私の歌が、あなたと共に

灰月 薫

 

「皆様、神に敬虔な祈りを」

 重く錆びた鐘が音を立てていく。高い鐘の音は、僅かな音程のズレを幾重にも織り重ねていった。

 不協和音。

 毎朝のことながら、この音が外に漏れてやしないか心配になる。

 万が一にも漏れていたら——私たちは間違いなく砲撃の雨に貫かれるから。

 私は掌を合わせながら、静かに首を垂れた。何百人も集まった人々がそうするように、私の隣の少女がそうするように。

「祈りが届けば、神は我々に味方するはずです。神は我々の主であられるからです。神は——」

 どこか狂信じみた聖典が朗々と読み上げられる。

 鐘の不協和音も聖典の内容も好きではないが、この厳粛な雰囲気は嫌いではなかった。

 それに、今は隣にルルがいる。私はゆっくりと瞼を閉じた。

「……ナルちゃんの歌が、なくなりませんように」

 暗闇の世界で聞こえたのは、微かな呟きだった。

 私はそっと片目を開いてルルの方を伺う。

 この幼馴染は、手を必死に擦り合わせながら何やら難しい顔でこの言葉を繰り返しているのだった。

「ナルちゃんの歌が、なくなりませんように」

「ルル、怒られるよ」

 私は小声でルルを咎めた。

——今は、戦争に勝てるように神に願う時間だ。

 私たちの国が隣国に仕掛けた戦争——ニュースでは隣国から仕掛けられたと言っていたが、強欲な大臣の事だ。こちらから手を出したに違いない。最もそれを口にしようものなら明日には私は肉塊になるのだろうが——その戦争の勝利を願う、朝のお祈りの時間。

 だというのに、ルルと言ったら。

「えへへ、だってナルちゃんの歌が消える方が嫌なんだもん。

ナルちゃんの歌、大好きだから」

 こうやって、だらしない笑顔を私に向けるんだ。

「神様は慈悲深いお方だから、きっとわたし一人が違うお願いしたって両方叶えてくれるでしょ」

 言うだけ言って、ルルはまた目を瞑る。

 長い長いお祈りの時間は、こうやって毎朝過ぎ去っていった。





「ナルちゃん、また歌って」

 暗く小さな部屋の中で、ルルが言った。

「……今じゃなくて良いんじゃない」

 私は外を覗きながら言う。

 固く閉じられたカーテンの隙間から、目だけを出す。空が赤かった。赤い空を埋め尽くす飛行機が、次々と黒い雹を降らしていく。

 黒い雹は地面にぶつかるや否や、空と同じ色の花を咲かせた。

 ……また、空襲だ。

 私たちの国は、隣国よりも軍事的には強かったはずだ。しかし、隣国に軍事連携を申し出たのは遠くの巨大な国だった。

 私たちに勝ち目は無い。一介の少女ですらそうと分かってしまうほど、戦況は悪かった。

「歌ってよ、すごく怖いの」

 ルルが部屋の隅でもう一度言う。

「それに今は、飛行機の音でナルちゃんの声は外に聞こえないよ」

 怖がって震えているくせに、どこか据えた目で言うものだから。

「……分かったよ」

 私は壁に立てかけたアコースティックギターを持った。

 硬いベットの上にあぐらをかき、太ももにギターを固定する。

「ん〜」

 喉の奥を鳴らしながら、試しにCコードを弾いてみる。良かった、調弦は狂っていない。

「隣にいて欲しいって……それだけの願いを……あなたは口先で……呟くのだろう……」

 思いついた言葉を、口に滑らせる。思いついたコードを、指に乗せていく。

 お粗末な歌なのに、拙い歌なのに——それだけでルルの表情が和らいでしまう。

 外の爆撃は未だ止まない。だけどこの小さな部屋だけは、二人の空間だった。

「……私の歌が、死ぬ前に……あなたと共に死ねますように」

 最後の歌詞は、我ながら不穏だなと思う。口をついて出た言葉にすぎないのだから、深く追い求めても意味はないのだろうが。一通り歌い終わってギターを下ろすと、ルルが小さな拍手をした。

「ナルちゃんの歌、やっぱり好き」

 ルルは私が歌い終わると、毎回こう言う。感想らしい感想もアドバイスらしいアドバイスもない。少しも物足りなくないと言えば嘘になるが、ルルらしい言葉だと思う。

「ご飯にしよっか。今日はお米があるから豪勢にできるよ」

「やった、わたしスープ作るね」

 私が立ち上がると、ルルが後から子ウサギのようについてきた。

「ナルちゃん、わたしね。お母さんもお父さんも死んじゃったけど……ナルちゃんが生きてて良かったと思うの」

 お湯を沸かしながら、ルルは言った。独り言のようにも聞こえるが、私に向かって言っているらしい。

「そうなんだ」

「そうだよ!ナルちゃんの歌がなかったら、わたしずっと泣いてた!」

 まぁ、ルルならそうなんだろうな。ルルのご両親が爆撃で亡くなる前から、ルルは泣くと私の元に来た。近所の子にいじめられた〜とか、配給が少なくてお腹がすいた〜とか。

 その度に、私の歌をせがんだ。

 私の下手な歌を聞くと、ルルの涙は引っ込んで最後は笑顔で帰っていく。

 その頃から……ルルはずっと変わってないなぁ。

「ルル、泣き虫だもんね」

「ひどいよ!そうだけど!」

 ルルが頬を膨らませたのは、玄関口で音がしたのと同時だった。

「ちょっとルル、火見といて」

 私はルルに鍋を任せて、玄関先前までにじり寄った。

 まさかとは思うけど、敵軍じゃ無いよね?

 扉に開けた小さな穴から外を覗くと、見たことがある衣装の人々が並んでいた。

 教会の人たちだ。

「なんですか」

 私はドアを薄く開けながら尋ねた。

「成瀬コノミさんですね」

 集団の中でも一番偉そうな人が、私の名前を呼んだ。

 なぜ名前を知ってるの——そう聞こうとしてやめた。教会の人なら、どうにかして私の名前を知っていても不思議じゃない。

「そうです、けど」

 私はドアノブを掴む手に力を込めた。相手から敵意は感じられないが、なぜ私みたいなの元にこぞって来たのだろう。

 聖職者は、とても穏やかな笑顔を浮かべて言った。

「一緒にお越しください。神がお呼びです」




 教会の中がこんなに広かったなんて知らなかった。

 私は聖職者の群れに囲まれながら思った。彼らが身につけているのは、清潔な白く長い服。対して、私は薄汚れた薄着。

 突然呼ばれたから仕方がないにしても、どこか私は恥ずかしい気持ちがした。

「ここです。どうか神に無礼のありませんように」

 例の偉そうな人の指し示す先には、果てのない闇が広がっていた。照明がないから……いや、そんなものじゃない。それ以上の暗闇。

 いつの間にか、私は小鹿のように震えていた。

「私が……な、何をしたって言うんですか」

 普段お祈りに真剣じゃなかったのがいけなかったのか。神を心から信じていなかったのが原因か。

 しかし、あくまでも皆は穏やかな笑顔を私に向けていた。

「それをあなたの目で確かめるのです。さぁ、さぁ」

 押し込まれるように、私は暗闇に差し出される。ぐっと息を呑んで一歩踏み出した。

 自分の手の先も見えない程の暗闇。

 怖い。まだ体の震えが収まらない。だが、先ほどよりは確かに恐怖が静まっていた。

 目が開いているのか閉じているのかも分からない暗がりを数分歩いたのち、突然目の前が白くなった。

 あまりの明るさに反射的に目を瞑る。恐る恐る目を開くと、そこは真っ白な部屋だった。

 辺りを何度も見回すが、明るい事以外特筆するべきことはない。とにかく明るい、とにかく白い。私は一体どうやってここに来たのか、出口も入口も見当たらなかった。

「成瀬コノミよ」

 上から声が降って来た。そう形容するのが最も伝わるだろうか……真上から小雨が降ってくるかのように優しい声が聞こえてきたのだ。

 お爺さんの声のようにも聞こえるが、若い女性のようにも聞こえる。掴みどころのない声だった。

「……なんですか」

 私は訳も分からずに答えた。

 何となくだが——この声の持ち主がいわゆる“神”なのだろう——そう感じた。

「お前に頼みたいことがある。たった一つのことだ——なに、難しいことではない」

 荘厳に神は言った。

「成瀬コノミ。お前に

 私は耳を疑った。

「音楽の……女神……?」

 思わず呟いた私を無視して、神は続ける。

「数日後、お前の国は全滅する。これはもう決定事項だ。私の干渉するところでなく、お前たちは互いの国を滅ぼしあう。それを発端に、世界に火種が飛んでいくだろう。

……恐らく、残るのは全人類の一パーセントにも満たない」

 声が淡々と告げていく情報が、右から左へと流れていった。

 私たちが、滅びる?人類も?全滅って……ルルも?

 そんなこと信じられない。信じられるわけがない。

「信じなくても良い。ただ数日後には明らかになることだ。

戦争を止めることが出来なかったのは私の力不足だからな——せめてもと、敬虔な信者の願いを一つ叶えることにした」

 敬虔な信者。

 私はそんな人を一人知っていた。

「長谷川ルル。お前も知っているだろう。

彼女はお前の歌が消えないことを願った」

 ……ああ、そうだ、ルルは。

 ルルは毎朝言っていた。

「ナルの歌が、なくなりませんように」

 いつの間にか私は呟いていた。毎朝聞いたルルの声を。

「そこでだ」

 神は私の声を遮って言う。

「そこで、お前を音楽の女神にしようと思う。音楽の女神として永遠を生きながらえば、長谷川ルルの願いは叶う。

お前も死にたくはないだろう。悪くない提案だと思わないか」

 永遠を生きる……?そんな、ルルがいない世界で?

 考えただけでも背筋がゾッとした。

 気がついた時には、私はその場に膝をついて頭を下げていた。感情のまま、叫ぶ。

「ルルは……ルルじゃダメなんですか。あの子の方が私なんかより何倍も清く優しい子なんです!私よりも神さまを信じています!

どうか、私なんかよりあの子を神にしてください!」

 しばらく、怖いくらいの沈黙が訪れた。

「ダメだ。長谷川ルルの願いは彼女が生きることではない」

「そん、な……」

 私は拳を握った。

「返答は明日で良い。神になる決意が出来たなら、明日の朝の祈りの後、もう一度ここに来なさい。もし長谷川ルルと共に死ぬというのならそれでも良い。

よく考えなさい、成瀬コノミよ」

 その後のことはよく覚えていない。

 気がついた時には、私は家に帰っていて、ルルの作ったスープとご飯を目の前にしていた。

「おかえり、ナルちゃん」

 ただ無垢に笑うルルを見て、私の血は凍てついてしまった。





「ねぇ、ルル」

 ついに耐えきれなくなったのは、真夜中の寒気のせいだろう。ベッドに入って一時間。それでもなお寝付けなかった。

 ルルに呼びかけてから、後悔する。寝付きのいい彼女は、もう眠りに落ちてしまっただろうか。

「んん?」

 眠たげにルルが答える。起こしてしまったのだろう。緩やかな後悔を胸に抱きながら、私は聞いた。

「もしさ……もしだけど、私がさ、ずっとずーっと生きていくとしたら……ルルのことなんて忘れちゃうくらい長生きしたとしたら……ルルは、どうする」

 アホか。私は心の中で突っ込んだ。ルルはその時は死んでるんだ。私が永遠を生きる先に、ルルは一度だっていないんだ。そんな彼女に、一体私は何を求めてる?

 そうだ……やっぱりルルと一緒に死のう。世界の終わりで、笑って二人で死ぬ。そうしたら、きっと怖くない。

 だが、ルルはモゴモゴと言った。

「会いに行くよ、ナルちゃんのところに」

「え……?」

 私はルルの方を見る。彼女は目を瞑ったまま、猫のように丸まっている。

「ナルちゃんの歌……分かるもん、わたし。だからね……ナルちゃんが歌ってくれれば、わたし、会いに行くよ」

 耐えきれなかった。

 私はベッドから飛び出した。飛び出して、ギターを掴んで、外に出た。

 何がここまで私を突き動かしたのか、分からない。ただ、“会いに行く”という言葉が強く私を締め上げた。

 夜の刺すような冷たさに飛び出して、私は走った。溶けた鉄の町を走って、少し開けたところに出る。

 ギターのストラップを首にかけて、私はギターを弾き出した。上手く指が動かなくて、汚い音が空気を振るわす。

「ルル!」

 私は吠えた。歌というにはあまりに汚い叫び声だった。

「ルル……ルル、私のルル……!」

 腕は勝手にコードをかき鳴らす。喉は勝手にルルの名前を歌い続ける。

 敵軍の飛行機よ。聞こえるだろう、私を撃ち抜いてくれ。こんな葛藤も苦しみも全部壊してくれ!

 ルルの不確かな言葉に、希望を持ってしまった私を許してくれ!

「ルル……」

 掠れた声で、私は叫び続けた。

 しかし皮肉なことに、その日に限って飛行機は随分と遠い場所を通ったらしかった。




 朝のお祈りの間中ずっと考えていたが、それでもやはり結論は出なかった。

 ぞろぞろと教会を後にする信者たち。最後の二人になっても、私は腰を上げることが出来なかった。お祈り中よりも静かな教会で、ルルが口を開く。

「ナルちゃん、何を見てるの?」

 宙を見据えて考え事をしていた私には、その質問にどう答えればいいかすら分からなかった。

「……未来のこと、とか」

 適当な言葉が口を滑ったが、ルルは随分とそれを都合よく飲み込んだらしい。

「そっかぁ、ナルちゃんらしいね」

 朗らかな笑顔が彼女に浮かぶ。私が毎日見てる笑顔。数日後には死人の顔になる顔。

「ルル」

 私は立ち上がった。

 この際ルルの願い事とか、そんなものはどうでも良い。この笑顔を見てそう思った。

 ただ私は今際までこの笑顔を見ていたい。そのためなら死んだって構わない。

 ほんの数秒前まで絶えず揺らいでいた意思は、ルルの笑顔であっけないほど簡単に固まってしまった。

「帰ろう、ルル」

 ルルは少し不思議そうな顔をしたが、すぐに私の手を取った。

 彼女の小さい手をギュッと握り返しながら教会の外に出る。また空が赤くなっていた。

 空襲だ。

 空を埋め尽くす飛行機は、烏の群れのようでもあった。地面から花火がいくつも咲く。

 私はちらりと横目で私の健気な幼馴染を見遣った。いつもなら震えて動けなくなる彼女は、今日はどこか遠くを見つめていた。

 私の手を強く握りながら、ずっと先を見ていた。

「ナルちゃん、あのね」

 彼女は視線をずらさないまま口を開く。

「わたしね、昨日の夜のナルちゃんの歌、聞こえてたの」

 ぽつりぽつりと、大切な何かを洩らすように彼女は言った。

「わたしの名前をいっぱい呼んでくれてたんだね」

 くすくす、と小さな笑い声が私の耳をくすぐる。飛行機が立てる轟音による耳鳴りだったのかもしれないけど、今となってはどちらか分かりやしない。

「すっごく嬉しかった」

 空の色が反射して、彼女の頬が色付いて見えた。帰途を辿る私たちの頭上を、黒い飛行機が飛び去っていく。

「……恥ずかしいところ、聞かれちゃったな」

 沢山ルルに言いたいことがあるのに、結局私の口から出たのはそんな言葉だった。

「恥ずかしくなんかないよ!

ナルちゃんが世界で一番歌が上手だって、わたしは知ってるもん。

今日も、神さまにお願いしたんだよ」

 一瞬の間を空けて、彼女は例の言葉を繰り返した。

「ナルちゃんの歌が、なくなりませんように」

「やめようよ」

 私はその言葉をかき消して言った。

「やめよう、そんなお祈り」

 ルルは不思議そうなその両方の目を、パチクリと瞬きさせる。

 残忍な私は、彼女に言った。

「そんなことより、戦争に勝てるようにお祈りしよう。明日も一緒にいれますように、ってお願いしようよ。

私はそれで良いんだよ。ルル、私の歌はルルがいなければ意味なんてないんだよ」

 私が歌い続けたのは、ルルがねだり続けたからだ。それ以上もそれ以下もない。

 ルルがいなければ、私の歌に価値はない。

 彼女の歩みは少しずつ遅くなって、やがて止まってしまった。

「ナルちゃん。

わたしね、一昨日神さまを見たんだ。

夢の中に現れてね、お願いを聞いてくれるんだって言ってくれた。だから言ったの。

ナルちゃんの歌がなくなりませんようにって」

 その“お願い”が、私にとってどんなに残酷な意味を持つか、彼女は知らない。

 無垢で、無知で、愚かな彼女は。

「ナルちゃん、わたしのお願いを叶えて。

どうかずっと歌ってて」

 ゴオオ、と耳を揺らす不快な低音。

 ……戦闘機だ。

 そう思う暇もなく、黒い雨が降り注いだ。

「歌って、ナルちゃん」

 銃弾がルルを貫く。あっという間に、彼女の小さな体は肉塊に変わっていってしまう。

 悍ましい光景だった。声を出すことすら叶わなかった。

 だというのに、私は今両の足で地面にしっかりと立っている。ただ確実に生きて、目の前の肉塊を見ていた。

 銃弾をばら撒いた戦闘機は、どこか遠くに飛び去ってしまった。

 後に残されたのは、物も言わない無辜の塊と、優柔不断な人間未満だけだった。

 時が止まったかのような数分——数時間だったかもしれない——の後、私は踵を返した。

 熱病に侵されたか、糸で操られているかのように歩いていく。私は一点を見つめていた。

 白いままの教会に向かって、私は歩みを止めなかった。

「隣にいて欲しいって……それだけの願いを……あなたは口先で……呟くのだろう」


 ルルに歌ったその歌を口ずさみながら。

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私の歌が、あなたと共に 灰月 薫 @haidukikaoru

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