5
何度か道を曲がり、家の間の隙間をすり抜けながらがむしゃらに走っていると、不意にパッと視界が明るくなった。
「で、出られた⁉」
足を止めて振り向く。高い屋敷の壁の上に広がるのは白い雲が浮かび漂う青い空。先程まで頭上を覆い隠していた黒く分厚い雲は影も形もない。
「良かった……」
試しに少し後ずさりしてみたが、景色に変化は見られない。恐らく一度ネコマタの認識から外れれば、改めて認識されるない限りまた幻術に捕らわれることはないのだろう。ホッと胸を撫で下ろした所で、重大なことに思い至った。
「入り口、どっちだっけ」
その場に立ち尽くしたメルシアは呆然と呟く。ここは大きな屋敷や小さな小屋が建ち並び、ただでさえ視界が悪く、道も込み入っている。入り口から先程ロキと別れたところまでの道程も大分危ういことに加え、走ることに夢中でさっきまで自分がどういうルートを走ったのか、殆ど覚えていない。
鞄からもらっていた地図を出して眺めるが、地図というものは現在地が分からなければ役には立たない、ということを改めて実感して終わりだった。地図を眺め、周囲を見渡し、メルシアは大きな溜息をついた。
「駄目だ。私、全然何も出来てない」
とはいえずっとここで立ち止まっている訳にもいかない。危険を侵してメルシアを逃がしたロキは今ネコマタと対峙している。
私の所為でロキさんが大怪我を負うような事になったら。
脇腹に手をやれば、裂けた傷口がズキリと痛む。爪がかすった程度でこれだけの傷が出来た。ロキは『場数を踏んでいる』といったが、危険なことには絶対変わりがない。
「よし」
パン、と両手で頬を叩き、地図にもう一度視線を落とした。先程まで居た場所にあたりをつけ、できる限りどう走ったかを思い出しながら現在の大体の位置を探る。
メルシアの考えが間違っていなければ、恐らくこちらが入り口の方角だ、と目算した方向に向かって小走りで駆けだした。道が入り組んでいるので、気をつけないとすぐに方角が分からなくなる。方位磁石を持っていれば、と心中で呟き、道を曲がると、不意に見覚えのある道が視界に飛び込んできた。視界を巡らせると、道の隅には既に作動している罠と、近くには魚が置いてある。少なくとも最初に通った道には帰って来れたようだ。安堵し、もう一度地図を確認しようと鞄に手を入れようとしたその時、視界の端で白い何かが動くのが見えた。
振り向くが、そこには何もいない。いや、でも、今確かに。
鼓動が早まり、全身に緊張が走る。メルシアの記憶違いでなければこの場所はロキと別れた場所とそう離れていない。
なるべく音を立てないように身を屈めて白い影の見えた方向にじりじりと動く。途中、罠の近くにさしかかった時、咄嗟に罠を外して皮の部分を手に持った。魔封石の粉末が塗布された皮だ。何かの役に立つかも知れない。
家の角から顔だけ出して様子を窺う。開けた道には、何も居ない。残念な気持ちと安堵する気持ちが混ざり合い、大きな溜息をしようとした次の瞬間、メルシアは慌てて息を止めて目を見開いた。
植え込みの影から猫の尻尾が二本、にょっきりと生えていた。白と黒と茶色とが散っている尻尾は毛が膨れて通常の猫の尻尾より大きく見える。
メルシアは逡巡する。このまま逃げるべきか。いや、ロキの指示を考えれば今すぐに逃げるべきなのだろう。逃げて、ライラプスという猟犬集団と合流するべきだ。でも、今、ネコマタの潜んでいる植え込みとメルシアとの距離は、十メートルも離れていない。この場から迂闊に動いて気がつかれたら。いや、気がつかれずとも、入り口はネコマタの居る道の方角にあるのだ。違う道を通るにしても、万が一ネコマタと鉢合わせる事になんかなったら。
ぐっと手に力が籠もる。考えが纏まらない。グルグルと色々なことが脳内を駆け巡る。何が最善か。自分の取るべき行動は。ロキさんのために、ネコマタの為に何が出来るか……。
唐突に、なんの前触れもなくパタリと尻尾が倒れた。植え込みから前脚が突き出る。その脚は遠目にも妙に骨張って細いのが分かる。それに、前脚が飛び出しているのは地面すれすれの位置だ。まさか、倒れているんじゃないか。
そう思った瞬間、考える前に身体が動いた。建物の影から飛び出して植え込みに駆け寄る。ネコマタも足音に気がついたのだろう。植え込みから飛び出し、全身の毛を膨らませてメルシアを睨み、シャーッと威嚇の声を上げた。ドロドロと不気味な音が鳴り響き、周囲の空気が暗く沈んでいく。
しまった、考え無しな行動を、と臍を噛んだが後悔先に立たずである。メルシアは体勢を低くして、目を合わせないようにしながらネコマタと距離を取ろうと後ずさった。目の前のネコマタの身体が物理的に膨れ上がる、が、どうも様子がおかしい。
ロキと一緒に居たときは夜中と思うほどの暗さになったのに対し、今は夕暮れほどの暗さで変化が止まっている。目の前のネコマタも、普通の猫より二回りほど大きいか、という程度の大きさのまま、威嚇を続けたまま、メルシアに攻撃をすることもなくじりじりと後ずさり続けている。
ロキに渡されたネックレスのおかげか、と思ったが、見ればどうもネコマタの様子がおかしい。足元はふらついているし、膨れた毛で分かりづらいが、恐らくかなり痩せ細っている。
メルシアが警戒しつつネコマタから目を逸らさず居ると、ネコマタはゆっくりと、更に一歩後ずさった。ロキの言葉が不意に脳裏に蘇った。
『考えてもみろ、いきなり住み慣れた故郷から遥か遠くの見知らぬ地へ連れてこられ、仲間もいない一人きり。おまけに、見なれた人間とはどこか異質な生き物が自分を捕まえようと罠を張り、追いかけてくる。恐怖以外の何ものでもないだろう』
ロキの言うとおりだ。目の前にいるのは、確かに恐ろしくて危険な幻獣かも知れないが、それ以前に人間に怯え、自分の身を守ろうと必死になっている痩せて消耗しきったただの動物なのだ。
「だ、大丈夫だよ」
殆ど無意識のうちに声が出た。
「大丈夫。脅かしてごめん。私はあなたに危害を加えない。絶対」
なるべく優しい声を心がけながらネコマタに言葉をかける。相変わらず周囲の空気は暗く沈んでいるが、時折ノイズが走るように景色が揺らぐ。ネコマタの爛々と輝く目が揺らぎ、一瞬逸らされた。逃げ場所を探しているのだろう。でも、ここで逃げられたら、猟犬が差し向けられる。この怯えきったネコマタにこれ以上怖い思いをさせたくない。その一心で必死にネコマタに話しかけた。
「待って、お願い、逃げないで。逃げたらもっと怖いことになる」
メルシアの言葉にネコマタの姿がぶれて歪む。見開かれた目がメルシアを窺うように見つめた。
「ごめん、怖いよね。でもお願い、逃げないで。嫌なことも怖いこともしないって絶対約束するから。あなたを助けたいの」
皮を巻き付けた手をネコマタに伸ばす。ネコマタは一度身を引いたが、少し体勢を低くし、鼻先を伸ばした。膨らんでいた毛のボリュームが少しだけ落ち着く。
「ああ……!」
安堵の吐息を漏らし、手を更にネコマタに近づけたが、ネコマタは逃げなかった。警戒しつつも、前脚をメルシアに向かって近づけた、瞬間。
パシュッと乾いた音がして、何かがネコマタに当たった。小さく悲鳴をあげてネコマタがその場に崩れ落ちる。周囲がパッと明るくなった。
「何⁉」
悲鳴を上げてネコマタに手を伸ばして抱き寄せようとしたが、
「迂闊に触るな」
という落ち着いた声がメルシアの動きを遮った。
「あ、ロ、ロキさん」
屋敷の裏から現れたのは、麻酔銃を片手に構えたロキだった。
「幻獣には麻酔の効きが悪い種も、『麻酔』を理解した上で人間を欺く種も少なくない。触れるのは確実に意識を失っているか確認してからだ」
手でメルシアに下がるように指示したロキはネコマタの近くにしゃがみ込み、少し観察した後、背負っていたザックから皮の拘束具を取り出し、手早くネコマタに装着し、布に包んで抱き上げた。
「あの、ロキさん、その……」
「指示を守らなかったことはいい。初めての場所でありながら地理を完璧に理解している前提で指示を出した私のミスだ」
ロキの声は淡々としている。
「それより、ネコマタに不用意に近づいたことが問題だ。幻術を操る東国幻獣は危険だと話しただろう。最悪、君はあの場でネコマタに八つ裂きにされる可能性すらあったんだ」
「はい。申し訳ありません」
メルシアは頭を下げた。反論の余地はない。興奮が冷めて頭が冷えれば、自分がどれだけ危険な行動に出たのかは明白だ。それに、メルシアに何かあれば実習生を受け入れたロキ達にも責任が及ぶのだ。結果として良い方向に向かったのは事実だが、それでも考え無しにネコマタの前に飛び出すべきでは絶対になかった。
「自分の立場を客観的に考えろ。君は新人以前に実習生。経験も知識も未熟。出来ることに限りがあるのは当たり前だ。出来ないこと、してはいけないことを無理にするべきではない」
ロキの言葉にメルシアは更に深々と頭を下げる。はあ、と溜息が聞こえて、メルシアは身を縮こまらせた。しかし。
「だが、今回スムーズに、余計なストレスを与えることなくネコマタを捕獲出来たのは間違いなく君の手柄だ。下手に騒がずネコマタに対し体勢を低く保ち、極力目を合わせず動作はゆっくりと、という行動も正しい。魔封効果のある罠を咄嗟に回収して手に持ったのにも驚いた。よくそこに気が回ったものだ」
先程までと変わらぬ淡々とした言葉でロキは言葉を続ける。
思わぬ言葉に、弾かれた様に顔を上げれば、ロキの端正な顔が笑みを浮かべてメルシアを見下ろしていた。
「危なっかしい部分は否めないが、よくやった。ありがとう」
「あ、ありがとうございます!」
憧れの仕事に初めて参加して、初めて褒められた。じんわりと全身に嬉しさが駆け巡っていく。
「戻るぞ。道中罠の回収を」
「はい!」
元気よく返事をして、歩き出したロキの後に続く。褒められた余韻で、全身がぽかぽかと火照っている様な感じがした。
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