「六朝」四方山話

灰人

古代中国・家族用語の基礎知識―①「舅」と「姑」

 「基礎知識」などと言っても、大層なものではなく、論文なども含め、史書を読む際に踏まえておくべき家族用語について、時折見える不正確な訳、敢えて言わせてもらえば、「誤訳」について、その用語の原義を再確認して、多少思うところを述べていきます。

 ある意味では「常識」である故か、解説などもないので、まとめてみました。

 なお、ここで言う「古代中国」は、「六朝」、三國から南北朝時代以前であり、唐代以降については基本的には含まれない事をご了承下さい。


 さて、最初に取り上げるのは、「舅」、それと関連した「姑」について。


 「舅」は「しゅうと」、「姑」は「しゅうとめ」、配偶者、主に夫の父・母、というのは間違いでなく、現代日本語での意味としては正しく、「嫁・姑(の争い)」などは、よく使われる語と言える。

 しかし、辞書的には、「舅」は『說文解字』に「母之兄弟爲舅。妻之父爲外舅。」、『釋名』釋親屬に「母之兄弟曰舅。」、『爾雅』釋親に「母之晜弟爲舅、……妻之父爲外舅。……婦稱夫之父曰舅。」とある様に、妻・夫の父という意味もあるものの、母の兄弟(晜弟)、乃ち「(母方の)おじ」というのが第一義となる。

 一方で、「姑」の場合は『說文解字』に「夫母也。」とあるが、『釋名』釋親屬に「父之姊妹曰姑……夫之母曰姑。」、『爾雅』釋親では「父之姊妹爲姑。……妻之母爲外姑。……(婦)稱夫之母曰姑。」とあり、夫の母というのが原義である様だが、父の姉妹(姊妹)というのが第一義となっている。


 史書に見える「舅」・「姑」は挿話など、口語的な文脈、女性が主語となっている場合には、「しゅうと」・「しゅうとめ」の意味で使われ、例えば、「良吏」曹攄の「寡婦」の一件に見える「姑」は「しゅうとめ」、夫の母でなければ話が通じない。

 だが、具体的な関係が知れる、誰某だれそれの「舅」・「姑」が誰某であるという文脈の場合は、管見の限り、例外無く「おじ」・「おば」の意味で使われている。


 幾つか事例を挙げれば、「六朝」からは外れるが、両漢の交に「新」を立てた王莽の伯父達は元帝皇后王氏の兄弟に当たるが、『漢書』中で彼等を成帝の「帝舅」・「元舅」とする事例は多い。

 また、『晉書』外戚傳に「文明皇后之弟」として見える王恂の弟愷は王濟傳(卷四十二王渾傳附)・牽秀傳(卷六十)で「帝舅」とされている。彼等は漢成帝や、「文明皇后」王氏の子である晉武帝の舅(おじ)である。


 これ等は帝室との関係に於ける場合だが、『(北)齊書』魏收傳(卷三十七)に、魏收に「其舅崔孝芬」が見え、更に彼は「收娶其舅女、崔昂之妹」と、「舅女」である崔昂の妹を娶ったとある。この崔昂は崔孝芬の弟孝暐の子であるから、崔孝暐は崔孝芬と共に魏收の舅(おじ)という事になる。尤も、崔孝暐については舅(しゅうと)でもある。


 「姑」については、そもそも、史書で「姑」に対する言及が少なく、明白な事例は僅かだが、『(北)魏書』外戚傳(卷八十三)で高肇が「尚世宗姑高平公主」とあり、「公主」(皇帝の女)なのだから、世宗(宣武帝)の姑(おば)、その父である孝文帝(高祖)の姉妹という事になる。なお、この高肇は「文昭皇太后之兄」、孝文帝皇后高氏の兄で、「世宗舅」・「帝舅」などとも見える。

 また、『晉書』武茂傳(卷四十五武陔傳附)に「潁川荀愷年少于茂、即武帝姑子」とある荀愷は、『三國志』荀彧傳(卷十)に「霬妻、司馬景王・文王之妹也」とある荀霬の子であるから、「(司馬)文王」こと司馬昭の妹は、司馬昭の子である武帝の姑(おば)となる。


 そもそもで言えば、魏收の「舅女」や、荀愷の「姑子」、また、時に見える「姑夫」という語自体が、「舅」・「姑」が「しゅうと」・「しゅうとめ」ではなく、「(母方の)おじ」・「(父方の)おば」である事を示している。

 何となれば舅(しゅうと)のむすめは妻自身、或いはその姉妹であり、姑(しゅうとめ)の子は妻の兄弟、姑(しゅうとめ)の夫は舅(しゅうと)に他ならず、敢えて「舅」・「姑」を軸にした言い方をする必要は無いからである。


 以上の如く、「舅」・「姑」は基本的に「(母方の)おじ」・「(父方の)おば」と訳すべきであるのだが、時折、現代語の意識からか、短絡的に「しゅうと」・「しゅうとめ」と訳している事例が見受けられる。


 何故、その事に拘るかと言えば、特に「舅」の場合、「おじ」を「しゅうと」と訳す事によって、婚姻を成した両家の関係が生じた時期を見誤る可能性があるからである。

 上に挙げた事例で言えば、魏收の鉅鹿魏氏と崔孝芬・崔孝暐の博陵崔氏に関係が生じたのは、魏收の父である魏子建の時期だが、崔孝芬が魏收の舅(しゅうと)と誤認すると、魏收の妻の出自(父)が異なるだけでなく、魏氏・崔氏に関係が生じたのが魏收の代であったと誤認しかねない。


 『晉書』卷三十六に傳が有る張華は「少孤貧」とされるが、「鄉人劉放亦奇其才、以女妻焉。」と同郷の劉放(『三國志』卷十四)が彼の才を見出し、その女を娶せている。張華は後に三公の一、司空まで至っており、それは劉放の推挽の結果というわけではないが、彼の張華への評価が正しかった事を証している。

 将来有望なものを婿に迎えるという事例は散見するが、仮に異例の出世を果たした人物の「舅」がいたとして、その「舅」を「しゅうと」とした場合、その異例の出世を果たした人物、上で言えば張華を見出したのは、舅(しゅうと)の劉放という事になる。

 だが、「舅」とある人物が舅(おじ)であったならば、見出したのは「舅」の父である可能性もあり、見出されたのも異例の出世と果たした人物当人ではなく、その父となり、出世も当人の才覚ではなく、舅(おじ)の身贔屓の結果という可能性も生じる。


 この様に、舅(おじ)を舅(しゅうと)とすると、婚姻で結び付いた二つの家に於いて、その関係の契機や、その成員の経歴などに誤解を生じる可能性がある。

 「六朝」、殊に南北朝時代は「貴族」、中国で云う「門閥士族」の時代ともされ、家系が重要な意味を持ち、その結び付き、婚姻に対しても正確な把握が必要であり、その為にも家族関係の用語については正確な取り扱いが必要と考える。

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