中 擦り切れたビデオテープと人間性

 私の人生で最大の過ちは何であるかと訊かれたら、それは産まれたことである。しかし、それではただの反出生主義の思想を並べるだけであり、議論の余地がなくなってしまう。

 ならば、私の生まれた後の人生で最大の過ちは何であるか。そう考えた時、やはり思い出すのは中学校三年生の日々だった。


「こちらが定期テストの、こちらが県内模試の結果です。りんさんは校内でもトップクラスの成績であり、来年の頑張り次第では上位校を目指せると思います」

 中二の秋、三者面談の日。全ての始まりが何であるかと訊かれたら、私はこれを答えるであろう。

 先生の言葉に驚く母、私の成績が校内で良い方であることは知っていたが、県内でも良い方であったことは母に大きな衝撃を与えた。

「そ、そうなんですか!? 良かったわねりん!」

 母の喜び様は凄かった。高卒の母は、自身が学生だった頃、成績は下の下だったそうだ。

 面談が終わっても母は上機嫌だった。家族揃っての夕飯の時も、それは続いていた。

「そうか〜よくやったりん! お前は家の誇りだ!」

 父も話を聞くと同じ様に喜んだ。

「それで優里ゆうりさん、りんを塾に通わせるのはどうかしら」

「おお、良いんじゃないか。成績が上がれば、あの宮浦第一高校みやうらだいいちこうこうにも入れるんじゃないか?」

 宮浦第一高校みやうらだいいちこうこう、通称「宮高みやこう」は、県内でトップクラスの高校である。男子校の大和高校やまとこうこうと女子校の宮浦女学院みやうらじょがくいん、そして共学の宮浦第一高校みやうらだいいちこうこうは県内公立高校の御三家と呼ばれる程に高レベルな学校であると知られている。ただ、近年では宮高みやこうはそこまでの実績を挙げることが出来ず、他の高校の方が偏差値が高かったりするのが現状である。

「塾に行かせるなら良い塾があって……これね」

 そう言って母はスマホを見せてきた。それは近所の進学塾————と言っても個人経営の塾であるが、その進学実績は折り紙付きで、去年は宮高みやこう生を七人も輩出したという。さらに、他の有名高校にも多くの人を輩出していた。

「十二月に入塾テストがあってね、それでクラス分けをするらしいの。クラスはA、B、Cの三つと、特進の計四つに分けられていて、特進に入ると月謝が安くなるんですって」

「それは良いな。金が浮いて、なおかつ質の高い教育が受けられるなんて、是非入ってもらいたいな。ま、りんなら大丈夫だろう」

「取り敢えず、十二月の二回目の日曜日にテストをするそうだから、予定空けといてね。それまでテスト勉強をすること。期末テストの勉強もね」

 話はトントン拍子に進み、そして終わった。私は軽い返事と、ごちそうさまの挨拶だけをして部屋に帰った。

 勉強机に向かい、デスクライトに手を伸ばす。辺りが照らされ、デスクライトのそばにあるのそばにあるニュートンのゆりかごが目につく。これは小学校六年生の時に友人から貰ったもので、それ以来大切にしているものだ。その友人は中学受験をしたので、今となっては疎遠になってしまった。このニュートンのゆりかごは、球に動物の絵柄が印刷されていて、とても可愛らしい造形となっている。私は勉強前にこのゆりかごを揺らすのを日課としていた。

 シャーペンを手に取る。少し塗装が取れてきたこのシャーペンは、もう私の手の一部となっていた。筆が走る。連立方程式、化学反応式、歴史年表の穴埋めに英文の並び替え、文章読解。終わる頃には日付を跨いでいた。

 布団に入るとすぐに寝てしまった。考え事をする時間さえ無かった。

 冬、十二月に入ってからというもの、「気温が急激に低下し、風邪を引きやすくなっている。気を付けるように」と先生が朝の会で口酸っぱく言っていた。入塾テストの為には勉強も健康も両立させる必要があった。

 毎日の勉強前のルーティンに、暖房を付けることが追加された。部屋が暖かくなる。そうなると気になるのは隙間風だった。部屋のどこかから吹く隙間風は、度々私の首に氷のやいばを投げるのであった。

 私は窓と扉に付箋を挟んだ。もし隙間風が吹くようであれば、付箋は飛ばされるはずである。一時間程経って、両方の付箋を見ると、窓の方は変わりがなかったが、扉の付箋はその場に落ちていた。

 私は母に扉の建て付けが悪くなっていることを報告し、その日はそのまま寝た。

 気がつけば私は塾に居た。いつのまにか来てしまったのだ。入塾テストの日が。

 始めの合図で冊子をめくる。目に入る既知の単語の数々、それらは私に問題の答えを教えようとしていたが、私は理解することが出来なかった。知らないとは、分からないとはこういうことなのだと理解した。

 覚束ない足取りで家に帰る。夕食では両親からテストの手応えを訊かれた。私は「程々かな」と曖昧な返しをした。それには保険も含まれていた。

 月末に結果が返ってきた。合格————三月からCクラス、そう書かれてあった。つまり、私は入塾テストに滑り込んだというわけだ。点数はどの教科も平均に及ばず、全体では最高点の半分くらいだった。

 結果を両親に見せると、少し厳しい顔をして小声で何かを話し合った後、笑顔になって

「まぁ、こんなこともあるさ。これから頑張っていけばいいよ」

 と言った。その笑顔は笑っていなかった。

 塾は週三回、月と水と金にあり、それぞれ五十分の授業を三回ずつ行った。授業の進度は学校の二倍で、難易度も二倍だった。塾の授業はその都度多量の宿題と小テストを出した。それと学校の課題をすれば放課後や休日の時間は全て無くなり、予習とか趣味とかをしている暇は無かった。友達とは疎遠になっていった。

 でも、良いこともあった。模試の点数と順位が上がったのだ。その結果を両親や先生に見せると、みんな喜んだ。ただ、それは長く続かなかった。

 十月の模試、私の点数は前回より少し下がった。十一月の模試では、点数が上がる教科もあったが、全体的に点が下がった。十二月の模試では点が上がった教科は無かった。

 評価は人それぞれだった。「点数には波があって、今がそういう時期ってだけ」と励ました国語の先生、「良くない傾向にある」と警告した英語の先生、そして無言で結果を持って行った両親。みんな変わってしまった。

 ある日、机に違和感を覚えた。あるはずの物が無い。それは友達から貰ったゆりかごだった。もしかしたら落としてしまったのかもしれない。そう思って辺りを探したが、結局見つかることはなかった。それは数日経っても変わらなかった。

 その後、私は母にゆりかごがどこかに落ちてないかを尋ねた。母は淡々と答えた。

「ゆりかご? ————あー机の上のあれね。捨てたわ。あなたが勉強中にあれを弄っているせいで成績が落ちてしまったのでしょう? 勉強の邪魔になるものは捨ててしまいなさい」

 それに対して私は何か反論したかったが、日々の勉強のことを考えると、そこに時間を割くわけにはいかなかったので、私は軽く返事をするだけだった。

 机は広くなった。そして彩度を失った。その隙間は増えた参考書が埋めることになった。

 どんな出来事があろうと、二月の受験の日が遠ざかることはなかった。私立に落ちても、英検に落ちても、「公立入試まで〇〇日」の日めくりカレンダーは私を急かした。私立進学組が校庭で遊んでいる日も、私は塾の課題に追われた。

 気がつけば二月末、公立入試は瞬きの内に終わった。終わってしまった。あっという間だった。志望校の校門を出て、うっかり足が脱力して倒れそうになるのを堪えながら最寄り駅へ向かった。

 途中、バッグの中にあるお菓子のことを思い出し、箱を開け、歩きながら食べた。元々のお菓子のパッケージに、少しマーカーで書き足して「TOPPA」となったこれは、今日の朝、自宅最寄りの駅で塾の先生から験担ぎとして貰った物だった。試験の合間の昼休憩で食べるよう言われていたが、すっかり忘れてしまっていた。

 一口パキっと口に入れ、咀嚼する。あまり好みの味ではなかった。でも、最後までチョコはたっぷり入っていた。

 後日、塾へ赴き、自己採点をしたところ、公立入試の点数が四百点程で、受かるか受からないかの瀬戸際だと塾の先生に言われた。私は結果が発表されるまでの約二週間、怯えながら過ごすこととなった。その間、親は常に機嫌が悪そうだった。

 そして結果発表の日、私はパソコンの前に座っていた。結果が表示される————『合格』と、パソコンの液晶は言った。後ろで見ていた親は喜んだ。自分たちの努力の勝利とか、今日の夕飯はドン勝とか、色々なことを言っていた。それに対して私は黙っていた。受かっても受からなくても、どっちでも良かった。受かったら受かったで、それはそれでいいし、落ちたら、その時は自殺するつもりでいたから、苦しむことは無かっただろう。

 三月末、トントン拍子に進む入学準備を、私はただ眺めていた。私は入学して直ぐに行うテストの対策をしていた。そんな中、私はスマホを与えられた。今まで、なんだかんだで必要無かったスマホであったが、流石に高校生となったら必要だろうとのことだった。

 私をスマホの電源を付け、画面を覗き込んだ。ブルーライトは、少し眩しかった。


「えーいいですか? みなさん、よく聞いてくださいね。古くの宮浦第一高校みやうらだいいちこうこうは、別名を『みやこ』と言うように、県内、国内トップクラスの進学実績を誇っていました。しかし、今の宮浦第一高校みやうらだいいちこうこうは、他の御三家はまだしも、そこらの私立高校よりも悪い進学実績を叩き出しています。みなさんがこの悪習を断ち切り、そして我らが宮浦第一高校みやうらだいいちこうこうの栄光を奪還してくれることを切に願っています」

 四月、入学式から始まる新生活は、私に新しい重圧プレッシャーを与えることからスタートした。

 新学期始まって早々の歓迎テストは、全体の中ほどという、良くもなく、悪くもない微妙な結果となった。それを見た親は、大きな息を吐いて、まぁ、これからだな、とだけ言った。

 一方、友達作りの方は盛大に失敗した。元々友達を作るのが苦手だったのもあるが、流石進学校というべきか、みんなコミュニケーション能力が高くて、気がつけばグループが形成されていた。

 私は教室の隅で————と言っても、最前列であるが————そこで本を読み、予習をし、昼ご飯を食べた。勿論、一人で、だ。

 私の人生が変わったのは————私がレールを踏み外したのは————五月、中間テスト三週間前の日、私はSNSを始めた。親に許可されたわけでなく、こっそり始めた。ただ、SNSがどういうものかよく分からなかったので、とりあえずSNSを眺めてみることにした。

 内容は様々だった。芸能人の不倫とか、人気アイドルグループの傷害事件とか、幸せ自慢に不幸自慢、この世のありとあらゆる闇を詰め込んだ蠱毒こどくのようだった。

 折角始めたのだから、何か投稿しようかと思った。最初は自己紹介をした。その次からは日記を付けるようになった。近況報告と自己の整理、その過程で、私は自分の本心————無意識に近づいていった。

 気がつけば、私の日記には「辛い」とか「辞めたい」といったマイナスなワードばかりが羅列していた。憂鬱を吐いて捨てた痰壺は、日に日にその底が見えなくなった。

 それは悪いことではなかった。私が膿を出すごとに、その内容にいいねが付いたり、同情のコメントが寄せられた。私は一人じゃない、認めてくれる人がいるんだ。そう思うようになった。

 ある日、一通のメッセージが来た。知っている人だった。名前を「なぎ」と言う、SNSでフォロー・フォロワーの関係にある、つまりは知り合いだ。本人曰く、「売れないバンドマン」で、うだつが上がらない生活を送っているとのこと。それで、肝心のメッセージはと言うと、当たり障りの無い内容で、私のことを心配してくれていた。

 それがきっかけで、なぎさんと話すようになった。最初は適当に表面の話を、次第に深く深く入り込んで、私達はお互いの中身を曝け出すようになった。

 会話ログには陰鬱な内容ばかり並ぶようになった。それで良かった。私は幸せになれた。

 心の膿を吐き出して、軽くなった体は、翼を持ったかのように躍進した。私は勉強を頑張り、成績を上げることが出来た。親は成績表を見ると、大いに喜んだ。しかし、それは私の心を動かさなかった。どれだけ親が喜ぼうと、ご褒美としてプレゼントを渡そうと、それらはなぎさんからの「頑張ったね」には遠く及ばないのだ。私はなぎさんの言葉一つで、どこまでも飛んで行くことが出来た。そう、あの日までは。


 忘れもしない九月十三日のこと、私はなぎさんのライブに招待された。そこまで大きくないライブハウスで、彼はカバー曲を歌った。別に、テレビとかで見るシンガーソングライターとかと比べると、物凄く上手という訳ではなかったと思う。でも、その時の私からすると、その時間は夢のようで、非現実を生きているようだった。

 ライブが終わっても、私はまだ夢の中にいた。なぎさんから、「外、歩かないか」と誘われ、私達はライブハウスの外に出た。

 繁華街のネオンの下を歩く。なぎさんは慣れた感じで、私は少し緊張した感じで、大通りを、そして一本逸れた脇道を進んだ。

 突然彼が立ち止まって、「少し休まない?」と提案してきた。見上げると、そこにはそれ専用のホテルがあった。私は流されるまま、そこへ入っていった。



 そこで、私は食べられた。



 ベッドに乗せられ、そのまま。甘い口車に乗せられ、快楽の赴くままに従った。と言っても、実際は痛かったのだが。ともあれ、私は夢を抱いて、夢に沈んだ。

 その後、深夜三時頃に私達は解散した。家に着いたのは早朝五時くらいで、親はまだ寝ていた。朝、親が起きてきて、「昨日何時に帰ってきたの?」と問われたので、適当に取り繕った。

 特に他の出来事は起こらなかった。私が朝帰りをして怒られることも、凪さんから体を求められることもなかった。全ては平和だった。

 違和感に気付いたのは、あれから二ヶ月程経ってからだった。生理が来なくなった。始めは気のせいだと思っていた。でも、度重なる体調不良と生理の停止、そして胸と腹の膨らみが、私の状態を明確に示した。



 そう、私は妊娠したのだ。



 勿論、子供が欲しかったから妊娠したわけではない。言うなれば、「望まない妊娠」というものである。

 妊娠をした以上、私は選択をする必要がある。このまま子供を産むか、堕ろすか、だ。私としてはどっちでもよかった。ただ、これは私だけの問題ではない。その子供は私と凪さんの子供だ。同じ親として、なぎさんにも決定権がある。それに、もし出産するなら、親の助けも必要になる。つまり、私はこのことを誰かに相談する必要があった。

 とりあえずなぎさんには言った。メールで「妊娠した」と簡潔に送った。既読は付かなかった。親には言えなかった。言い出すことが出来なかった。親が喜ぶのは孫の顔じゃなくて、好成績の模試の結果表だろうと思った。つまり、親からすれば、勉学の邪魔になるは要らないのだ。そのとは、私の子供のことであり、同時に子供である私のことでもあった。

 そのまま、何も事態が変化しないまま、ただ時間だけが過ぎていった。私は自分の腹に子供と焦りを抱えて、重い体に鞭を打ち、何事もないかのように振る舞った。それがバレることはなかったが、日を追うごとに隠すのが困難になった。

 気がつけばあの日から五か月、調べてわかったのだが、中絶は妊娠してから二十二週になるより前にしなければいけないらしい。タイムリミットは一週間と少しまで迫っていた。あれから三か月、なぎさんは音信不通となったままだった。親にはまだ話していなかった。言うべきか、言わないべきか、それが問題だった。早朝のまだ薄い朝日を浴びるたびに考える。自分にとって都合の良い妄想、それは優しいみんなに囲まれた私、子供が産まれでも依然変わりなく、いや、もっといい関係になって、私と子供、父と母、そしてなぎさんの五人で食卓を囲む。他愛もない話をして、温かいご飯を食べる。いつの日か夢見た光景。一歩踏み出せばそこにある。だが、その夢は消えた。水溶性だろうか、滲みゆく空間、歪んだ壁、顔の模様が崩壊した家族、雨、雨、雨。そっか、今、雨が降っているんだ。一月末、妊娠二十二週となった日、天気は雨、私は外で、冷えた夜を吸っていた。

 もうどうしようもなかった。選択肢は死んだ。道は示された。私は子供を産む。これに拒否権は無く、同時に祝福も無かった。私が妊娠していることは、親にバレた。二月の中旬のことだった。父は言った。「今からでも遅くはない。中絶しよう」と。そして立ち上がり、私の腹を力任せに殴った。それを見た母は急いで仲裁に入った。私は二人の喧嘩を横目に家を出た。家を出る直前、私の行動に気付いた父が、吐き捨てるようにこう言った。お前は家の面汚しだ。今すぐ死んでしまえ、と。私はその言葉を聞き、一瞬ドアハンドルを押す手が緩んだが、その言葉から逃げる為、覚悟を付ける為、勢いよく扉を開け、落日の赤黒い空に駆けた。空は暗くなり、私の零した気持ちも乾いてしまった。

 スマホと有り金全てを握りしめ、電車に乗って、夢を追った。あの日、忘れもしない九月十三日の日、その日の私が見た、煌めく夢の再演を、私は求めていた。

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