第5話 交換殺人の裏表
そんな彼を誰も相手にしていなかったのだが、そんな中で、一人、気にしている男がいたのだ。
その男が考えていることとして、
「実は交換殺人を考えていて、その中でどうしても証人のような人間が必要なのだが、その男は、精神に異常があり、証言に信憑性は疑わしいのだが、なぜかその男が証言をすれば、誰もが信じてしまう」
というような存在の人がいるかいないかということであった。
完全に都合のいい人材を探すことになる。しかし、交換殺人において、そういう証人がいるかいないかということが、計画する方としては、ミソだったのだ。
その計画の、
「白羽の矢」
が、前述の青年に当たったのだ。
その青年の名前は、シノザキと言った。
彼が、この事件に入り込むことになったきっかけは、事件を計画した、
「マツモト」
という男が、たまたま、病院に行った時、精神疾患があるのか、まわりの人に絶え宇煙たがられている青年を見かけた時であった。
それが、
「シノザキ青年だった」
というわけであるが、その時、たまたま病院にいたマツモトは、
「君は精神的に、軽い発達障害がある」
という診断だったので、定期的に病院に行っていた時のことだった。
そんな精神疾患を持っていたが、マツモトという男は、まわりから見ても、
「頭脳明晰」
であったのは、間違いなかった。
というのも、成績は優秀で、そのくせ、いきなり、おかしなことを言いだして、、まわりをビックリさせることがあったが、基本的に、頭脳明晰で、実際に成績優秀だったので、表面上を信じるしかなかったのだ。
それを思うと、
「俺の成績は、そんなに悪くない」
ということでマツモトは、
「自分自身でも、天才肌だ」
と思っていた。
ただ、天才肌の偉人は、伝記などを読んでも、
「必ずどこか変わっていた」
ということなので、少し変わっている自分は、
「他の人には見えない何かが見えているんだ」
ということで、自分のことを、
「天才肌だ」
と信じて疑わなかったのだ。
だから、今回の計画を、
「交換殺人」
ということにしたのは、自分でも、
「交換殺人というのは、小説でだけでしか存在しないものなんだろうな」
と、
「心理的な矛盾と、論理性の矛盾」
というものを、双極的に持っているという交換殺人を敢えて考えたのは、
「交換殺人が、自分の中で閃いた」
からだったのだ。
この閃きが、
「俺を天才肌にする原点であり、これを信じないと、俺というものではない」
と考える、一種の彼にとって、
「交わることのない平行線」
というものが交わる瞬間だったといってもいいだろう。
そう、まるで、
「メビウスの輪」
のようではないか。
そう考えると、精神疾患に見えている人の中には、元々、
「異次元から迷い込んだ」
という人がいるのではないか?
ということを、その人が、、
「頭脳明晰」
であったり、
「成績優秀」
であるにも関わらず、
「世の中において、いわゆる、常識と呼ばれてることに対して、分かっていない」
ということであったり、
「反対意見をいう」
ということで、精神疾患だと決めつけているのではないだろうか?
話を理詰めで聴けば、分かるというものなのかも知れないが、悲しいかな、
「彼が言っていることを、理解できる人間が、この世界にいない」
ということで、問題となるのだった。
それを考えると、前述の、
「それでも地球は回っている」
という、ガリレオのことを思い出すのだ。
特に中世などという時代は、宗教がらみということもあり、
「世間を騒がせる」
ということをいう人間は、極刑にさせられた。
または、まったく罪もないのに、ただ、不思議な力を持っているというだけで、処刑された、
「魔女狩り」
と言われるような儀式であったり、
「自分の信じていることを、四行詩にて、分かる人には分かる」
というようなものを残した、
「ノストラダムス」
という人だっていたのだ。
確かに、
「世間を騒がせる」
という意味では、仕方のないことなのかも知れないが、すべてにおいて、批判的になるということは、許されることなのだろうか?
それを考えると、当時の中世と呼ばれる時代は、実に危険な時代だったと、今の民主主義の世界から見れば、そう思えるのだった。
ただ、民主主義においても、例えば民放などで、
「公共の福祉、善良な風俗に反するものは、向こうだ」
というような、
「公序良俗」
という、一種の、
「モラル」
のようなものがあるのであり、しかも、最終決定ということに、
「多数決」
というものが採用されているということは、見逃せない事実であった。
それを考えると、
「世間を騒がせる」
という理由で殺してしまうというのが、
「まずい」
といって。一刀両断で、その意見を切り捨てるというのは、それこそ、民主主義の基本を脅かしているようなものである。
民主警察も存在すれば、裁判制度もある。
もっとも、中世にも裁判も警察もあったのだろうが、
「政治思想が違う」
ということで、それぞれの発想の違いからか、決まってくる判決は、どちらにしても、
「許容できる範囲だ」
というわけではないのも事実であった。
元素や分子の世界で、
「三すくみ」
と、
「三つ巴」
という世界を考えてみると、その世界において、前述のような、顕微鏡で見えるような世界を人間は創造し、下等動物は、自分たちの世界ということもあり、立体感がある世界を想像しているようだった。
ここでいう、
「創造」
と
「想像」
というものは、似たような意味ではあるが、まったく違っているのである。
最初の、創造というのは、
「まったく何もないところから生まれる」
という、創生であり、後者の、
「想像」
というのは、自分がおぼろげに感じているものを、形にするというもので、この場合のおぼろげに感じているものというのは、その定義までは分かっているといってもいいのかも知れない。
ということになると、ウイルスなどの下等動物は、人間のような、
「想像力がある」
ということになるのだろうか?
要するに、
「何もないところからの加算法が、
「創造」
であり、
「実際にあるものを、形にして、映し出す」
ということで、厳密には違うものなのかも知れないが、
「加算法」
というものに対して、相対的に考えた時、
「それは、減算法ではないか?」
と考えてしまうのだった。
ただ、実際には、そのふたつの、
「創造」
と
「想像」
というものを自分の中で考えているのが、人間だということで、やはり、人間だけにしか理解できないものもあれば、理解しようとしても、そこから先はできないという、結界のようなものがあり、それを人間は分かっているのではないか?
と考えるのであった。
そんな想像力を、もし、下等動物にいたるまで、本当に持っていたとするならば、
「下等動物に見えるものは、人間にも見えるのかも知れない」
と考えるのは、
「人間至上主義」
という考えから来ているのではないだろうか?
しかし、これを、
「完全否定」
という形にしてしまうと、今度は違う意味での、
「人間至上主義」
ということになり、普通の人は、後者を考えるのだろう。
しかし、前者を考える人も若干名いて、それらの人にしか見えないものが見えた時、時代や社会背景の違いによって、
「恐ろしい存在」
と感じるか、
「天才肌だ」
と感じるかということの違いなのだろう。
それこそ、
「長所と短所は紙一重」
と言われるのと、同じ発想ではないだろうか?
そんな広がりの中にある、
「三すくみ」
であったり、
「三つ巴」
をそれぞれどのように考えるのか?
「三すくみ」
というと、身動きが取れないことで、
「静」
と考え、そして、その逆で、
「三つ巴」
というと、
「動」
と見ることができる。
つまり、三すくみの中には、前述のような抑止力が働いているわけで、別に、
「同じ力」
というわけではない。
同じ力ではなく、同じ力に値する均衡であることと、
「力がそれぞれの距離感を保たせるように働いている」
ということから、
「静」
ではあるが、その力は、外にも向けられているのではないか?
と感じるのだ。
それが、いわゆる。
「核の抑止力」
であり、
「戦争をしてはいけない」
という戒めに繋がったといえるのではないだろうか?
逆に、三つ巴の場合は、力は完全に均衡している。これを、
「戦国時代の群雄割拠」
と考えれば、理屈に合うということも考えられるだろう。
三つ巴の関係というと、そろぞれの力が隣との関係ではなく、内に向いているのだ。
そこでできた三角形の中で力を溜めることになる。
だから、三すくみとは違い、この3つが、手を結ぶということも考えられる。三すくみでは考えられないことだ。
ただ、お互いをけん制はしているが、もし、隣国と戦った場合、お互いに共倒れをする可能性がある。
ということで、お互いに侵略をするということには、基本的に躊躇するだろう。
そうなると、隣国と手を結び、もう一つの国に攻めこむということもありえるだろう。
力が均衡しているのだから、完全に、
「2:1」
ということになり、戦をすれば、連合軍に適うわけはない。そこで、他の国と同盟をしていればいいのだが、していなければ、簡単に滅ぼされることだろう。
そして、滅ぼした後は、どうなるか?
それまでは、仲良くその領土を分けるということになったとしても、それまでの均衡が破れることになるだろうか?
三すくみの場合は、
「どれか一つがなくなれば、その瞬間に力の均衡はなくなってしまうのだから、結果は見えている」
というものだ。
しかし、三つ巴で、一つが潰れても、そこに残るのは、
「力の均衡の、3つが、2つになっただけだ」
ということで、このまままた小康状態に陥るのかも知れない。
といえるのではないだろうか?
だが、完全に、
「力の均衡が保たれることで、動きが取れない」
ということではないだろう。
今までは、ずっと内部では動いてはいたが、それを隣国に及ぼすことはなかった。しかし、ここで一つが動いてしまうと、
「静」
から、
「動」
になったわけではない。
元々、
「動」
だったものが、さらに動くことになるのだ。
そう考えると、動きが増長され、
「1+1=2」
ではなく、
「3にも4にもなる」
という化学ではないかと考えられ、動きが早くなるのではないだろうか?
ただ、元々、内部に向かって働いていた力は、
「静」
だったからこそ、均衡を保てたのであって、それが、表に向かっての、
「動」
ということになると、そこにスピードが加わってくる。
それぞれに違うスピードだろうから、力とスピードというものの、均衡も、力関係に響いてくるだろう。
しかし、内に向けられていた力というものは、それなりに限界というものがある。ということは、
「速度と、力の関係は、反比例するのではないだろうか?」
という考え方である。
「速度が速くなれば、その分、力は弱くなり、速度を抑えれば、その分、力が残されるということになる」
ということである。
それを考えると、
「今度考える力のバランスは、億度とそれにともなって減少する力というもののバランスによるのではないか?」
ということであった。
それこそが、前述の戦国武将である、武田信玄が提唱する、
「風林火山」
というものではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「俺が戦国時代にタイムスリップすれば、どうなるんだろうな?」
と考えるのだった。
こんな、三すくみと、三つ巴の関係をいろいろ考えていたのは、交換殺人を考える
「マツモト」
だったのだ。
彼は、実際に犯行を犯そうなどと思っているわけではなく、
「小説を書いて。それを文学賞に送り、入賞を狙う」
というものであり、
「実際に犯行を犯す」
という物騒なものではなかった。
しかし、計画するに当たって、
「実際の犯行」
というものを想定しないと、小説にするのも難しい」
ということになるであろう。
彼は、今年、大学3年生になるのだが、元々は、理数系が好きだったこともあって、化学を専攻していた。勉強も化学専攻で、
「いずれは、どこかの企業の研究所か、それとも、うまくいけば、大学院に進み、大学で研究が続けられればいい」
と思っていた。
ただ、中学の頃から本を読むのが好きで、結構昔の探偵小説などを読むのが好きだったのだ。
それも、時代とすれば、戦前、戦後という、
「探偵小説の黎明期」
と呼ばれる時期から、いろいろなジャンルが出てきたあたりであった。
それが、
「変格派探偵小説」
であったり、
「本格派探偵小説」
などというジャンルが提唱されるようになった時代のものだった。
マツモト」
は、その中でも、
「本格派」
という形をとっているが、実際にその裏には、
「変格派」
というようなものが潜んでいるという作品を書きたかったのだ。
あから、前述の、
「三すくみ」
と
「三つ巴」
という感覚を頭の中に描きながら、
「それを取り巻く環境」
として、あるいは、
「心理的な内面」
ということで、
「変質者による、猟奇的な犯行」
であったり、
「その変質者の証明としての、耽美主義的な犯行」
などを表に出しておいて、探偵などの捜査陣に、
「事件は、変質者による犯行」
と思わせておいて、実は、
「巧妙に仕組まれた犯行」
ということを、考えさせるということであった。
そこには、どうしても、
「精神疾患」
という考え方が必要となり、その考えを持っているのが、
「シノザキ」
というっ青年だったのだ。
彼は、精神科から、
「発達障害だ」
と言われたという。
そこで、発達障害や、それに伴ういくつかの病気などを調べてみることにした。
どうしても、
「交換殺人」
ということを企むということになってくると、マツモトの中では、
「精神疾患」
というものを無視しては書けないと思ったからだった。
精神疾患の人間が考えることとは、正直、かなりの隔たりがある。そこには、
「結界」
というものが横たわっているといってもいいだろう。
そして、その結界が、
「小説をいかに、立体的な発想にして、いかに、多次元的な世界に誘うのか?」
ということに繋がると思ったのだ。
小説において、
「本格派」
と、
「変格派」
というものを、重ねて考えるかということを思うと、どうしても、
「多次元性」
というものが関わってくるといっても過言ではないだろう。
昔の小説で、実際には、
「本格派小説」
のように、ち密に計算された犯行を、
「変格派」
に見えるかのような犯人が暗躍しているという話も結構あった。
例えば、
「ある芸術家が作った石膏像に、たくさんの女性の遺体が埋め込まれている」
というような、サイコパス的な猟奇殺人に見えたのだが、実際には、それらの女性は、
「元々、最初からなくなっていて、死体を病院だったり、まだ、当時、土葬が行われているところから、墓を暴くということをして、盗んできたものを、石膏に埋め込んだ」
という、死体窃盗ではあるが、少なくとも、人を殺めたわけではなく、それ以降の犯行の足掛かりであったり、犯行を錯乱させるためだったりするというために行った犯行なのだ。
そういう意味で、探偵小説の中には、
「猟奇殺人」
と思わせておいて、実は。
「緻密に計算された犯行だった」
ということも少なくはなかった。
それが、
「変格派探偵小説」
と、
「本格派探偵小説」
との融合ともいうべきか、トリックに限界を感じさせることで、
「バリエーションが大切だ」
ということから、このような融合が多く描かれるようになっていた。
しかし、そのバリエーションにも限界があったりするだろう。
そうなると、バリエーションを、いかにそう思わせ宇かということが大切になり、それが、表現などを大げさにすることでの、
「叙述トリック」
ということになるだろう。
ただ、あまりにも大げさすぎると読者にも、悟られる可能性がある。今の時代と違って、戦前戦後という、背景的なものが、
「カオス」
ということになると、その時代背景にあったような、サイコパスであったり、どこかアドベンチャーのような内容であったりと、そのバリエーションをいかに表現するかということになるのだ。
特に、探偵小説のトリックの中には。
「最初からネタを明かしておくべきもの」
として、
「密室トリック」
であったり、
「アリバイトリック」
などがあるだろう。
ただ、これらは、その謎だけを解こうとしても、基本的には難しい。いろいろな状況を踏まえたうえで、その謎を解き明かすようにしないといけないだろう。
ただ、その中に。トラップのようなものがあり、
「表に出ていることだけでは、犯人の誘導に嵌ってしまう」
という可能性がある。
「右を見れば、左を見る」
というような、マジックの謎解きのように考えなければいけないに違いない。
犯人にとって、探偵が解いていく謎の道筋は、ある程度予測していないと、トラップに導くことはできない。
「探偵小説が、そのヒントを与えるかも知れない」
と思うと、本来なら、発刊禁止ということになるのだろうが、実際の犯罪は、小説のようにはいかない。
一つには、犯人は、
「すべて同じ心理状態であるわけはない」
ということだ。
しかも、
「犯人が計画した通りに事件が進んでいるのであれば、いずれは、完全犯罪というものが出来上がるのかも知れないが、そんなことはまずありえない」
しかも、小説のストーリーというのは、
「作者がすべてを考えていて、被害者側、犯人側、推理をする側と、違う視線から見ているかも知れないが、結局はすべて、一人の人間によって組みたてられている」
といっても過言ではないだろう。
もっといえば、
特に、密室であったり、アリバイトリックのように、最初から読者に情報提供しているものは、読者も考える時間があるということなので、進んでいくストーリーの中で分かってしまうようなものは、探偵小説としては、二流と言われるかも知れない。
ということで考えられることとしては、
「それぞれのトリックに、伏線を敷いておく」
ということだ。
そもそも、探偵小説というのは、伏線を敷いておかなければいけないものであるのだが、特に、
「密室トリック」
であったり、
「アリバイトリック」
というものは、そのストーリーの中にある、例えば、
「起承転結」
と呼ばれるものがキッチリとしていて、それぞれの部分で、少なからずの、
「伏線」
と、その
「伏線回収」
というものが、行われなければいけないということになるであろう。
では、
「小説を読んでいて、トリックが何か分からずに、そのトリックが何か?」
ということ、つまりは、
「潜伏しているトリックという小説のパターンが分ってしまうと、その時点で、作者の負けだ」
と言われるような小説である。
たとえば、
「一人二役」
であったり、
「交換殺人」
などというものである。
また、
「顔のない死体のトリック」
の場合は、最初から顔がないということで、
「死体の身元を隠す」
ということで、その謎は分かり切っているといえるだろう。
つまり、
「顔を分からなくするということは、被害者が誰か分からない」
ということであり、実際に今まで描かれてきた、
「顔のない死体のトリック」
というと、基本的に、パターンは決まっているのだ。
だから、ある意味、
「何度も使えない」
ということになるかも知れないが、それこそ、
「バリエーションで、いかようにもできる」
と考えられるのではないだろうか。
それを考えた時、
「他のトリックとの組み合わせ」
という考え方が生まれるのだ。
ある作家の作品で、得意としていたのは、
「顔のない死体のトリック」
というものに、
「一人二役」
というものを組み合わせたものだった。
元々、
「顔のない死体のトリック」
というのは、
「犯人と被害者が入れ代わっている」
というような公式があると言われてきた。
だから、最初に、
「顔のない死体のトリック」
というものを使う時、
「ああ、犯人と被害者が入れ代わってるんだ」
と大体の探偵小説ファンであれば、ピンとくるものだろう。
確かに最初は、
「その通りだ」
ということで事件を見ていたが、これが単独殺人であったら、正直、詰まらないかも知れない。
しかし、連続殺人ということで、それぞれの殺人に、それぞれのトリックが隠されているとすれば、読んでいる方としても、その醍醐味を味わうことができる。
三すくみや、三つ巴というのも、トリックのバリエーションとして使えるだろう。
しかし、それを、組み合わせることで、
「似たようなものでも、実は違う」
ということで、見ることもできる。
例えば、これは探偵小説のバリエーションと言えるかどうか難しいところであるが、組み合わせという意味で、
「ドッペルゲンガー」
というものと、
「世の中には三人はいるという、よく似た人」
という組み合わせである。
ドッペルゲンガーというのは、あくまでも、
「もう一人の自分」
なのだ。
本来ではありえないはずの、
「同一時間同一次元に、同一人物が存在している」
という。いわゆる、
「タイムパラドックス」
というものに、違反しているというものだ。
だから、
「世の中に三人はいるという自分と似た人間」
ということではない。
だから、ドッペルゲンガーというものを認めた時点で、小説は、
「探偵小説ではなく、ホラー、オカルト小説ということになる」
というのだ。
それをあくまでも、
「探偵小説だ」
と言い張るのであれば、それは、もはや、ドッペルゲンガーではない。
「自分によく似た人間」
でしかないだろう。
つまり、この世において、
「科学で証明できるものが、探偵小説で。証明できないものが、ホラーやオカルトだ」
といってもいいだろう。
だからこそ、探偵小説に、ホラー色があったとしても、科学で証明できないことをトリックにすることはできない。
もっといえば、
「完全犯罪というものを成し遂げるとするなら、それは、もはや、探偵小説の息を越えている」
といってもいいだろう。
となると、探偵小説のまわりに、ホラーやオカルトという小説があると考えれば、
「三すくみと三つ巴」
の関係といている。
ただ、それは
「どっちが表で、どっちが裏か?」
ということになるのだおる。
それを考えると、
「トリック」
というものは、
「似たようなもので、表裏を構成させるのがいい」
ということになるのだろう。
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