第9話

 その夜、恵理香は夕飯を断り、自分の部屋に閉じこもって、ベットの中で泣いていた。ひとしきり、人を責めるようなことを考え切ると、後に残ったのは、己の心の醜さだけだった。


「聖は弟なのに、あたし、聖ちゃんを嫌がって、聖ちゃんは何も悪くないのに、あたし、どうしてこんなに意地が悪いのだろう」


 次の日になると、恵理香は早起きして、クッキーを焼いた。そして、やがて目覚めた聖に、にこにこしながら、そのクッキーを食べさせた。


「全部食べていいから」


 ことさら優しい声で、恵理香は頬杖ついて、クッキーをむしゃむしゃ食べる聖を嬉しそうに眺めた。

 罪滅ぼしに、彼女は弟に媚びたくなったのだ。

 

 聖は姉の優しさに心をうたれた。昨日の彼女の冷たさなど忘れるべきだ。なぜなら、今、彼女は、こんなにも愛してくれるのだから。

 もう無くなった過去に価値などないのだ。現在が現実なのだ。

 あまりの嬉しさに、聖の目じりには涙がほんの少し浮かんでいた。

 彼にとって、姉は人生のうるおいだった。彼女が微笑めば、もう彼は幸福なのだ。姉をもっと喜ばせるにはどうしたらいいのだろう。聖は急いで考えた。そして、このクッキーの美味しさを伝えることこそ感謝になると思い、いかに姉の料理が上手なのか伝えられたら姉は喜ぶと思った。

 聖は皿の上に乗せたクッキーを全てたいらげると、粉のついた指をしゃぶり、皿に残った食べかすを舐めとった。

 この卑しさがクッキーの旨さを物語るのだ。

 聖はキラキラした目で姉を見た。


 しかし、恵理香は眉を顰め、唇をへの字に引き攣らせて、聖を軽蔑の目で見つめていた。


「聖ちゃん、あんた顔が悪いのだから、そのうえ、品まで悪かったら最悪じゃないの。人から嫌われるわよ。食い意地が張って、いやしいのはわかったわ。でも、食べ方が汚いのはよくないことよ。クサイよだれで指をべとべとにして、おまけにお皿まで、あんたのばい菌の涎で汚して……不潔よ。いやらしい」


 姉に叱られると、聖は心臓が冷たくなるのを感じた。

 彼は落ち込み、

「ごめんなさい」

 と謝った。


 恵理香は鼻を鳴らした。


「さっさと手を洗いなさい。汚いんだから。ちょっと、テーブルに触らないで! あんたが触ったところ、除菌シートで拭かなきゃ。お姉ちゃんが水道の蛇口をひねってあげるから、あんたはどこにも触らないで!」


 聖は惨めだった。申し訳なかった。すごく後悔した。


 どうしてこんな汚いことをしようと思いついたのだろう。

 最初は良い考えに思った。だけれど、後から考えて、やっぱり悪いと思うのだった。どうして考えは先と後じゃ変わってしまうのだろう。不思議だ。


 とても悲しく、胸が苦しくて、聖はいじめられた犬のように、部屋の隅で、窓辺にうずくまっていた。

 顔はしかめ面で、眉根には苦悩の皺がよっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る