第6話

 ある日、恵理香はまだ早朝の暗いうちに、聖を叩き起こした。眠気眼の聖の手を引き、彼女は自分の布団の中に彼を入れた。

 尻に侵食する冷たさに、聖は驚いた。


「冷たい」


「しっ、お願い聖ちゃん。あんたがやったことにして」

 恵理香は怯えたような、急いでいる口調で頼んだ。


 微かにアンモニアの芳ばしい臭いが布団にもぐると香った。


「いいよ。お姉ちゃん」

 聖は姉のために何かしてやれることが嬉しかった。


「ありがとう」


 感謝されると、聖は幸福に包まれた。


 外が明るくなると、恵理香はわざとらしい大きな声で叫んだ。

「ママ、大変。昨日聖ちゃんと一緒に寝たの。そしたら、大変よ。おねしょしているのよ。聖ちゃんったら。あたしの服も少し濡れちゃったの。本当に馬鹿ねえ。まだ赤ちゃんなんだわ。いけない子だわ。ママ、叱ってやってよ」


 もう五歳の聖であったが、そんなウソを言われても傷つかなかったし、腹も立たなかった。どうどうと自分に当てがわれた役を演じようと、胸を張って、心には花畑で、笑みさえ浮かべて、自分から母の元へ行き、

「僕やっちゃったよ。へんっ、赤ちゃんみたいに! ごめんなさいね」


「まあ、仕方ないわ。まだ小さいものね」


 母が、おねしょの布団を干すのを、聖は近くで眺めていた。その大きな地図をいとおし気に眺めていた。そして、風に乗って運ばれる、そのむっとする臭いも愛した。いつまでもそこに立って眺めていた。


 すると、恵理香が怒って、

「そんなにしげしげ見ないで! 何の当てつけだろう!」

 と、弟を家の中へ連れ戻した。




 恵理香は小学生である。学校を交えし、沢山の女友達ができていた。

 毎日のように友達の家に遊びに行こうとする恵理香を、聖は、毎回泣きながら引き止めた。


「やだ、いかないで」


 うんざりしたように恵理香は振り返る。

 いつもだったら無理やり振り切って行ってしまうが、今日は妙に優しい気持ちで弟の言うことを真剣に取り合ってみる気になった。


「よし。わかったわ。じゃあ、聖ちゃん、お姉ちゃんと一緒に行く?」


 聖は喜びに顔を輝かせた。


「うん」


 芳江ちゃんの家に行くと、芳江は聖を見るや、意地悪そうにギョロ目を見開き言った。

「やだ。全然似ていないのね。もっと可愛い弟だと思っていたけれど」


 彼女は更に失礼なことを、聖に聞かれないように、恵理香の耳にこそこそとささやいた。


 可愛くないと言われても聖は何も感じなかった。

 しかし、芳江に耳元で何か言われて、そのせいで顔を真っ赤にした姉が、うっとおしそうに聖を睨みつけたので、なんだか急に恐ろしく不愉快な屈辱を感じた。


「あのお姉さん嫌い」

 帰りに聖は恵理香にそっと言った。


「どうして。良い子よ」

「良い子なの?」

 信じられないとばかりに聖は言う。


「そうよ。良い子よ。優しいのよ」


 聖は姉を否定する気にはなれなかった。姉の気分を害するのが憚られたのだ。彼女の信ずることが聖の信ずることなのである。

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