第2話 楢崎よろず探偵事務所


◆◆◆


 事務所の中には、書類が山積みになっている大きなデスクと応接ソファがあった。デスクは龍彦のものだろう。ソファに座っているようにと勧められた。

 部屋の中で一際目立っているのは、おじいさんと時計の童謡で歌われているのにそっくりの柱時計だ。

 やはり全体的にレトロな感じをうける。

 あの気味の悪い影法師がいないことで、あやめはかなり落ち着きを取り戻していた。


「あれ、お茶ってどうやって淹れるんだろ?」


 龍彦に促されるままに皮張りのソファに座っていると、台所からそんな龍彦の声とともに、ガッシャンという不穏な音が聞こえてきた。


「うわぁ、茶筒が!」

「あの……お茶、私が淹れましょうか……?」


 さすがに黙っていられなくて台所に顔を出すと、龍彦が心底嬉しそうに笑った。


「いいのかい? お客様なのに、悪いんだけど」

「お茶汲みなら慣れてます。この急須使っていいですか?」

「もちろん!」

「お茶っぱは……少し残ってますね」


 床に落ちている茶筒を拾い上げると、何杯か分のお茶っ葉は残っているようだった。煎茶の香りが鼻をくすぐる。

 やかんで湯を沸かそうとして、あやめは手を止めた。

 コンロがある。あやめのアパートにあるコンロとほとんど同じ見た目だ。

 けれど、五徳はあるのにガス火をつけるためのつまみが見当たらなかった。


「ごめんよ。その間に僕はこっちの掃除をするから……えぇっと、箒はどこだったかな」

「あの、龍彦さん」

「なんだい?」

「火はどうやって着ければ……?」

「そうか、すまない。ウツシヨとは違うところだった……そこの棚に紅色の符があるだろ」

「符って、この切符みたいなやつですか?」


 棚には小さな箱があった。マッチ箱ほどの大きさの木箱を開けると、見慣れない文字の書かれた切符のような紙切れが入っていた。


「ああ、そうだよ。貸してみて……そらっ!」

「わっ」


 龍彦が「ふぅっ」と符に息を吹きかけ、コンロの上に落とした。

 符が一瞬、小さな蝶の姿になってから、ぼぅっと燃え上がって見慣れた青い火になった。


「この符は、カグツチ様のご利益だね」

「カグツチ様……ご利益……」

「家庭用の火の神様の符、ってところかな」


 龍彦はそう言って、ふんわりと笑った。

 訳のわからないことだらけだが、どうやらこの人は信用できそうだ。

 あやめは手早く煎茶を淹れ、丸盆で二人分のお茶を運ぶ。

 どうにか床掃除を終えた龍彦が、「とっておきだよ」とカステラを出してきてくれた。


「まぁ、ようするに異世界に迷い込んだとでも思ってくれればいいよ」


 真っ黄色のカステラを切り分けながら、龍彦が説明をしてくれる。

 ここはカクリヨ──幽世──といって、霊的な存在があたりまえに存在する世界らしい。ここの住人はあやめの世界であるウツシヨ──現世──からは認知できない。ときどき混線がおきることがあって、その場合は幽霊のように見えるらしい。


「ウツシヨとカクリヨは、すぐ隣にあるけれどお互いに行き来はできないんだ。普通はね」

「普通は、ですか」

「うん。たまにそういう事故が起きるけど、そっちでは神隠しって呼ばれているらしいね……はい、カステラどうぞ」

「ありがとうございます」

「こっちに迷い込んだっていうことは、なにか霊的な素質があるのかもね」

「あー……なるほど……」

「ともかく、僕がたまたま帝都駅にいてよかったよ」

「帝都駅ですか、東京駅ではなくて?」

「そ。こちらでは、帝都駅」


 むぐむぐとカステラを頬張った龍彦は幸せそうに煎茶に手を伸ばす。


「カクリヨの帝都にようこそ、東條あやめさん」


 ふわり、と龍彦が笑った。口の端に、カステラのかけらがついている。

 人好きのする笑顔だけれど、なんだか何かが引っかかるような気がした。

 あやめもカステラを一口いただくことにする。はちみつの風味が豊かで、じゅわっと甘いカステラだった。分厚くて甘い耳には、たっぷりのザラメが使われていて歯触りが楽しい。


「おいしいです」

「それはよかった、お気に入りなんだ」

「ごちそうさまです」

「でも、ウツシヨに帰る手立てを考えなくてはね。君の縁者が心配するだろうから」

「そう、ですね」


 あやめのことを心配してくれる人など、身近にはいないのだけれど。

 会社がまだあれば出勤してこないことを不審に思ってもらえたかもしれないが、今となってはそれも望めない。

 惨めな気持ちになりそうで、慌てて別の話題を切り出した。


「あの、龍彦さんは探偵さん……なんです?」

「うん。しがない探偵だ。迷い猫探しから不貞調査までなんでもやるよ」

「かっこいいですね、ハードボイルドです」

「んー、ペット探しと不倫調査でそう言われてもね」


 あやめは本物の探偵というのに人生で初めて会った。ドラマや小説の中に出てくる探偵そのものといった雰囲気の龍彦は、照れ臭そうに笑う。


「でも、まあ、褒められているのなら、いいか。ありがとう……あとは、ちょっと特殊な案件も扱うけど」

「特殊案件?」

「うん。……ほら、ちょうどお客さんみたいだ」


 あやめが首を傾げると、誰かがドアを叩いた。

 ドンドンという音とともに、テーブルに置かれたランタンの火がゆらりと揺れる。

 ノックのわりには、ちょっと強過ぎないだろうか。地面が揺れているのですが。


「わ……」

「鍵をかけておいてよかったな。あやめさん、えーっと……その姿じゃマズいな」

「え?」

「失礼」


 龍彦があやめの手を取った。

 あやめの手のひらに一枚、玉虫色の符を握らせて、ふぅっと息を吹きかける。


 一瞬、ぽぅっと光った符が、あやめの手に吸い込まれるように消えた。

 されるがままのあやめに、すぐに異変がおきた。


 なんだか頭がムズムズする。

 ついでに、その、お尻も。


 妙な感覚に「ひゃっ」と声をあげてしまう。

 しばらくすると、淡い光に包まれていた視界が、すぅっと元に戻っていった。


「な、なにをしたんですか?」

「これでも探偵稼業だからね、めくらましの符だよ」

「めくらまし……?」

「うん。これでしばらくは、あやめさんはカクリヨの住人として認識される」


 近くに設えてある鏡が、あやめの視界に飛び込んでくる。

 頭頂部から、ふたつ。

 ぴょこんと耳が生えていた。猫とか狐とか、あのての耳が。


「え、な、耳が!」


 まさか、と背後を見る。

 おしりから、尻尾が突き出ている。


「しっぽーーー!!」

「いい反応。でも、静かにね?」


 龍彦が、「しーっ」と人差し指を立てる。


「見慣れないウツシヨ人がいると騒ぎになるからね。最悪の場合、喰われるかもしれない」

「く、喰われる……!」

「あくまで最悪の場合、だけどね。あとは、これで君も周囲の人がよく見えるようになると思うよ。めくらましの符には、存在を少しだけ周囲の気に馴染ませる効果もあるから」

「は? あ、あの」


 あやめがどういうことだと尋ねようとした瞬間、事務所のドアが乱暴に開いた。

 鍵が吹っ飛んで、カランと金属質な音を立てて床に落ちる。


「楢崎探偵、ちょいとよろしいか?」


 轟くような声。

 来客の姿を見て、あやめは石のように固まった。

 龍彦が壊されたドアを一瞥して肩をすくめる。


「うわぁ、乱暴だなぁ……」

「鍵なんぞかけておるからじゃ、わしが来るのに」

「いらっしゃるなんて前もってわかりませんよ、未来視持ちじゃないんですから。相変わらず、理屈も乱暴ですね」

「ぐわっはは、そりゃすまんかった!」

「それでどうしましたか、ヤマモトさん」

「ひ、ひっ……」


 ヤマモトと呼ばれたのは、人ではなかった。

 身の丈が3メートルほどもありそうな、筋骨隆々で、肌が燃えるように赤い──


「お、鬼……」


 鬼だ。どこからどう見ても鬼だ。

 龍彦はあの柔和な笑みを浮かべて、普通に鬼と談笑している。どうやら探偵事務所の客らしい。これがカクリヨの住民ということなのだろうか。


「お? わしは確かに鬼じゃが……見ん顔じゃの」

「ああ、彼女はあやめさんといって臨時のお手伝いさんです」


 ヤマモトは特にあやめを不審がることなく、ガハハと大口をあけて豪快に笑った。

 めくらましの符の効果はしっかりと出ているようだ。


「なんと、隅に置けんなぁ楢崎探偵!」

「ははは、ヤマモトさんほどではないですよ。あやめさん、お茶をお願いできますか?」

「は、はい」


 あやめは探偵事務所のお手伝いさんということらしい。

 もしカクリヨの者ではないとバレたら、喰われるかもしれない。ここは話を合わせておくのがいいだろう。

 自分たちが使っていた湯呑みを片付けて、新しく茶を淹れた。龍彦が派手にこぼしたお茶っ葉は、ギリギリでもう一杯くらい淹れるくらいは残っていた。

 応接セットに座っている龍彦とヤマモトに茶を出すと、あやめをじっと見つめていた赤鬼のヤマモトが上機嫌そうに肩を揺らす。


「ほー、こりゃ美味そうだ」

「わ、わたしっ、おいしくありません……」

「む?」

「あやめさん、ヤマモトさんはお茶の話をしてるんですよ」

「失礼しました。あの、美味しく淹れられたと思います……」


 普段のあやめであれば、この失言ですっかり萎縮して震えていただろう。

 けれど、今は不思議と堂々と背筋を伸ばすことができた。めくらましの符の効力なのだろうか。


「それでのぅ、楢崎探偵。依頼というのは他でもない……このあたりに、妖魔が出た」


 妖魔。

 なんだか物騒な言葉に、あやめは心臓が跳ねるのを感じた。


「妖魔……知っての通りカクリヨのあやかしは悲しみ、憎しみ、怒り……そういった感情に呑まれて妖魔となる。心を失い、見境なく他者を害する悪霊となる」

「はい。悲しいことです」

「そう言いながら顔が微笑んでるな、相変わらず」

「すみません、生まれつきなもので」

「ふん、気に食わんのぅ」

「まぁまぁ、今は妖魔の話です」

「うむ……やつらがカクリヨにおるうちはまだマシじゃ。妖魔となったあやかしがウツシヨに出れば、やがては人間のやつら──祓魔師に祓われて悪霊として生を終えてしまう」


 ぐぅっ、とヤマモトが顔を歪ませる。彼にとって、それは耐え難い出来事なようだ。


「彼らも仕事ですからね」

「だが! そうなれば、妖魔となったものは未来永劫悪しきものとして冥府をさまようこととなる。この町内からそのようなあやかしを出すわけにはいかん!」

「ヤマモトさんのお気持ち、重々に伝わっております」

「そして、我らあやかしは妖魔に触れれば邪気に当てられてしまう。そうして、やがては魔に落ちる。人間のおぬしに頼むほかないというのが、もどかしい話じゃが……」

「お気になさらず、そのための楢崎探偵事務所ですから」

「ふん、商売上手め。幸い、目撃された妖魔はまだ完全に魔に落ちたわけではなさそうでのう。討つのではなく、できればあやかしに戻してやってほしい」


 そう言って、ヤマモトは巨体を傾けてズボンのポケットを弄った。

 どさり、どさどさ。


「わっ」


 あやめは大きく息をついて、慌てて両手で口を覆った。

 札束だ。

 それも、あやめが見慣れた日本銀行券。なお、一万円のやつ。

 渋沢栄一と目が合った。

 おそらく、あやめが会社勤めで得ていた年収のゆうに十倍、いや、それ以上ありそうな札束が無造作にどさどさと積まれていく。

 それを見ている龍彦は、いたって涼しい顔で微笑んでいる。信じられない、とあやめは目眩を覚えた。


「おや、これは」

「これで穏便な解決を頼みたい。心の邪気に呑まれ妖魔になりかけた我らが同胞を、必ずあやかしに戻してやってくれ」

「なるほど、こりゃ報酬が弾みますねぇ」

「おぬしはウツシヨの金でしか妖魔案件を請け負わん偏屈なヤツじゃが、腕は確かだと知っておるからな。期待を裏切らんでくれよ」

「恐れ入ります」

「それから、そこの娘」

「……」

「おぬしじゃ、おぬし!」

「え、ああ、私ですか! ……そうですよね、私です」


 「娘」なんて呼ばれたことがないし、もはやそんな年齢でもないはずなのに。くすぐったいような気持ちで、背筋を伸ばす。


「おぬしも楢崎の手伝いをしておるのなら、きっちり一割は分け前がある」

「えっ」

「ウツシヨの金なんぞ貰っても仕方がないかもしれんが、あとから換金所に持っていくなりなんなりすればよい」

「……はぁ」


 ヤマモト氏から見ると、あやめは完全に『こちら側」の存在に見えるのだろう。

 助けを求めて龍彦を見ても、穏やかに微笑んでいるだけで助け舟はなさそうだった。



 妙な世界に迷い込んだと思ったら、妙な事件に巻き込まれようとしている。



 普通の感覚だったら、今すぐ元の場所に帰りたいと思うだろう。けれど、あやめは今、とても興奮していた。わくわく、しているのだ。

 知らない人と出会って、知らない事件に巻き込まれて。

 こんなのまるで、主役みたいじゃないか。

 だから、嫌だとは言えなかった。


「それでは、後は頼んだぞ。おぬしのところの用心棒にも声をかけておるからな」

「ええ、鉄夜くんにも? 根回しが早いんだから……」

「はっはっは、伊達に町内会長はやっておらんわ」


 ヤマモトはよいこらしょと巨体を揺らして、扉のなくなったドアから出て行った。

 小さな探偵事務所がミシミシと音を立てて、ランタンが今にも消えそうなぐらいに揺らぐ。大きな鬼の姿だけれど、その背中を見送るころには怖いという気持ちは消えていた。


「ヤマモトさんはお山の神様だったんだよ」

 穏やかな声で龍彦が言った。


「それが切り崩されてしまってカクリヨで隠居することになったんだが、あの通り面倒見のいい性格でねぇ……この辺りの元締めをしてくれている。人間の僕にもよくしてくれているんんだ」

「えっ、人間……?」


 気にはなっていたことだ。龍彦はカクリヨの住民ではないではないか。


「うん。僕はもとは君と同じマレビト……カクリヨに迷い込んできたウツシヨ人だ」

「そうだったんですか」

「迷い込んできたというか、望んでこちらに来たんだけどね。やっと最近になって、そういうもんだと受け入れてもらえるようになったよ」


 よいしょ、と龍彦が立ち上がる。


「さて、君をウツシヨに送り届けなくちゃと思っていたから、妖魔騒ぎは渡りに船だ」

「そうなんですか?」

「妖魔はカクリヨとウツシヨの裂け目に引き寄せられる習性があるんだ。彼らはウツシヨに出ていきたがる」

「あ、じゃあ……その妖魔になりかけている人を探せば」

「ああ、君がウツシヨに帰る道も見つかるかも」


 行こうか、と龍彦がパナマ帽を被って事務所から出て行った。


「え、あのドアは直さないんですか!?」

「あとででいいよ、盗られるものもないしね」


 のんびりとした口調でとんでもないことを言う、防犯意識皆無の探偵。

 あやめは慌てて、その背中を追いかける。


「さ、行こうか」


 追いついてきたあやめに、龍彦は例の柔和な笑顔を向ける。

 なんだか懐かしいような、くすぐったいような。そんな笑顔に、あやめは思わず顔を伏せた。

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