古代中国・家族用語の基礎知識―③「いとこ」
今回は「基礎知識」第三回、前回の最後に出てきた「いとこ」について。内容的には『說文解字』・『爾雅』・『釋名』などに見えないので、他の一般的な辞書及び、史書などの用例から判断した私見になります。
「いとこ」は日本語であるが、父母の兄弟姉妹の子を云い、漢字では「從兄弟(姊妹)」となる。これは、少なくとも現代日本に於いては、親族の父方・母方を厳密に区別しないという心性を表していると思われる。なお、以降は煩雑であるので、便宜上、「いとこ」の漢字表記は、「弟」のみで兄弟姉妹全てを含む事とする。
一方で、中国の場合、「從弟」は自分と同姓の「いとこ」、乃ち父の兄弟の子のみを指す。父の兄弟は「父」に準ずるもので「從父」とされる事もあり、「從弟」は「從父弟」とされる事もある。なお、祖父の兄弟の孫、「はとこ」は「從祖弟」であるが、この「祖」や「從父弟」の「父」は脱する事も多い。
一例を挙げれば、『三國志』曹仁傳(卷九)に曹仁は「太祖從弟」とあるが、同傳に引く王沈『魏書』には「仁祖褒」とあり、この曹褒が曹操の父嵩の実父でない限り、曹褒と曹嵩の養父騰が兄弟で、曹操と曹仁は從祖兄弟という関係になる。
では、他の「いとこ」は何と呼ぶのか、結論から言えば、母の兄弟(舅)の子が「內弟」、父の姉妹(姑)の子が「外弟」、母の姉妹の子が「姨弟」或いは「從母弟」である。
「姨」は『說文解字』・『爾雅』では「妻之女弟同出」・「妻之姊妹同出」、妻の同母姉妹を云うが、『釋名』では「母之姊妹曰姨」とあり、子から見て母の姉妹をも意味している。
「姨弟」が「妻の姉妹」の弟、は兎も角、「姨妹(姊)」が「妻の姉妹」の妹(姉)では意味不明になるので、この場合の「姨」は「母之姊妹」であり、その家の「弟」の如きものが「姨弟」という事になる。
「從母」も「從父」と同様、「母」に準ずるもので、母の姉妹を云い、同様に其処の「弟」の如きが「從母弟」である。
以上の様に、「いとこ」同士で互いの父方・母方を厳密に区別しており、その呼称を述べれば、それだけで互いの関係が判明する様になっている。
なお、「從弟」・「姨弟」は互いに「從兄弟」・「姨兄弟」同士だが、「內弟」から見れば父の姉妹の子が「外弟(兄)」で、逆も然りであるから、どちらに視点を置くかで、互いの呼称が入れ替わる事になる。
以下、具体的な関係が見える事例を幾つか挙げて、確認していきたい。
「內弟」
澹妻郭氏、賈后內妹也。(『晉書』卷三十八司馬澹傳)
賈后の父賈充(卷四十)の傳に「母郭爲宜城君」、武元楊皇后傳(卷三十一)に「賈充妻郭氏」とあり、賈后の母が郭氏である事が確認できる。司馬澹の妻も郭氏であるならば、賈后の母の兄弟、賈后の舅の女で、母方の、それも母と同姓の「いとこ」、「內妹」となる。
時明帝諸子幼弱、內親則仗遙欣兄弟、外親則倚后弟劉暄・內弟江祏。(『梁書』卷二十劉季連傳)
「諸子幼弱」であると云う「明帝」は齊(南齊)の高宗蕭鸞であり、その父道生の傳(『(南)齊書』卷四十五宗室傳)には「追尊爲景皇、妃江氏爲后。」とある。そして、江祏傳(同書卷四十二)には「祏姑爲景皇后」とあるので、江祏の姑江氏が明帝の母、つまり、江祏は明帝の母の兄弟の子で、「內弟」となる。
其母崔氏即御史中丞崔昂從父子、兼右僕射魏收之內妹也。(『(北)齊書』 卷十彭城景思王浟傳)
北齊の彭城王高浟の母である崔氏は崔昂の「從父子」で、魏收の「內妹」とあるが、「舅」で触れた様に、魏收は舅崔孝暐の女で、崔昂の妹である女性(崔氏)を娶っているので、崔昂の「從父子」、この場合は「從父」の子、つまり從姉妹である崔氏も魏收の舅の子(女)、乃ち、それが「內妹」という事になる。
「外弟」
時尚外兄高幹爲并州刺史。(『三國志』卷二十六牽招傳)
この「尚」は袁紹の子である袁尚だが、袁紹傳(『三國志』卷六)には「甥高幹爲并州。」とあり、高幹は袁紹の甥、乃ち姉妹の子であるから、袁尚からすれば、父の姉妹の子で、父方の、だが、父とは異姓の「いとこ」、「外兄」となる。
時征西將軍夏侯玄、於霸爲從子、而玄於曹爽爲外弟。(『三國志』卷九夏侯淵傳引『魏略』)
夏侯玄はその傳(『三國志』卷九)に「正始初、曹爽輔政。玄、爽之姑子也。」とあるので、曹爽の姑、乃ち父の姉妹の子で、「外弟」となる。
荊州刺史王忱、泰外弟也。(『宋書』卷六十范泰傳)
范泰は范甯の子であるが、『晉書』范甯傳(卷七十五)に「王國寶、甯之甥也。」とあり、この王國寶は王忱の兄であるから、当然、王忱も范甯の甥、姉妹の子である。つまり、范泰にとって、王忱は父の姉妹の子、乃ち「外弟」という事になる。
なお、魏収傳には「收外兄博陵崔巖」なる人物が見え、この崔巖は崔孝政の子であり、崔孝政は崔孝芬・崔孝暐の弟であるので、本来であれば、魏收の舅の子であるから「內兄」である。にも拘わらず、「外兄」とあるのは、誤りでなければ、魏收の姑、父子建の姉妹が崔孝政に嫁ぎ、崔巖を生んだという事になる。
「姨弟」
王廙字世將、丞相導從弟、而元帝姨弟也。(『晉書』卷七十六王廙傳)
王廙が「姨弟」である東晉元帝(司馬睿)の母は『晉書』后妃傳(卷三十一)に「元夏侯太妃名光姫、沛國譙人也。」とある夏侯氏であり、太妃の父莊には『晉書』卷五十五に立傳された子、乃ち太妃の兄弟である夏侯湛やその弟淳がおり、その夏侯淳の子承には「外兄王廙」がいる。つまり、王廙の母も夏侯氏であり、夏侯太妃の姉妹となる。従って、元帝から見れば王廙は母の姉妹の子、「姨弟」となる。
溫嶠前後表稱:「姨弟劉羣、內弟崔悅・盧諶等、……(以下略)(『晉書』卷六十二劉羣傳)
溫嶠が「姨弟」と呼んでいる劉羣は劉琨の子であるが、溫嶠傳(『晉書』卷六十七)に「平北大將軍劉琨妻、嶠之從母也。」とあり、劉琨の妻、劉羣の母が溫嶠の「從母」だと云う。「從母」は元帝の「姨弟」である王廙が、元帝紀では「從母弟王廙」とされている様に、「姨」と同義、乃ち母の姉妹という事になるので、劉羣が「姨弟」となる。
なお、劉琨傳の記述では崔悅・盧諶が共に溫嶠の「內弟」であるかに読めるが、舅の子が「內弟」であるならば、溫嶠に「母」が二人いない限り、有り得ない。
崔悅が「琨妻之姪」である事は『晉書』卷四十四盧諶傳に附されたその傳に見え、溫嶠の母が崔氏である事も溫嶠傳に見えるので、崔悅は溫嶠の「內弟」である事は間違いない。
盧諶傳には「琨妻即諶之從母」とあるので、これが「嶠之從母」と同一であるならば、盧諶の「從母」も崔氏で、溫嶠の「姨弟(兄)」となる。
「姨弟」はそもそも事例が少ない上に、双方の母の姓が判明しなければ確定できないので、「從母弟」についても見てみたい。
劉懷肅、彭城人、高祖從母兄也。(『宋書』卷四十七劉懷肅傳)
初、高祖產而皇妣殂、……高祖從母生懷敬、未朞、乃斷懷敬乳、而自養高祖。(『宋書』卷四十七劉懷敬傳)
「高祖」とは宋の武帝劉裕であるが、劉裕が生まれた際にその母が死し、「從母」である劉懷敬の母が彼を養ったと云う。劉懷肅・劉懷敬は兄弟、つまり、共に「從母」、母の姉妹の子であるから、「從母兄」という事になる。
ところで、「從弟」は父の兄弟の子であるから、当然、同姓であるが、「內弟」・「外弟」は母の兄弟・父の姉妹の子であるから、同姓不婚である以上、必ず異姓となる。
だが、「姨弟(從母弟)」の場合は母同士が姉妹であるので、その子が同姓であっても差し支えはなく、上記の劉裕と劉懷肅・劉懷敬はそうした例になる。
彼等の場合は同姓であっても本貫が異なるが、当然ながら、本貫を同じくする同族であっても差し支えなく、姉妹で兄弟や從兄弟に嫁ぐというという例もある。
そうした例として、同姓ではないが、北魏の長孫氏は帝室の元氏(拓跋氏)と遠祖を同じくし、他の同様な家系と共に「百世不通婚」(『魏書』卷百十三官氏志)とされる。
その末裔たる長孫稚には、その傳(『魏書』卷二十五)に「其姨兄廷尉卿元洪超」とある「姨兄」元洪超がいる。「姨兄」であるから、長孫稚と元洪超の母が姉妹であり、「不通婚」には触れない事になる。
長孫稚は元洪超の母に「撫養」された事を以て、元洪超の子に爵を譲る事を求め、許されている。上の劉裕の事例共々、「從母」との関係、母方との縁が深い事が窺われる。
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