嵆紹雑考 上 ―生年
「四方山話」の第三回は「曹攄」にも登場する嵆紹について。(「四方山話」はこの様に、時々に話題が飛ぶ予定です。)
永安元年(304)七月、「蕩陰之役」とされる戦いで、亂兵の弓箭逼る中、惠帝を庇って命を落とした嵆紹は『晉書』卷八十九忠義傳、その筆頭に立傳されている。
その傳にはその年紀に於いて幾つか問題があるが、管見の限り、校勘なども見当たらないので、簡単に触れてみたい。
嵆紹傳中からその経歴に関する部分を抜き出せば、以下の如くである。
嵆紹字延祖、魏中散大夫康之子也。十歳而孤、事母孝謹。以父得罪、靖居私門。
山濤領選、……乃發詔徴之、起家爲祕書丞。
……累遷汝陰太守。……轉豫章內史、以母憂、不之官。服闋、拜徐州刺史。時石崇爲都督、性雖驕暴、而紹將之以道、崇甚親敬之。後以長子喪去職。
元康初、爲給事黃門侍郎。時侍中賈謐以外戚之寵、……
及謐誅、紹時在省、以不阿比凶族、封弋陽子、遷散騎常侍、領國子博士。
趙王倫篡位、署爲侍中。惠帝復阼、遂居其職。
齊王冏既輔政、……頃之、以公事免、冏以爲左司馬。旬日、冏被誅。……遂還滎陽舊宅。
尋徴爲御史中丞、未拜、復爲侍中。河間王顒・成都王穎舉兵向京都、以討長沙王乂、大駕次于城東。乂宣言於眾曰:「今日西討、欲誰爲都督乎?」六軍之士皆曰:「願嵆侍中勠力前驅、死猶生也。」遂拜紹使持節・平西將軍。屬乂被執、紹復爲侍中。公王以下皆詣鄴謝罪於穎、紹等咸見廢黜、免爲庶人。
尋而朝廷復有北征之役、徴紹、復其爵位。紹以天子蒙塵、承詔馳詣行在所。值王師敗績于蕩陰、百官及侍衛莫不散潰、唯紹儼然端冕、以身捍衛、兵交御輦、飛箭雨集、紹遂被害于帝側、血濺御服、天子深哀歎之。
後半部分、「(賈)謐誅」後の永康元年(300)以降については問題はない。問題となるのは、前半、嵆紹の誕生から元康年間に掛けての部分である。
先ず、嵆紹の生没年についてだが、没年は惠帝紀永安元年(304)七月条に「六軍敗績于蕩陰、矢及乘輿、百官分散、侍中嵆紹死之。」とあり、確定している。しかし、享年が不明である事から、生年は確定できない。
手掛かりとなるのは、本傳の「十歳而孤」という記述である。父嵆康は司馬氏(司馬昭)によって処刑されており、その年に「孤」となった嵆紹は十歳であったという事である。
だが、嵆康の没年は『三國志』卷二十一王粲傳に「至景元中、坐事誅。」とあるのみで、正確な年次を確定できない。但し、鍾會傳に「遷司隸校尉。雖在外司、時政損益、當世與奪、無不綜典。嵇康等見誅、皆會謀也。……景元三年冬、以會爲鎮西將軍・假節都督關中諸軍事。」とあるので、景元三年(262)の「冬」、年末以前である。なお景元元年(260)から三年(262)の三年間の前後がある事になる。
そこで、次に参照すべきなのは、嵆康の「與山巨源絕交書」(『文選』所収)である。同書に「吾新失母兄之歡、意常悽切、女年十三、男年八歳、未及成人、……」という一文がある。これに従えば、「與山巨源絕交書」を嵆康が書いた時点で、「男」、乃ち嵆紹が「八歳」であったという事になる。
では、嵆康が山巨源こと山濤に「絕交書」を送ったのが何時であるのか。これは王粲傳に引く『魏氏春秋』に「及山濤爲選曹郎、舉康自代、康答書拒絕、因自說不堪流俗、而非薄湯・武。」とある如く、山濤が「選曹郎」となり、自らの代わりに嵆康を推挙した際の事である。
同傳には裴松之の「案」として、「山濤爲選官、欲舉康自代、康書告絕、事之明審者也。案濤行狀、濤始以景元二年除吏部郎耳。」ともあり、「(山)濤行狀」によれば、山濤が「吏部郎」となったのは、景元二年(261)と見られる。
因みに、「選曹郎」・「吏部郎」とあり、『晉書』職官志に「及魏改選部爲吏部」とあるが、用例から見て、魏では「選曹」であり、晉になって、「吏部」に改められている。山濤がこの地位にあったのは魏晉交代の際であった為に、混用されたのであり、「選曹郎」が正しい。
さて、山濤が「吏部郎」となったのが景元二年(261)であり、同年に「絕交書」が書かれたのなら、この年に嵆紹が「八歳」であったという事になる。すると、彼が「十歳而孤」となったのは景元四年(263)となる。
だが、これは鍾會の経歴と矛盾する。鍾會は景元四年夏以降、「伐蜀」に赴き、翌五年正月には反し、殺されるのであるから、嵆康の死が景元三年以降になる事は在り得ない。
強いて言えば、「景元三年冬」以降も、前官の司隸校尉は領しており、実際に出征する以前に「謀」を行い、四年に入って嵆康が誅殺されたとも言えるが、やや強引である。
従って、嵆紹が「八歳」であるのは、景元三年より二年以上前、景元元年(260)以前でなければならず、「濤始以景元二年除吏部郎」と矛盾する。よって、諸書の記述に何らかの誤りが在る筈である。
先ず、「絕交書」の「八歳」、或いは『晉書』の「十歳」に誤りがある場合である。但し、「絕交書」は父の手になるものであり、子の年齢を間違えるとは考え難いので、筆写の誤りという事になるが、「八」は間違い難いかと思われる。強いて言えば、「六」の「亠」が脱落した可能性だが、その場合、「絕交書」が更に二年前となり、景元二年との矛盾は解消されない。或いは、「九」がの「一」が判別できず、「八」となったのであろうか、であれば、一応、翌四年に「十歳」となる。
「十」の場合は、「餘」等、「十」の後が脱落した可能性が考えられるが、その場合は、嵆康の死が景元四年以降となるだけで矛盾が解消しないのは同様である。或いは、「九」の「乚」部分が脱落して「十」と誤ったとすれば、景元二年の翌年となり、これも一応、矛盾は解消する。
次に、「景元二年」が誤りである可能性である。これは「元」の「儿」が脱落した可能性や、「景元」が「正元」(254~256)の誤りである可能性が考えられ、後者については王粲傳注で裴松之が「干寶・孫盛・習鑿齒諸書、皆云」としている。
ただ、「正元」、乃ち正元二年(255)であると、「十歳」は甘露二年(257)となり、明らかな齟齬が生じるので、更に「十」の後への脱落も考えなければならず、裴松之が考察している如く、在り得ない。
従って、前者の可能性になるが、「元年」と「二年」の誤りは幾つか見られる誤りであり、この可能性は否定できないのではないか。
なお、この齟齬について、「八歳」・「十歳」が満年齢であれば、満二年、景元二年から三年の間に収まるので矛盾が生じないという乱暴な論を目にした事があるが、嵆紹の年齢についてだけ、満年齢と見做すのは恣意的である。
例えば、魏の文帝(曹丕)は「中平四年冬、生于譙。」と、中平四年(187)の、月こそ不明だが「冬」に生まれたとあり、黃初七年(226)の五月丁巳(十七日)に崩御しているので、満年齢ならば、誕生日前なので38である。だが、「時年四十」と、所謂「数え年」で記されている。
この他、事例は少ないが、「晉哀帝興寧元年歲次癸亥三月壬寅夜生」、興寧元年(363)三月の生まれである宋武帝(劉裕)が、その永初三年(422)五月癸亥(二十一日)に崩じて「時年六十」とある様に、満年齢で年齢が記される事は無い。
なお、『宋書』武帝紀は校勘記で、各本並びに「時年六十七」とあると云うが、満年齢では59(五十九)であるので、それが「六十七」となったわけではなく、校勘記が云う如く「七」が衍字と見るべきである。
何れにせよ、ひとまず、嵆紹の生年は景元元年(260)に「八歳」、三年(262)に「十歳」として、嘉平五年(253)と見ておきたい。或いは、その翌年という可能性も残るが、概ね嘉平年間(249~254)の末という事になる。
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