嵆紹雑考 下 ―元康
嵆紹の生年を嘉平五年(253)として、太康年間以降の経歴を見ていけば、「山濤領選、……起家爲祕書丞」と、嵆紹は山濤の推挙により、祕書丞として起家している。
これについては『世說新語』(政事第三)に引く王隱『晉書』に、「紹雅有文才。時以紹父康被法。選官不敢舉。年二十八。山濤啟武帝可爲祕書郎。帝曰。紹既如此。便可爲丞。世祖發詔。以爲祕書丞。」とあるので、嵆紹が「年二十八」の年、太康元年(280)となる。
この時点で、山濤は「太康初、遷右僕射、加光祿大夫、侍中・掌選如故。」であり、「掌選如故」とある如く、この前後は「選」、人事を掌っている。この「掌選」は彼が吏部尚書と為って以来、一時的に太子少傅と為った時期を除いて、「濤再居選職十有餘年」と、ほぼ一貫して人事を掌る吏部を領している。
なお、山濤を吏部尚書とする詔は、その傳では泰始十年(274)七月の「元皇后崩」(「皇后楊氏崩」)以前に出され、その後、「遂扶輿還洛。逼迫詔命、自力就職。」とあるので、就任は同年となる。
当時、嵆紹は二十二であり、弱冠(二十)前後で起家するという建て前からすれば、山濤は以降も嵆紹を敢えて挙げなかった事になる。これは嵆康誅殺の一件が尾を引いており、嵆紹を挙げるにはなお差し障りがあった事を窺わせる。
太康元年は「平吳」、吳を征服して、天下の一統が成った年であり、それによって、漸く彼への憚りが解消されたと考えられるが、深くは立ち入らない。
ところで、『世說新語』では王隱『晉書』を引く上記条に程炎震が「紹十歲而孤。康死於魏景元四年、則紹年二十八、是晉武太康元年。」と注している。嵆康の死が景元四年(263)であれば、同年に「十歲」で嘉平六年(254)生まれ、「年二十八」は太康二年(281)になる筈だが、何故か太康元年(280)としている。どちらか一方だけを満年齢で計算しなければ同年にはならない。
ともあれ、嵆紹は、吳を滅ぼし、名実共に「晉」の御世となった太康年間(280~289)以降に官途にある事になる。
その経歴の中で問題となるのは次の「累遷汝陰太守。……轉豫章內史、以母憂、不之官。服闋、拜徐州刺史。……後以長子喪去職。」と、その後の「元康初、爲給事黃門侍郎。」という部分である。
「元康初」に従えば、それ以前の汝陰太守・豫章內史・「母憂」・徐州刺史・「長子喪」は全て太康中、遅くとも、元康元年(291)から数年以内という事になる。
汝陰太守と為った時期は不明だが、「累遷」とある事から、幾つかの官を歴任していると思われる。『晉書』中で、祕書丞から太守に転じているのは東晉末期の王國寶が司馬道子の輔政時に、「俄遷琅邪內史、領堂邑太守、加輔國將軍。」と為った例だけである。
これは「俄に遷る」とあり、司馬道子と王國寶の関係による特別な事例と見るべきであろう。従って、嵆紹が汝陰太守と為ったのは、太康元年(280)からある程度の年数が経過した後である。
次いで、汝陰太守から転じた豫章內史であるが、厳密には「內史」は郡ではなく國、豫章國の長吏であり、豫章國は豫章王が封じられた郡の事であるから、当然ながら、豫章王がいなければならない。
晉で豫章王と云えば、武帝の皇子で、後の懷帝である司馬熾が太康十年(289)十一月に封じられている。武帝紀の同月条には「改諸王國相爲內史。」とあり、これまで「相」と呼ばれていた王國の長官が「內史」と改名されたのがこの月である。
従って、嵆紹が豫章內史となったのは、これ以降でなければならない。それ自体に問題はなく、むしろ、太康元年に祕書丞と為り、累遷して汝陰太守、更に数年の任期後に豫章內史に転じたという経歴は自然である。
また、汝陰太守について言えば、汝陰王謨(武帝皇子)傳に「汝陰哀王謨字令度、太康七年薨、時年十一。無後、國除。」と、太康七年(286)に汝陰王謨が薨じて、國が除かれている、つまり、汝陰國が汝陰郡となっている。従って、嵇紹が汝陰「太守」となったのは太康七年以降となり、太康十年以降に豫章內史に転じた事と整合する。
しかし、問題なのは彼がその後、「以母憂、不之官」・「服闋、拜徐州刺史」・「後以長子喪去職」という経緯を経て、「元康初」に給事黃門侍郎と為っている点である。
「母憂」が太康十年(289)十一月、「官に之かず」とあるので、実質的に豫章內史であった時期が無いとしても、「服闋」は父を既に亡くしている嵆紹の場合、二十五ヶ月後、元康二年(292)正月となる。それ以降に、徐州刺史と為り、その「後」に「以長子喪去職」を経た場合、それは既に「元康初」とは言えない時期である。
更に問題なのは、嵆紹が徐州刺史と為った「時」に、「石崇爲都督」とある点である。石崇が徐州に都督(石崇傳では「監徐州諸軍事」)と為ったのは、『文選』「潘岳金谷集作詩」注に引く「石崇金谷詩序」に「余以元康六年從太僕卿出、爲使持節監青徐諸軍事征虜將軍」とある様に、元康六年(296)の事である。これは明らかに「元康初」以前ではない。
念の為に言えば、石崇は元康以前には「散騎常侍・侍中」であり、「元康初」(実際には「永熙初」=永熙元年)に楊駿の「大開封賞、多樹黨援」を批判する上奏を行っている。その後、「南中郎將・荊州刺史、領南蠻校尉、加鷹揚將軍」として荊州に赴いている(惠帝紀:永熙元年八月)ので、この頃に徐州に関わっている事実はない。
従って、嵇紹の経歴は「母憂」までは兎も角、それ以降が「元康初」、という事は在り得ない。
それを踏まえて、給事黃門侍郎と為った後の、「時侍中賈謐以外戚之寵」以下の部分を見れば、賈謐が「外戚之寵」を以てするようになったのは、「元康初」というより、その後半であるとする方が相応しい。また、「侍中賈謐」を厳密にとれば、賈謐傳の記述から、これも元康後半の事となる。
よって、これは「元康初」が「元康末」の誤りと見るべきである。元康六年以降に「長子喪」を以て職を去ったならば、当然、給事黃門侍郎となるのは元康末となる。
続く記述も「及謐誅」、つまり永康元年(300)四月に飛び、給事黃門侍郎が「元康初」であると、嵆紹の元康年間の経歴は、ただ黃門侍郎であったと云うだけで、事実上空白となってしまう。
この事からも、「元康末」という推測を裏付けられる。汝陰太守から豫章內史に転じたのも、太康(280~289)・元康(291~299)の交ではなく、いま少し遅い、元康三・四年頃と見るべきではないか。
ところが、華譚傳(卷五十二)に「太康中、刺史嵇紹舉譚秀才、將行、別駕陳總餞之、因問曰:……」という記述がある。これに従えば、嵆紹が「刺史」であったのは「太康中」という事になる。
華譚は「廣陵人」であるので、この「刺史」は徐州刺史と見るべき、乃ち、上記の推測は成り立たない。しかし、嵆紹の「太康中」の「徐州刺史」が在り得ないのは上に見た如くである。
そこで、武帝紀を見ると、太康三年(282)九月条に「吳故將莞恭、帛奉舉兵反、攻害建鄴令、遂圍揚州、徐州刺史嵆喜討平之。」とあり、「太康中」に「徐州刺史」であった嵆喜が見える。
この嵆喜(嵇喜)は王粲傳に引く『魏氏春秋』に「案嵇氏譜:康父昭、字子遠、督軍糧治書侍御史。兄喜、字公穆、晉揚州刺史・宗正。」とある人物で、嵆紹の伯父である。
そこでは「揚州刺史」とあり、賀循傳(卷六十八)に「循少嬰家難、流放海隅、吳平、乃還本郡。……刺史嵇喜舉秀才、除陽羨令、以寬惠爲本、不求課最。」と、會稽山陰の人である賀循を秀才に挙げたという記述がある事から、嵆喜が「吳平」後、つまり「太康中」に「刺史」であったのは揚州であるかに見える。
しかし、周浚傳(卷六十一)に「累遷御史中丞、拜折衝將軍・揚州刺史、封射陽侯。隨王渾伐吳、……浚既濟江、與渾共行吳城壘、綏撫新附、以功進封成武侯、食邑六千戶、賜絹六千匹。明年、移鎮秣陵。……遷侍中。」とある。
つまり、太康初、少なくとも「伐吳」の「明年」、乃ち太康二年(281)までの揚州刺史は周浚であり、武帝紀の記述も「遂圍揚州、徐州刺史嵆喜」と、わざわざ「徐州」と記している事から、太康三年時点で、嵆喜が徐州刺史であったのは間違いない。「揚州刺史・宗正」はその後に遷ったもの、或いは周浚の後任として、であったのだろう。
従って、華譚傳の「太康中、刺史嵇」某というのは、「紹」ではなく、「喜」の誤りと見るべきだろう。臧榮緒『晉書』に依れば、「太康初、刺史嵇紹、舉譚秀才。」とあり、同じく「嵇紹」となってはいるが、「太康初」とある。嵆紹が徐州刺史となるのは、最速であっても、太康年間の後半であり、この点からも、「刺史嵇」は「喜」であると見るのが妥当であろう。
華譚傳には「期歲而孤」という記述があり、彼の生年は父諝の没年である吳の太平元年(256)と推定される。嵆紹の三歳年少でしかなく、彼が秀才に挙げられる年代は「太康初」が相応しく、挙げたのが同年輩の嵆紹というのは不可解である。
以降の経歴は詳細であり、僅か四年間のみであるので問題とする点はない。永安元年(304)七月での死であれば、享年は五十二歳という事になる。
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