第8話

 真夏のうだるような暑さの、ある頃から、恵理香は近所のバレエ教室で、バレエを習い始めた。

 その頃より、恵理香は女優になることを夢見だした。


「あたしって可愛いでしょ。子供のうちからレッスンして、将来は女優になるの。テレビに出て、舞台に立つの」


 あるとき、母に連れられ、聖は恵理香のバレエの見学に行った。


 恵理香は、何十人という生徒に交じって、柔軟体操をしていた。彼女は白いレオタードに白いタイツをはき、白いトゥウシューズをはいていた。華奢で、一番可愛かった。

 レッスンコーチは女性だったが、同じようにレオタード姿だった。


 恵理香は家族の姿に気付くと、嫌そうに顔をしかめた。レッスン風景を家族に見られるのが、彼女は恥ずかしかったのだ。


 聖は、恵理香が嫌そうな顔をしていたので、それは、自分たちが見に来ていることが原因だと、すぐに気づき、彼女の気分を害したのが申し訳なくて、謝りたいような気になって、そわそわ落ち着かないのだった。


 怒っている。嫌われた。嫌いにならないで!


 聖は恵理香をじっと見ながらも、母の服の袖を引っ張り、

「帰ろう」

 と、訴えた。


「どうして? お姉ちゃんを応援してあげなきゃ」

 母は笑って言った。


「でも、お姉ちゃん、嫌そうだ」

「何言っているの! 家族には見守る権利があるのよ。だって、家族ですもの」


 母はすっかり教室のすみに居場所を見つけて、梃子でも動かない。


 悲し気な困った顔で、聖は、おろおろしていた。


 恵理香は、そんな聖の弱弱しい顔を見て、彼の心の弱さにつけこみ、歯を剥き出して威嚇し、聖を怖がらせた。彼は見に来たという罪の意識に胸が凍えるようだった。そして、姉を怒らせたことがショックだった。


 聖は姉への懺悔のつもりで、姉の姿を視界から消した。彼は教室ではなく、窓の外の緑色の葉の生い茂る桜の木を眺めた。

 頭の後ろに、美しく魅惑的な恵理香の香しい肢体があるのを、鳥肌立つように感じたが、聖は自分をいじめるつもりで、時に甘えたくなる心を𠮟って、人ではない、木を眺め続けた。


 僕見ていないよ。だから、許してね。


 何時間そうしていたろう。


「聖ちゃん帰るわよ」


 母に言われて、振り向いて、その視界が教室の中をうつすと、聖は振り向いたついでだと言わんばかりに、姉の姿を探した。


 彼女はぴっちりとしたタイツを履いた少年と話し込んでいた。

 その恵理香の顔は楽しそうに輝いていた。

 そのバレエ少年は美しく、さらさらとした黒髪で、気品があった。

 恵理香とそう齢も違わない感じである。

 彼は腰に手を当て、少し高い背丈を利用して、恵理香を見下ろし、しかし、近すぎるくらいに近くに立っていた。バレエ少年は、お道化た。

 恵理香は口を押えて大口で笑い、彼の背を親し気に叩いた。


 聖はなんだかいやらしいものでも見ているように不快だった。そして、脂ぎった黒いドロドロしたものが、己の腹の中にたまっていくのを感じた。


「恵理香」


 母が呼ぶと、二人のバレエ天使はこちらを向いた。


 美しいバレエ少年の目が聖をじっと見つめた。


 隣に立って美しい少年の視線の動きを見ていた恵理香は、その視線の先のものに気付いて、劣等感をおぼえた。


『こんなに美しくない子が、あたしの弟だなんて……』


 恵理香は真っ赤になり、一瞬泣きそうな顔をした。彼女は隣に立つ美しい少年の、聖に関する感想が恐ろしいのだ。彼女は汚いものでも見られた気持ちだった。軽蔑されるんじゃないか。彼女は負の感情が美しい少年の顔に浮かぶのを、息をこらして待った。


 しかし、美しい少年は、恵理香の急に赤くなって怒ったような、泣きそうな顔を見て、それが自分のせいだと思い込んでしまった。恵理香が自分を嫌がっていると思ったのだ。彼は傷つき、悲しかった。

 美しい少年は気まずさに赤くなり、それを隠すように、つらそうな顔を彼女から背けた。

 彼は、たかだか女の機嫌を損ねたぐらいで落ち込む自分が嫌だったのだ。

 不自然な態度に気付かれまいと、美しい少年は、恵理香に別れの挨拶を素早くこなした。


「迎えが来ているよ。じゃあ、次のレッスンで会おう。さよなら」

 美しい少年は、恵理香の目の色に、自分を嫌う影をみるのが恐ろしくて、目を合わせないようにしながら、無理をしてほほ笑んだ。



 ほら!


 恵理香は打ちのめされた。


 急によそよそしくなったわ! 弟を見て、あたしを見損なったのね。


 恵理香は駆け出した。そして、更衣室に入り、着替え、外で待っていた聖と由美子の前に立つと、二人を白い目で睨みつけ、顔を赤くし、毛を逆立て、


「もう見学になんて来ないでよ! あたし、今日、最悪だった! すごく惨めだったのよ!」

 恵理香は、喋っている最後の方には、唇を震わせ、言い終わると、両手で顔を覆ってわっとばかりに泣きじゃくった。


「何がそんなに嫌なの」

 母の由美子は困ったように言った。 


 しかし、恵理香は言えなかった。それは聖を傷つけることだから。口にしてはいけないとわかっていた。


「もう……いや」

 恵理香はしゃくりあげ、弱弱しく呟いた。


 聖は、姉を慰めようと、その手に触れようとした。

 しかし、恵理香は冷たく振り払った。

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