第20話

 一週間くらい経つと、姉は部屋から出て、リビングに居て、過ごすことが多くなった。2リットルのペットボトルにストローをさして、中の水を飲みながら、彼女は映画やドラマを見ていた。しかし、彼女は母以外には話そうとしなかった。男が怖いのである。恵理香は、そのことを悟られないように聖を無視していた。


 聖も最初は腫物を扱うように、姉に近づかないようにしていたが、もういいだろうと思い、ある日、姉の隣のソファに思い切って座ってみた。


「お菓子持ってきてあげようか。ポテチあるよ」

 と、聖は姉の顔を覗き込み言った。


 姉はびっくりして飛び上がり、聖を見ると、にわかに顔を歪め、両目に涙をためた。そして、なんとも寂しい皮肉な嫌な顔をして、彼女は聖から顔を逸らした。


「お姉ちゃん、僕が怖いの? 僕が男の子だから……」


 恵理香は震えていた。彼女の手に持った、水の入ったペットボトルは、ちゃぷちゃぷと音を立てていた。


 可哀そうなお姉ちゃん! 怖がらなくてもいいんだよ!


 自分のふところの温かさで慰めてやろうと、聖は恵理香の体を抱きしめ、背中を撫でてやった。

 すると、恵理香は、エビのように背を逸らし、めちゃくちゃに暴れ、悲鳴を上げた。

 恵理香は聖の腕から逃れ、青ざめ、血走った目で、聖を見つめ、引き攣った唇を動かして、呪いの言葉を吐いた。しかし、その声は、わざと低めた小さなつぶやきだったために、幸い聞き取れなかった。もし聞き取れていたら、聖がどんなに苦しんだことだろう。


 恵理香の悲鳴に驚いて、別室にいた母が見に来たが、恵理香は母と入れ替わりに自分の部屋に戻ってしまった。


 自分の存在を否定するような姉の態度に、聖は傷ついた。

 暴れるほど男の僕が嫌なのだ。

 だが、一種の小動物を相手しているような、大きくて強い力を自分に感じた。


「あんなに震えて。僕のお姉ちゃんって、そんなに弱かったっけ?」


 悪くて、ずるくて、意地汚いものが、聖の心に芽生えた。


 聖は、こっそり脱衣所に行くと、洗濯物をあさり、洗濯前の汚れた姉の下着を引っ張り出した。しかし、それを失敬するのは、さすがに気持ち悪すぎると思い、姉の片方だけの靴下を取り、自分の部屋に戻った。

 聖は、それを嗅ぎ、口にふくみ、ペニスにはめた。そうすると、なんだか、とても満足した気分になった。

 姉に捨てられたような、イライラする不安な気持ちが一散に消えるようだ。

 聖は靴下を脱衣所の洗濯籠の中に返すと、ケラケラと笑いながら、台所できゅうりを切っていた母にしがみついた。振り返った母の目は姉の目に似て美しかった。聖は母の足を抱き、彼女のズボンをはいた尻に、顔を押し付けた。


「どうしたの? そんなに笑って」

「何でもないの」聖は甘えるように言った。

「ねえ、ママ。お姉ちゃんは男の子がみんな嫌いになったの? 僕の事怖いみたいなの」

「そうね。今はそっとしてあげましょ」

「僕、お姉ちゃんのために、女の子のふりでもしようか?」

「馬鹿ね。あなたは、あなたでいいの。別の人になんてならなくても」


 しかし、その思い付きは聖にとって、目新しく、良い物に思われた。

 自分が女の子になって、姉の恐怖をとりのぞくのだ。だって、いつもびくびくして可哀そうだもの。姉が変わるのを待つだけより、自分の方で変わって接したら、答えの良いのがいずれ出る気がした。


 女になる。

 その突拍子もない思い付きは、次の日になると、忘れていた。聖にとって、その場限りの無責任な思い付きで、本人も、やる気がなかった。そういうことで、女になるというのはうやむやにされた。

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