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 一見、何の変哲もない煌びやかな町である。

 豪勢に飾り立てられたレンガ造りの家が一定の距離を置いて立ち並び、色とりどりの花々が植えられた広く大きな庭にはお洒落な白いベンチや机が並べられていて、いい天気の日に此処に座って本を読むのはさぞ気持ちが良いんだろうな、と妄想が膨らむ。

 一つ、大きな違和感があるとすれば人が誰もいない事だ。まあ住民が全員避難しているのだから当たり前だけれど。

「……何も、いませんね」

「そうそう出てきてはくれないだろう。とりあえず、飼い主が逃がしたという所に向かいつつ幾つか罠を仕掛ける。これにかかってくれるようなら楽なんだが」

 ロキは物影に魚や容器に入れた油、マタタビを置きながら罠を仕掛けていく。ネコマタが餌に釣られて地面に隠す様に置かれた輪に足を踏み入れると、中の仕掛けが作動し、輪が締まって獲物を捕まえる仕組みだ。丈夫な革を使用しているし、魔封石の粉末を皮に塗す加工もしているから魔法の仕える幻獣でも捕らえる事が出来るという代物だ。

「隠れてるとしたら探すの大変そうですよね。私の昔住んでた街で誰かの飼ってた猫が逃げだして、全然見つからなくて。三日後にようやっと発見されたんですけど、どこにいたと思います? なんと飼い主の家の煙突の中で。夏だったからよかった様なものの、冬だったら焼け死んじゃいますよね」

「そうだな。煙突の中に隠れられたら正直こっちは打つ手が無い。まさか貴族の家の中に押し入る訳にもいかないし」

 ロキは中空に視線を彷徨わせながらどこか上の空である。メルシアはロキの視線の指す方向を真似して見つめる。どこを見ているんだろう、空……? いや、違う。屋根の上や木の上を見ている。

「そっか、猫は高い所が好きだから……!」

 メルシアは慌てて目線をあげて屋根や木の上を探す。特に木は要注意だ。花が咲き、若葉が芽吹いて木の幹を覆い隠している。奥に隠れていないかしっかり見極めなければ。

「二手に分かれた方が良いかもしれないですね。私、あっち見てきます!」

「駄目だ。実際に幻獣と対峙した事もない人間を単独行動はさせられない」

「……そうですか」

 今にも駆けだそうと力を込めた足に慌てて急ブレーキをかける。勢い余ってよろめいてしまった。

 時間をたっぷりかけてぐるりと周辺を回ってみたが、ネコマタのいる様な気配は感じられない。どこに隠れているんだろうか。

「どうしましょうか、もういっぺん見回ってみますか?」

「そう……だな。次でも見つからなかったらライラプスの到着を待とう」

 もう一度、罠を見回る意味も兼ねて同じルートを辿ってみる。と、すぐにある異変が目についた。

「罠が……!」

 仕掛けた罠が、ことごとく作動している。当然ながら餌の魚や肉、またたび、油は全くの手つかずで、何かがかかっている様子もない。

「やはり駄目か。こんな単純な罠に引っ掛かるとは思っていなかったが、こうも挑戦的な行動に出るとは」

 罠は完全に見破られ、ネコマタには全く効果が無かったようだ。

「ど、どうしましょう!」

「どうもこうも無い。ひとまず――」

 角を曲がった次の瞬間、フッと辺りが薄暗くなった。メルシアの前に伸びていた影が急速にぐんと伸びて動き、そして影よりも濃い闇が辺りに立ちこめる。まるで、日が落ちるのを早回しで見ている様な。

「ロキさん!」

「静かに」

 空を見上げれば先程まで太陽の見えていた空は黒く沈み、朱く燃える炎が点々と辺りに灯った。松明でも点けたのかと思ったが、その火の玉は踊るように揺れ動き、メルシア達の周りを飛び回る。

「こ、これって」

「認識されたな。ネコマタの幻術に取り込まれたようだが――こんな強力な」

 ロキが険しい目つきで睨めつける先には、なんと小山ほどの大きさの猫が立ちはだかっていた。……さっきまで、そこには何もなかったはずなのに。

 二股に分かれた尻尾を膨らませて耳を伏せ、全身の毛を逆立てている。金色の目を不気味に見開き、そして周りには燃え盛る火の玉がいくつも舞い飛んでいた。どこからともなくドロドロと不気味な音が鳴り響いて、巨大な猫の頭上では空が恐ろしい程の勢いでが渦を巻いて動く暗雲に飲み込まれた。ネコマタの吐く炎の様な息がメルシアの所まで届いて、剥き出しの皮膚がひりひりと痛んだ。

「……っ! こ、これがネコマタ!」

 あまりのおどろおどろしい姿に舌先まで出かかった悲鳴を、すんでの所で飲み下す。落ち着け、これはネコマタの見せる幻覚だ。幻覚はどんなにリアルに見えても所詮実態のない幻だと、授業で散々やっている。恐れる事なんか何も無い。

 メルシアは大きく息を吸い込んで、吐き出しながらネコマタの金色の目を見据え、足を踏み出した。多分、本体はそう離れたところにはいないはず。本体の居場所を見極めればそれで終わりだ。ネコマタが大きく前足を振りかぶるのが視界の端に映ったが、かまわず歩きながら視線を走らせた、と、いきなり身体に強い衝撃が走った。

「ボーッとするな、避けろ!」

 少し遅れて、ロキが後ろからまるで突き飛ばすようにしてメルシアに身体ごとぶつかってきたんだ、と理解した。不意を突かれたメルシアは吹き飛ばされて、石畳に激突した。前足が脇腹を掠め、風圧で再度メルシアの身体が宙を舞った。

「いっ、た……。な、何するんですか!」

「速く逃げろ、こんなところで死にたくはないだろう!」

「だって、コレは所詮幻覚じゃないですか! 実際にはこんな……」

 言いかけて、メルシアは自分の脇腹にぬるりとした生温かい何かが伝うのを感じた。

突き飛ばされた驚きと衝撃が引くと同時に、脇腹に鋭い痛みが走る。まるで刃物で怪我をした時の様な――。

「とりあえず一旦物影に隠れる。来い!」

 腕を引っ張られるままに家の陰に隠れた。手で痛むあたりを押さえると、湿った布地の感触がして、離した手のひらにはべったりと血がへばりついていた。

「な、なに、これ……!」

 ロキが救急用品を取り出してメルシアに裾をあげるように指示する。言われるがまま服をたくし上げると、脇腹が大きく裂けていてそこから絶え間なく血がこぼれ続けていた。幸い傷は深くないようだが、痛みが治まる気配はない。手際よく応急処置をしながら、ロキが口を開いた。

「人間は思い込みでいともたやすく死ぬ。実際に焼かれてはいなくとも焼かれたと強烈に錯覚させられた途端皮膚が炎症を起こす事もあれば、切られたと錯覚した途端内側から皮膚が裂ける事もある。私たちのよく知るような幻獣達は物理的な力を重視する傾向が強いのか、そこまで強力な幻術を扱えるものは今の所発見されてない。だが東国の幻獣はむしろどこまで幻術で敵を惑わし、身を守るかという方向に進化している傾向が強い。だからいくら幻術だと自分に言い聞かせてもよっぽどの精神力を持つ人間でもない限り、彼らの幻術に打ち勝つのは不可能なんだ」

「そ、そんなの聞いてないですよ!」

「ああ。私も自身で経験して初めて知った」

 ロキが右手にはめていた手袋をおもむろに脱いで、袖を捲りあげた。手全体が焼け爛れたケロイドに覆われて、皮膚が引き攣れ、変色し、それが肘のあたりまで続いている。あまりに痛々しいその傷跡に、メルシアは思わず息を飲んだ。

「ネコマタではないがこれも東国幻獣にやられた。この傷を負った後に運よく東国の幻獣学者と話す機会があった。その時に聞いてみればこの事実は向こうでは常識だそうだ。そもそもこっちの国に東国の幻獣はまだまだ少ないし、大概は魔力制御具をつけたままなため魔法の詳細な能力が明らかになる事も無い。一応研究センターにデータは送ってあるが、如何せん強力な幻術である分研究がはかどっていないらしく、一般に周知するようになるのはまだしばらく先の事だろうな」

「そんな……!」

 言葉を失うメルシアを見て、ロキは顔を曇らせて長い睫を伏せた。

「まさかネコマタがここまで大規模な幻術を扱うとは。いきなり危険に晒すことになりすまない。迂闊に連れてきた私のミスだ」

「いえ……」

「やはりネコマタとバケネコは同じものなのだろうな。東国幻獣の輸入に制限をかけるよう上に報告せねば」

 ロキは視線を上げると、手をいきなり首の後ろに回した。

「これを」

 チャリ、と軽い音と共にロキの手がメルシアに差し出される。その指の先には銀の鎖と、それに繋がれた紫の石がぶら下がっている。

「あの、それは」

「これを着ければある程度幻術の影響を軽減出来る。この規模を操る東国幻獣相手では気休め程度にしかならないだろうが」

 話が飲み込めず困惑するメルシアに焦れたように、ロキはメルシアの首に手を回してネックレスを半ば無理矢理装着する。

「私がネコマタの気を惹き隙を作る。合図をしたらこの場から逃げろ」

「ま、待ってください!」

 メルシアは小声でロキに詰め寄る。

「私一人だけ逃げるだなんて」

「新人である君に怪我を負わせた。これ以上の危険に巻き込むことは出来ない。それに」

 ロキは言葉を切り、

「私は君より場数を踏んでいる。君が居ない方が私にとっても都合が良い」

 要するに、メルシアというお荷物を守りながらよりロキ一人のほうが良い、という事なのだろうが、『君がいない方が良い』という言葉にメルシアは肩を落とした。……いや、今はそんな場合ではない、と自分に言い聞かせ、顔を上げてロキに視線を向けた。

「分かりました。どっちに逃げればいいですか」

「逃げる方向は何処でもいいが、そうだな、このまま後ろに逃げるのが一番良いだろう。恐らく一定距離を取れば君はネコマタの認識から外れ、幻術から解放される。そうなれば一先ず危険は無いはずだ。幻術を抜けたらこのサンリカルドの入り口に迎ってライラプスの到着を待て。私がバケネコと応戦中と伝えれば事情は伝わる筈だ」

「……あの、ロキさんは大丈夫なんですか?」

「ああ。恐らくそこまでの大事に至らん。強力な幻術とは言え出来ることには制限があるのだろう。今この状況で殺されていないのがその証左だ。それに……」

 ロキは家の影から少しだけ顔を出し、ネコマタの様子を窺う。

「あれは攻撃というより防御だ。怯えているのだろう」

「防御?」

 聞き返すとロキは頷き、

「ネコマタに私達への敵意があるなら、そもそもここでぐだぐだと話している余裕など無い。最初の攻撃も君が近づいた時のあれだけだ。考えてもみろ、いきなり住み慣れた故郷から遥か遠くの見知らぬ地へ連れてこられ、仲間もいない一人きり。おまけに、見なれた人間とはどこか異質な生き物が自分を捕まえようと罠を張り、追いかけてくる。恐怖以外の何ものでもないだろう」

目元を微かに歪めて呟くように言う。

「本当はライラプスを差し向けるのもやりたくはなかったんだがな。そうは言ってもいられないようだ。そろそろ動くぞ。準備は大丈夫か」

「はい! いつでも走れます」

 唐突な問い掛けに慌てて首を上下に振ると、ロキは微かに口の端に笑みを浮かべる。

「行くぞ。走り出したら決して振り向くな」

 ロキの長い指がスッと立ち、視線が邂逅する。

 ぱちりと瞬きをした次の瞬間、ピッと指が倒された。メルシアは勢いよく地面を蹴り、ロキの示した方向に向かってダッシュする。背後でロキも家の影から飛び出したのだろう音がして、一拍おいて激しい音が響いた。

「ロキさ……っ!」

 思わず振り返りたくなったのを堪え、メルシアはグッと視線を前に向けた。ロキの足を引っ張るわけにはいかない。そう心中で呟き、地面を蹴る脚に力を込めた。

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