第30話

「海に行こうよ」


 夏休みの、うだるように暑い日だった。

 父はそう言って、しまってあった浮き輪を押し入れから取り出した。


「恵理香、聖、海に行くぞ」


 恵理香は、はしゃいだ。

「栄太も連れて行っていい?」

「いいぞ」


 恵理香はすぐに栄太に電話し、家に来るように言った。


 姉の楽しそうな笑顔を見て、それが長年自分に向けられなかったものと知って、聖は嫉妬から栄太を殺したいほど憎んだ。彼らから幸福を奪えたら、どんなに自分は満足するだろう。


 死ねばいいんだ。

 聖は胸に苦しみを感じながら思った。

 もう苦しみたくない。姉の気分に振り回されたくない。


 ふと、聖は殺そうと思った。

 自分の手で。それも姉を。

 大事ない人を殺める。そうすると、 何か真新しくて楽しいものが自分の身に降りかかる気がした。


 聖は昔、友からもらったシキミの実を机の引き出しから取り出すと、それを鍋に入れ、お湯で煮詰めた。その熱い液体を、ポットの中に入れた。


「この抽出したのを飲ましてやる」

 ニヤニヤと聖は笑いながらも震えていた。恐ろしいことだ。


 あんなにも愛していたのに、なぜ、今、心変わりしたのだろう。姉の美しい笑顔が聖を苦しめたのだ。

 辛かった。もう見たくなかった。あの美しさと反対のものしか自分は受け取れないと思うと悲しいのだ。

 悲しくなって、俯いて、落ち込む自分が嫌だった。胸の破れる痛みも嫌だった。

 愛しているんだ。だが関係性は冷え切っている。

 もう何年触れていないだろう。兄弟なのに。他人みたいに。


 栄太が来て、父の大きな車で海に向かった。

 壊れて冷房の効かない車の中、窓を開けると、風が入って涼しい。

 聖はポットを大事そうに抱え、後ろの座席に、隣に荷物を置いて座っていた。真ん中の座席には、栄太と恵理香。前には父と母。


 いっそ……


 聖は喉を締め付けられるようにして考える。


 このポットの中の液体を自分が飲もうか。

 僕が死んだら、悲しむかな?


 涙が聖の目に溜まった。その涙を風に乾かしながら、聖は息を殺し、いない人のように家族の会話から離れていた。


やっぱり、お姉ちゃんを殺すことはできないよな。 

ああ、自分を殺してしまいたい。



「はい、聖」

 とつぜん恵理香が、振り向き、聖にヤクルトを渡してきた。

 彼女は何とか聖に優しくしようと努力していた。


 聖は驚いて、気味の悪い笑顔を浮かべて受け取る。

 恵理香は、そんな彼が、醜悪に見えたが、何とも言わず、目を合わせず、にっこりと、しかしいびつに笑った。


 ああ、僕が死ぬべきだ。

 どうしてお姉ちゃんを殺せるというのか。

 冷え切った関係に、いつまでも苦しみのたうつよりも、自分一人、今死ねば、家族みんなが楽になるというのに。


 海岸に着くと、そこは海水浴客でにぎわっていた。

 みんなで水着に着替えると、姉の赤いビキニ姿が聖の胸を打った。美しくエロティックだった。胸を小さい布で隠し、よせて、谷間ができていた。赤いビキニパンツは腰骨にひっかかり、卑猥である。

 しばらく見とれていたが、姉に気持ち悪いと、嫌われると思って、目を逸らす。

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