從太僕卿出爲使、持節監青・徐諸軍事、有別廬在河南縣界金谷澗。」とあり、時期は一致する。
一方、『北堂書鈔』に引く王隱『晉書』には「琨乃是故尚書郭弈外甥。年二十九。爲太子掾。」とある。「年二十九」であれば、元康九年(299)となる。この年の太子は「愍懷太子」遹であり、その年末に賈后によって廢されている。
劉琨の経歴に愍懷太子との接点は全く見えない。また、そもそもで言えば、「太子掾」という官は、漠然とその官屬である事を云うとも考えられるが、史書に見えない。
劉琨の経歴で、「太子」との接点といえば、本傳に「(趙王倫)及簒、荂爲皇太子、琨爲荂詹事。」とある。趙王倫の子である司馬荂は「琨姊婿」であり、「掾」となるには妥当な人物といえる。但し、趙王倫が「及簒」んだのは、建始元(永興二)年(301)であり、二年のずれがある。また、「詹事」であり、「掾」ではない。
元康九年(299)、及び「掾」の表記に拘るならば、本傳に「太尉高密王泰辟爲掾」とある。「太尉高密王泰」は元康九年六月に「太尉・隴西王泰薨。」とあり、同年に「爲太尉掾」となることは可能である。「太子」は「太尉」の誤りである可能性がある。
また、『世説新語』に引く王隱『晉書』では「永嘉中。年三十五。出爲并州刺史。」とある。これは永興二年(305)という事になり、明らかに「永嘉中」とは矛盾する。「永嘉」を「永興」の誤りと見ることもできるが、本傳に「永嘉元年、爲并州刺史、加振威將軍、領匈奴中郎將。」とあり、これに従えば、劉琨は泰始九年(273)生まれとなる。
これに関しては、本傳の「永嘉元年」に対する校勘記で「通鑑八六載于光熙元年、以懷紀永嘉元年四月琨保晉陽及下文琨表九月末得發推之、琨受任當在永嘉元年之前、通鑑較確。」とあり、劉琨が并州刺史となったのは光熙元年(306)であるとする。
光熙元年であれば、劉琨の生年は泰始八年(272)となるが、一致しないという点では同様である。
各年次について見てみると、永興二年(305)に劉琨は、以下の如く、豫州をめぐる范陽王虓と劉喬の戦いの渦中にある。
及惠帝幸長安、東海王越謀迎大駕、以琨父蕃爲淮北護軍・豫州刺史。劉喬攻范陽王虓於許昌也、琨與汝南太守杜育等率兵救之、未至而虓敗、琨與虓俱奔河北、琨之父母遂爲劉喬所執。琨乃說冀州刺史溫羨、使讓位于虓。及虓領冀州、遣琨詣幽州、乞師於王浚、得突騎八百人、與虓濟河、共破東平王楙於廩丘、南走劉喬、始得其父母。又斬石超、降呂朗、因統諸軍奉迎大駕於長安。
惠帝紀から期日を確認すれば、「惠帝幸長安」が建武元年(304)十一月の「方請帝謁廟、因劫帝幸長安。」に当たり、翌永興二年(305)七月に「東海王越嚴兵徐方、將西迎大駕」となっている。
劉喬が范陽王虓を許昌に攻めたのが同年九月の「豫州刺史劉喬攻范陽王虓於許昌、敗之。」であり、年末十二月に「范陽王虓濟自官渡、拔滎陽、斬石超。襲許昌、破劉喬于蕭、喬奔南陽。」とある。
永興二年に劉琨が范陽王虓の下にいた事が確認でき、その最中に「出爲并州刺史」という事態は考え難い。
一方で、校勘記が引く『資治通鑑』(晉紀八)(以下、通鑑)では光熙元年(306)十月条に、劉琨が司馬として仕えていた范陽王虓の死後、兄劉輿が東海王越に召され、その左長史となり「軍國之務、悉以委之」とされた事情を記し、「輿說越遣其弟琨鎮并州、以爲北面之重。越表琨爲并州刺史、以東燕王騰爲車騎將軍・都督鄴城諸軍事、鎮鄴。」とする。
但し、十月というのは飽く迄も記述上であり、実際に劉輿が洛陽の東海王越の下に召され、その信任を得て弟を并州刺史に推すまでには一定の期間が必要である。これは関連する記事を一括して記述しているのであり、厳密に十月であるのは、惠帝紀に「十月、司空・范陽王虓薨。」とある范陽王虓の死のみで、他は十月以降としかできない。
そして、十月以降であれば、それが本傳に云う如く、翌永嘉元年となっても不当ではない。なお、劉輿が劉琨を并州刺史に推した事は劉輿傳にも見えるが、「洛陽未敗」時の、その死の直前に置かれている。ただ、この記述も東海王越に召された後の劉輿の活動を一括して記したもので、永嘉元年以降、おそらくは永嘉三年(309)以前という以外に年次は確定できない。
校勘記は光熙元年を是とする根拠として、「懷紀永嘉元年四月琨保晉陽」及び、本傳の任命記事に続く「琨在路上表」中の「九月末得發」を挙げる。なお、「懷紀永嘉元年四月琨保晉陽」は懷帝紀永嘉元年三月条末尾の「并州諸郡爲劉元海所陷、刺史劉琨獨保晉陽。」を云い、厳密には四月ではない。但し、それに先立つ記事が庚辰(三十日)、つまり、三月末日であり、それ以降であれば四月という事になる。ただ、これは三月時点での状況を総括して述べたとも言える。
ともあれ、懷帝紀三月条の記述は、劉琨が四月以前に晉陽(并州太原郡)に至っていた事を示す。ただ、これが「琨受任當在永嘉元年之前」を示すかと言えば、永嘉元年年頭に受任して、四月(三月)以前に晉陽に至っていれば、この記事は成立する。
年頭から「三月」まで、少なくとも二ヶ月程度はあり、劉琨の旅程として不当に短いとは言えない。つまり、「琨保晉陽」記事は「在永嘉元年之前」の根拠とは成り得ない。
しかも、劉琨の前任の并州刺史は東嬴公(東燕王)騰であり、その傳には「轉持節・寧北將軍・都督并州諸軍事・并州刺史。……進騰位安北將軍。永嘉初、遷車騎將軍・都督鄴城守諸軍事、鎮鄴。又以迎駕之勳、改封新蔡王。」とある。その「永嘉初」云々は、三月末日の記事「改封安北將軍・東燕王騰爲新蔡王・都督司冀二州諸軍事、鎮鄴」に当る。
三月以前の「永嘉初」に、「車騎將軍・都督鄴城守諸軍事」と為り、三月庚辰(三十日)を以って「新蔡王・都督司冀二州諸軍事」と為ったという可能性もあるが、これ等の記述に従う限り、同年四月以前に劉琨が并州刺史に任命され、晉陽に至っているとは想定し難い。
いま一つの、「琨在路上表」中の「九月末得發」は、劉琨が晉陽に向かう「路」上で九月末に出発したと言っているのだから、永嘉元年九月では四月以前に晉陽に至っている事が出来ず、当然、光熙元年九月について述べている事になる。一見すると、この指摘は妥当であり、劉琨の受任が「在永嘉元年之前」であるかに見える。
しかし、この上表は晉陽への「路」で為され、文中にも「遂忝過任」とある以上、当然ながら劉琨が并州刺史を受任した後に記されたものである。そして、その文中に「九月末得發」とあるのだから、劉琨の受任は「九月末」以前でなければならない。ところが、これは惠帝紀や通鑑の記事と明らかに矛盾する。
惠帝紀に「九月、頓丘太守馮嵩執成都王穎、送之于鄴。進東嬴公騰爵爲東燕王、平昌公模爲南陽王。」、成都王穎傳に「頓丘太守馮嵩執穎及普・廓送鄴、范陽王虓幽之、而無他意。」とある事から、九月の時点で鄴に鎮していたのは范陽王虓であり、少なくとも、「執成都王穎」の時点では東嬴公(東燕王)騰がいまだ并州刺史であった蓋然性は高い。
先の司馬騰の「鎮鄴」が「永嘉初」でないとしても、早くとも、翌十月の范陽王虓薨後の事であり、通鑑ではその十月以降に、兄劉輿が東海王越に推薦した事で劉琨が并州刺史に任じられている。十月以降の人事で、「九月末」に発しようとする事は有り得ず、この「九月末」は光熙元年十月以降の九月、つまり、永嘉元年の九月でなければならない。また、この九月以前に劉琨が何を以て「發し得」なかったのかも、惠帝紀の記述からは不明である。
従って、校勘記の述べる二点は「琨受任當在永嘉元年之前」の根拠となり得ず、むしろ、「九月末」は永嘉元年(以降)である根拠となる。但し、劉琨の出発が、永嘉元年九月以降となると、惠帝紀三月条の「刺史劉琨獨保晉陽」と矛盾が生じる。永嘉元年の「九月末發し得」たのであれば、当然、四月以前に「晉陽を保つ」事もできない。
ただ、この「刺史劉琨獨保晉陽。」という状況にはやや疑問が残り、この記事の位置、内容の誤りが想定される。位置については翌年以降からの竄入、内容についても本来は「并州諸郡爲劉元海所陷」までが永嘉元年であり、「刺史劉琨獨保晉陽」は内容的に関連するため挿入された、などが考えられる。
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