第11話

「ただいま」

 恵理香が帰ってきた。

 聖は頬をぱっと赤らめ、両目を涙で潤ませた。彼はまた、自分が可愛い子犬のような気がした。


「濡れたでしょ。お風呂に入っちゃいなさい」

 母の言う声が聞こえた。


 聖が階段を下りていくと、雨でずぶぬれになった姉がいた。濡れた長い黒髪は頬にはりつき、首筋を取り巻いていた。ショートパンツから伸びる白い足が、いやに光沢を放っている。

 玄関で恵理香が靴下を脱ぐと、濡れた足跡が風呂まで続いた。

 聖は雑巾でその跡を拭きながら、姉が風呂から上がってくるのを待った。

 緊張して耳まで赤くしていると、母が、


「熱でもあるの?」


 と心配して、その額に手を置いた。


「なんでもないさ……」


 風呂から上がった、姉の音を聞きつけ、やがて、脱衣所で、髪を乾かしているドライヤーの音が聞こえてくる。


 姉に近づこうと、聖は脱衣所のドアを開け、静かに扉を閉めた。

 姉はまだ気づかず、白いシャツと、寝巻のハーフパンツ姿である。

 聖は姉の手にそっと触れ、ドライヤーを止めてくれるように合図した。なんせ、ドライヤーの音がやかましいので、話もできない。

 しかし、恵理香は手で追い払うまねをして、なかなか聞いてくれない。

 聖は仕方がないから、姉の支度が終わるのをその場で待った。


「何よ」


 ドライヤーをしまって、恵理香は面倒くさそうに言った。


「お姉ちゃん、秘密だよ。僕ね……今日ね……」

「早く言いなさいよ!」

「うん、あのね、僕、今日ね……死のうとしたの」

「どうやって?」

「袋をかぶって」

「なんで今生きているの?」

「失敗したからさ」

「ママは知っているの?」

「知らないさ」

「馬鹿らしい。せめて病院送りになればドラマチックだけど、なんでもなかったのなら何でもなかったのよ。今元気ならどうでもいいことだわ」


 元気なの? 僕は?

 聖は胸が苦しくなったことを悟られないように、お道化た苦笑いを浮かべた。


「何よ。あたしを責めるような目で見て!」


 聖はぎょっとした。


「そんな目なんてしてないよ」

「あっちへ行って!」


 僕は媚びたのだ。聖は居間に入り、テレビの前に座って思った。

 だのに、恨んでいると思われた。僕は自分が子犬のような顔をしていると思ったのだけれど、実際は嫌な顔をしているんだなあ。


 聖は急に自分が憎たらしくなり、自分の腕に嚙みついた。かみちぎろうと思ったけど、肉をかみちぎる痛みが恐ろしくて、つい、かげんをしてしまう。

 しかし、口を離すと、見事な歯型と少し皮がめくれ、血がにじんでいた。

 ほうと胃に砂のようなものがさらさらと流れ込んでいった。


 ふと、聖は姉から嫌われているのではないかと思った。そして、しくしくと泣けてきた。


「あら、どうしたの」

 母が聖を抱きしめる。

「僕、お姉ちゃんに嫌われている……」

「そんなことないわ。どうしてそう思うの?」

「僕に冷たいもの」


 その後、母は少し離れた。

 姿が見えないと思ったら、姉と一緒に戻ってきた。


 恵理香はにこにこして聖の頭を撫でた。


「あたしがアンタを嫌いになることがある? それはないのよ。アンタは何もわかってないのね。アンタは可愛い弟だわよ」


 聖は泣きながら舌を出して笑った。


 母が離れると、恵理香は聖の頭を小突いた。

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