第31話

 浮き輪を使って、恵理香は栄太と海に入っていく。

 聖はジュースを買い、両親が横になっている砂浜の横に、腰を下ろし、ポットの液体をジュースのカップに注いでストローでまぜた。


 死のう。もういい。

 僕は今日みたいな美しい日に死のう。


 聖はジュースを両手に持ち、ストローをくわえようとしたが、なかなかできず、喉がからからに乾いてきた。毒とわかっていても、喉の渇きを癒すためだけに飲んでしまいたいような気がした。


 聖は姉の姿を目で探した。浮き輪で浮いている。そして、聖はジュースを飲まず、ひと眠りすることにした。


 ああ憎い。大好きな姉を殺そうと考えた自分は愚かだ。姉を失うことを考えたら、自分の命など、小さなものだ。

 今ではないが、後で飲もう。後で、僕は死ぬかもしれない。

 精神の疲労が聖を眠らせたのだろう。


「聖ちゃん」


 目を開けると、恵理香が聖の顔を上からのぞき込んでいた。


「寝ているの? もったいないわね。アンタも海で泳ぎなさい」


 姉はいつになく、はしゃいでいる。今日の楽しい興奮が、聖と姉を近づけたのだ。


「あー喉乾いた。そのジュース飲んだ? 飲んでない?」

「飲んでないよ」


 聖が止めるのも間に合わず、恵理香は毒入りのジュースに口を付けた。そして、何も気づかないように、二ッと笑って、聖にジュースを返した。


「アンタも飲みな。あたしと間接キッスになるけど」


 今日の姉は怖くないばかりか、優しい。彼女が楽しさに浮かれているせいだ。姉を裏切ったことが聖には堪えた。もしかしたら、毒なんてないかもしれない。お姉ちゃんは何ともなさそうだ。大丈夫かもしれない。そんな弁解をしながら、聖はひやひやして姉の行方を目で追った。


 恵理香は、また海に出た。浮き輪を抱いて、恋人のいる方に泳いでいった。


 しばらくすると、姉は妙に赤い顔をして、固まったあと、海に沈んだ。浮き輪だけがぽっかりと浮かんでいる。波が静かに打ち寄せる。姉は浮かんでこない。もう五分ばかし経っただろうか。栄太が浜に戻ってきて、恵理香がいないと騒いだ。父と母が海に入っていく。


 聖は、ぼんやりとしていながら、信じられない思いに胸がきつく締めつけられた。


 姉は死んだのだろうか?

 赤くなって体を硬直させた最後の姉の姿が目に焼き付いている。


 むなしかった。

 むなしさに、喉がつっかえた。

 後ろめたさに、聖は息ができない。


 聖は毒入りのジュースに口をつけた。


「あたしと間接キッスね」


 あの言葉が浮かび、聖は甘い誘惑に傾くようにその場に横になった。

 冷や汗をかいていた。やがて全身が熱くなる。頬が火照る。

 手足の骨がぎしぎしと強張る。

「お姉ちゃあん」




 気が付くと、聖は病院にいた。嘔吐し、痙攣しているところを人が見て、救急車を呼んだのだ。吐き気と痙攣は死に追いやるほどではなかった。

 姉の場合は、痙攣したことで、浮き輪が滑り、海に浮かんでいられず、溺死したのだ。


 胃洗浄をし、聖はすっかり良くなって、病院のベットに起き上がっている。


 眩しい太陽の光が窓を差す。その光が布団の上に置いた聖の手に伸びている。


 悲しい憂愁が聖の心を傷つける。その傷から血が溢れ、頭が酸欠になり、ぼんやりする。

 馬鹿なことをした。僕は愚か者だ。とんだ愚か者だ。


 心にぽっかり穴が開いていた。それを永遠にふさぐことはできないんじゃないか。そんな気がして、聖は渋い顔をした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

くすぐる炎 宝飯霞 @hoikasumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ