古代中国・家族用語の基礎知識―②「甥」と「姪」

 「基礎知識」と題した第二回は前回の「おじ」・「おば」とも関連する「甥」と「姪」について。


 「甥」は「おい」、兄弟姉妹の子(男子)、「姪」は「めい」、同じく兄弟姉妹の女(女子)というのが、「舅」・「姑」と同じく、現代日本語での認識である。だが、これまた辞書的には異なる。


 「甥」は『說文解字』では「謂我舅者吾謂之甥。」とあり、「我舅わがおじ」が「われ」を「甥」と謂うのだから、姉妹の子であり、『釋名』釋親屬にも「舅謂姊妹之子曰甥。」とある。『爾雅』釋親では「妻之父爲外舅、妻之母爲外姑。」に続けて、「姑之子爲甥、舅之子爲甥、妻之晜弟爲甥、姊妹之夫爲甥。」とあり、要領を得ないが、異姓の親族を総じて「甥」と呼ぶ様であり、「婿」(むこ)に通じる。

 姉妹の子については『爾雅』に「男子謂姊妹之子爲出。」、『釋名』にも「姊妹之子曰出」とあるので、男性にとって、その姉妹の子が「出」だと云うが、これは一般的ではない。

 「姪」は『說文解字』に「女子謂兄弟之子也。」、『釋名』釋親屬に「姑謂兄弟之女爲姪。」とあり、『爾雅』釋親には「侄」として「女子謂晜弟之子爲侄。」と、女性にとってその兄弟の子が「姪(侄)」だと云う。


 従って、「甥」は男性にとっての姉妹の子、「姪」は女性にとっての兄弟の子であり、『釋名』は「子」が「甥」、「女」が「姪」としているが、基本的にその「子」の性別(子女)は問われていない。なお、男性にとっての兄弟の子、女性にとっての姉妹の子は、「兄(弟)子」、「姊(妹)子」などと記される。

 但し、「子姪」という語がある様に、実際は男性にとっての兄弟の子も「姪」とされており、『晉書』呂光載記(卷百二十二)に呂纂(後涼主)に対して、侍中房晷が述べた言の中に「弘女、陛下之姪女也」と見える。この「陛下」は呂纂であり、呂弘はその弟であるので、「弘女」は呂纂にとって兄弟の子で、「女」である「姪」なので「姪女」とされる。

 当然ながら、女性にとっての姉妹の子も「甥」である筈だが、確実な事例は確認できない。可能性があるのは、『(北)魏書』卷二十四の崔敞傳に「敞妻李氏、以公主之甥」とある「敞妻李氏」が、「公主」、乃ち北魏の帝室元氏の「甥」であるというものである。李氏の出自は不明だが、「公主」の兄弟の子では元氏であり、李氏ではないから、姉妹の子の筈である。ただ、この「甥」が他の意味という可能性も無いではない。

 なお、「甥」については、「外甥」という語もあり、これは「外」でない「甥」や、「內」の「甥」がいるのではなく、「外」に出た姉妹が生んだ子、異姓である事を強調する意味合いからと思われる。


 ともあれ、「甥」は姉妹の子女、「姪」は兄弟の子女と見て差し支えないと思われる。そして、呂光載記の「姪女」という表記だけでも、「姪」が「めい」だけではない事は明らかで、「甥女」という語もあるが、「甥」に「めい」が、「姪」に「おい」が含まれる事例を幾つか挙げておく。

 なお、「六朝」からは外れるが、『史記』・『漢書』には注記は別にして、「甥舅」という語以外で、親族呼称としての「甥」は見えない。何らかの代替する語があるのか、該当する関係が見えないだけなのか確認し得ていない。


 「甥」に「めい」が含まれる事例としては、『晉書』卷三十一后妃傳の景懷夏侯皇后傳に「后知帝非魏之純臣、而后既魏氏之甥、帝深忌之。」と、景帝(司馬師)の夫人、夏侯氏が「魏氏」の「甥」とある。この夏侯氏は傳首に「父尚、魏征南大將軍。母曹氏、魏德陽鄉主。」とあるので、確かに「魏氏」(曹氏)の「甥」である。

 もう一例挙げれば、同書卷七十九謝尚傳に「時康獻皇后臨朝、即尚之甥也、特令降號爲建威將軍。」とあり、「康獻皇后」は后妃傳に「康獻褚皇后諱蒜子、河南陽翟人也。……及康帝即位、立爲皇后、封母謝氏爲尋陽鄉君。」と、母が謝氏である。その謝氏の兄弟(舅)が謝尚であり、皇后褚氏は謝尚の「甥」となる。


 「姪」に「おい」が含まれる事例としては、『三國志』卷四十二(蜀書十二)來敏傳に「姊夫黃琬是劉璋祖母之姪」と、來敏の姊の夫である黃琬が劉璋祖母の「姪」とある。従って、劉璋の祖母が黃氏で、その兄弟の子が黃琬なのであろう。この他、同書卷三十二(蜀書二)先主傳に董承について、裴松之が「董承、漢靈帝母董太后之姪、於獻帝爲丈人。」とする。董太后は当然ながら董氏であるので、董承はその兄弟の子で「姪」となる。

 なお、董承が獻帝の「丈人」であると云うのは、『後漢書』卷十皇后紀の獻帝伏皇后紀に「董承女爲貴人」とある様に、董承の女が獻帝に嫁いでいる、董承が獻帝の「しゅうと」である事を云い、裴松之の時代、東晉末宋初に「しゅうと」は「丈人」と云った事が判る。


 上記の例からも判る様に、「姪」は男女何れにとっても、自身と同姓であるから、その存在だけでは、その父母の婚姻関係を証明できない。一方で、「甥」はその母の兄弟が「舅」であり、その存在により、「舅」と「甥」の家が婚姻関係ある事を示しており、それによって他からは見出しがたい二家の関係が見える場合もある。


 一例を挙げれば、『三國志』顧雍傳(卷五十二吳書七)に引かれた『江表傳』に「權嫁從女、女顧氏甥、故請雍父子及孫譚、譚時爲選曹尚書、見任貴重。是日、權極歡。譚醉酒、三起舞、舞不知止。雍內怒之。」という逸話が見える。

 引用部の前に省略があるかと思われるが、吳主孫權がその「從女」を嫁がせ、その「女」乃ち「從女」が「顧氏甥」であるので、「(顧)雍父子及孫譚」に請うた、おそらくは婚儀への参列を望んだという事であろう。

 孫權の「從女」が、「顧氏」、この場合は顧雍に限らず、その子弟の誰かの「甥」であるならば、「從女」の母が顧氏であり、その「從女」、乃ち孫氏の父に嫁いでいた事になる。

 「從女(從子)」は『爾雅』などには見えないが、この場合の「從」は「の如きもの」・「に準ずるもの」といった意味合いで、「いとこ」(從兄弟)が「兄弟」に準ずるものである様に、「女(子)」に準ずるもの、「めい(おい)」であり、孫權の兄弟の女に当たる。但し、詳しくは措くが、この逸話の時期からすると、この「從女」は孫權の兄弟ではなく、從兄弟の女であると思われる。

 何れにせよ、孫權の吳郡(富春)孫氏と、顧雍の吳郡(吳縣)顧氏の間に婚姻関係が有った事をこの逸話は示している。顧譚が酒に酔い、舞を止めずに祖父顧雍の怒りを買ったというのも、「從女」が近しい身内であった故の醜態であったのだろう。或いは、「從女」の母は顧雍の女で、顧譚の「いとこ」であったのかもしれない。


 なお、「準ずるもの」という意味合いの「從」は、「舅」・「姑」・「甥」・「姪」に冠せられる事もあり、「從舅」・「從姑」ならば、母(舅)・父(姑)の「いとこ」、「從甥」・「從姪」なら「いとこ」の子となる。

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