第10話

 恵理香は友達の家に遊びに行ってしまった。


 聖は繰り返し繰り返し、自分の失態を思い出し、自分を責めて、自分の心をいじめぬいていた。

 暗かった。何も楽しくなかった。

 息苦しく、母が買い物に行くから、一緒に行こうよと誘ってきたけれど、聖はもはや動く気力がなかった。打ちのめされ、あらゆる元気が抜けて、心がすかすかとホコリっぽかった。


「僕、留守番しているよ」

「そっ。じゃあ、何かお菓子買ってきたげるから」


 母が出て行った。窓の外に、車を動かす母の姿が見えて、エンジン音と共に、車が消えると、聖はなんだか死にたいような気がした。

 外の空も灰色に曇っていて、ちょうど自分の心の色も、ああだと感じた。


 聖は窓の外を見るのをやめ、物憂く、背後を振り返った。

 台所が見えた。大きな冷蔵庫。

 彼は歩いて近づいた。

 ガスコンロ、流し台、電子レンジ、トースター……

 彼はシンクしたの戸棚を開けた。包丁が目に付いた。だが、彼はそれをことさら長いこと眺めていただけで、取りはしなかった。

 彼は透明なビニール袋を見つけて、一枚とった。そして、それを頭にかぶり、顔を覆い、顎でしっかり口を縛った。息で顔の前が白く曇っていく。息を吸い込むと、ビニール袋がぺこりと風船のように膨らんで、口の中に入ってくる。

 呼吸ができなかった。

 彼は苦しくなり、肺がつぶれる思いがし、のたうち、結び目をほどこうとして、失敗し、爪を立てて、ビニールを引き裂いた。

 彼は真っ赤な顔で粗い息をし、冷たいフローリングの床に倒れた。

 彼は情けなくて、しかし、恐ろしい死から生還したことに安堵し、感動して泣いた。


 キラキラしたものが窓を打っていると思ったら雨だった。天使かと思った。


 聖は涙をぬぐって、窓を打つ雨の音に耳をすませた。

 ぱらぱらと生米を撒いているような音だった。窓にぶち当たった雨の雫が、一瞬静止し、ゆっくり、真っ直ぐ線を引いたように下へ滑っていく。濡れたところだけ、いやに透明であった。


「神様。泣いてください。僕は、今さっき、死のうとしました。こんな悲しいことってないですよね」


 聖は自分を憐れんだ。自分が傷ついた、目の大きな可愛い子犬のように思えて、愛しかった。

 ふと、震えている自分の手に気付き、


「なんてことだ」


と、むっとせり上がってくるような悲しみに襲われた。


 ふいに彼は窓を開けて庭に出て倒れ、雨を、神様の涙をこの全身で受け止めたいという思いに駆られた。しかし、そんなことをして、服が汚れたら、母が怒ると考えついて、彼はただちょっと窓に隙間を開けて、斜めに入り込む雨の細かい雫を迎え入れ、フローリングの床が濡れたのを目にとめると、慌てて窓を閉め、ティッシュで濡れたところを綺麗に拭いて始末した。彼はその雨を拭いた、神様の涙のしみこんだティッシュにキスすると、


「ありがとう。僕のために、泣いたのですね」


 と言って、ゴミ箱に優しくティッシュを落とした。


「ただいま」

 と言って、母が帰ってくると、何事もなかったように聖はにっこりと迎えた。


「チョコレートがあるのよ」


 母が聖にチョコレートを渡すと、聖は小さな目を精一杯大きく見開き、嬉しそうに声を出した。


 聖はチョコをかじりながら写真のたくさん載った辞典を眺めた。

 自分でも死のうとしたことは忘れていたが、ふと、雨に打たれているアマガエルの写真をみて、今日の事を思い出した。

 聖は姉を思い、姉の帰りを待ちわびた。彼女の愛をこの身に受けたかった。埃にまみれた体を、彼女の愛で洗い流してほしかった。


 彼は親にも言えない自分の惨めな気持ちをを大切な姉にだけ打ち明けようと思った。

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