第4話 三すくみの関係
「三すくみ」
であったり、
「三つ巴」
という言葉を使ったりします。
しかし、この二つは似ているようで、遣い方が違う。
元々
「三すくみ」
というのは、三つのものが対立していて、それらの力関係が、輪になっているので、一角を潰してしまうと、残りの二つの力関係はハッキリしているので、お互いに動くことができない状態のことをいう。
それに比べて、
「三つ巴」
というのは、
「それぞれの-3つのものが対立していて、その力が拮抗していることから、勝負がつかないような状態をいう」
ということである。
この二つは基本的には、
「対立構造」
にあり、勝負はついていないのだが、三すくみは、
「動けば負けになる」
ということで、動けないので、ずっとこのままであるが、逆に、三つ巴の場合は、
「争っているのだが、拮抗しているので、飛び出すことができない」
という違いがある。
時系列で見ると、三すくみの場合は、それぞれに、
「交わることのない平行線」
の中にいるようで、三つ巴は、
「それぞれが、争いながら、一つの輪の中から出ることができないような光景だ」
といってもいいだろう。
三すくみと呼ばれるものは、三つ巴のように、力が拮抗しているわけではなく、それぞれの弱肉強食という摂理が、それぞれの中に存在している形だといえる。
動物というと、
「底辺」
あるいは。
「百獣の王」
と呼ばれるものでもなければ、
「自分に対して、強い者、そして、弱い者」
というのがいることになる。
ちなみに、
「百獣の王」
と呼ばれるライオンであっても、自分に対して強い動物は存在しているのかも知れない。あくまでも便宜上、百獣の王という言葉を使っただけである。
つまり、
「三すくみというのは、三匹はそれぞれに、他の二匹の種族は、自分にとって強い相手、そして、弱い相手の三つが、一つの密室のような小屋に閉じ込められているというようなものであった」
という感覚である。
だから三すくみというのは、たとえば、
「ヘビとカエルとナメクジ」
のような関係で。
「ヘビはカエルを食うが、カエルはナメクジを食べる。しかし、ナメクジはヘビを溶かしてしまう」
ということで、もし自分がヘビの立場であれば、どうなるかというと、
「目の前にあるカエルを食べてしまうと、今度は、ナメクジだけが生き残るので、そうなると、ナメクジの一人勝ちということになる」
という関係である。
前述で、
「交わることのない平行線」
だと言ったのは、
「3匹がそれぞれに、けん制し合い、自分から動いてはいけないということが分かっているので。動くことができない」
という状態なので、決して触れることはないという意味の言葉であった。
「この3匹が、
「決して動かない」
というのは、
「動物といえども、本能のようなものがあり、自分が食べれるもの、自分を食べるもの、それぞれが分かっているということになるのだろう」
もっといえば、
「それが遺伝子というものなのではないだろうか?」
ということである。
遺伝子というのは、
「先祖から受け継いできたものだ」
ということであるが、遺伝子というのは、それだけではない。
生きていくうえでのノウハウなども、その中には含まれていて、
「本能的な部分も遺伝子によって、持続しているものではないだろうか?」
といえるだろう。
また、
「先祖から受け継いだものだけでなく、人間に備わっている、自浄効果であったり、病気になった時などの抗体を作るというようなものも、遺伝子からではないか?」
とも考えるのだった。
人間に限らずであるが、ほとんどの動物は、ケガをしたり、外敵に襲われたりした時、血がでたりすると、かさぶたができたりして、
「止血作用」
のようなものが備わっている。
風邪を引いた時なども、自分の中で自然治癒のようなものが備わっているので、薬がその効力を高める役目をするのだろう。
よく風邪をひいて、熱がでたりする時というのは、
「勘違いをしている人がいる」
と言われるが、まさにその通りである。
「熱が出て、それを風邪だと考えると、
「熱を冷まさないと」
ということで、すぐに、頭を冷やそうとするだろう。
しかし、それはいけないことだというのを聞く。
というのは、
「風邪というのは、菌であったりウイルスが身体に入ったことで、身体の中で、異物が進入してきたということで、抗体を作り、その菌やウイルスと戦おうとする。それが熱を持つということになるのだ」
というのだ。
そういえば、電化製品でもそうではないか。
弱の状態よりも強にした時の方が、電力を食うので、その分、電源が熱く鳴ったりするではないか、
「電圧や電気抵抗が大きくなるから」
ということなのであろうが、身体だって同じことではないだろうか。
つまり、
「身体の中で、菌やウイルスに対しての抵抗があるから、身体が熱くなる」
ということである。
ということになると、せっかく、
「身体が菌やウイルスと戦ってくれているのに、身体を冷やせば、自分で自分を苦しめることになるではないか」
だから、本当は、
「熱が出てきた時というのは、まずは、熱が上がり切るまで、身体を冷やさない。逆に、身体を温めるように、布団の中に潜りこみ、安静にしている」
というのが正解ではないだろうか?
「では、いつ体温が上がり切ったのか? ということが分かるというのか?」
ということであるが、それが分かるのは、
「発汗作用」
のあるなしが問題である。
つまり、
「体温が上がり切ってしまうと、その時に、菌やウイルスを退治したのだから、その毒素のようなものを、汗として身体の外に出そうとする本能が、人間にはあるのだ」
だから、
「汗を掻く」
ということなのだ。
その時には、何度も衣類を着替えて、その時に身体を拭く。
そして同時に、この時に身体を冷やすということをするのである。
そういえば、
「確かに、悦が上がっている時、熱があるにも関わらず、身体がふるえていたではないか。それは、ある意味、武者震いというのか、身体の抗体が、菌やウイルスと戦っている証拠で、熱を持とうとしているが、身体は寒いという証拠ではないだろうか。
要するに、熱が上がり切って、汗を掻き始めれば、そこで、
「ピークは越えた」
ということであろう。
発熱もどんどん下がり始めて、身体の節々が痛かったのも、収まってくるというものである。
身体の中の、そんな、
「治癒能力」
というものは、誰にでも備わっているものだ。
これは、人間だけでなく、いや、他の動物の方が、発達しているのかも知れない。
たとえば、爬虫類のトカゲなどの種類は、
「尻尾を切られても、また生えてくるではないか」
ということである。
よく言われることとして、
「トカゲの尻尾切」
という言葉があるが、まさにその通りだ。
「尻尾を切ることで、外敵から逃れる」
という一種の本能で、自分を守る。
それは、
「社会における。悪徳なことをしている連中が、起業を守るために、下っ端の人間を切り捨てる」
という痛烈な皮肉などに使われることだ。
しかし、これは、本能ではなく、意識してやっていることであり、許されることではあない。
ただ、
「いい悪い」
という考えをお返しすれば、これも一種の本能おようなものだともいえるかも知れない。しかし、こんな言葉カリして生き残ろうとしても、結局、どんどん人が減っていき、結局、まわりは、守備力がゼロになってしまい、一気に敵から攻められると、どうしようもなくなるだろう。
得てして、そんな敵に中に、
「トカゲのしっぽとして切り捨てられた人もいたりするわけで、外敵によっては、切り捨てられた尻尾が出るのを待っていて、それを取り込むことで、攻撃目標を聞き出せるということになる」
ということで、
「トカゲというのは、自業自得」
ということであり、
「因果応報だ」
といえるのではないだろうか。
それを考えると、
「人間というのも、間違いなく動物の一種で、何も特別なものでも何でもないんだ」
ということを思い知らされるということになるのだろう。
それが、
「三すくみ」
というもので、
「動くと負けだ」
ということになる。
それぞれ、
「力の均衡」
が作用しているというわけで、
「三つ巴」
のように、
「力が拮抗している」
というわけではないのだ。
「三すくみ」
というのは、作用であり、
「三つ巴」
というのは、
「それぞれが、主役で、何とかして、その巴を抜け出そうとして策を弄することができるというものだ」
その策というのが、
「時間に作用するものなのか?」
それとも、
「別の力を借りることで均衡を破ることになるのか、何といっても、自分だけが、一つ抜け出せばいいわけで、自分が力をつけてもかまわないし、相手の力を削いでもいいわけである:
といえるので、三すくみに比べれば、それだけ、
「自由だ」
といってもいいだろう。
「三すくみ」
というものはそうはいかない。
ちょっとでもその力の均衡を破ってしまえば、ダメなわけで、それこそ、
「それぞれに、抑止が掛かっている」
といってもいいだろう。
「抑止」
という言葉を聞いて、ピンとくることがないだろうか?
そう、
「核の抑止力」
と言われていた時代があったではないか。
今もなくなったわけではなく、
「核の抑止力」
という言葉の同意語として使ってもいいであろう、
「今ではなくなった言葉」
ということで、
「東西冷戦」
というものがあったではないか。
これは、元々が、
「大東亜戦争」
の時に、アメリカが、元々は、
「ナチスが原爆開発を進めている」
ということから、
「アメリカも原爆開発をしないといけない」
という、アインシュタインらからの手紙にて、
「マンハッタン計画」
というものが立ち上がり、原爆開発を行ったのだ。
原爆は完成したが。肝心のナチスは、崩壊してしまった。
そこで、白羽の矢が、日本に立ったのだ。
本来なら、日本に落とす必要はなかったのだろうが、それぞれの思惑が重なったことで、結果として、
「ヒロシマ」
「ナガサキ」
という悲劇が起こったのだ。
だが、そもそも、戦後の世界が、
「資本主義陣営」
と、
「共産主義陣営」
とに分かれて、睨みあうという構図は出来上がっていたのだ。
だから、
「アメリカとしては、実験ではなく、実践でどこかの都市で使う必要があった」
ということも、事実だったのだろう。
確かに、
「共産主義陣営」
では脅威であったことだろう。
しかし、彼らも、その開発に成功した。
というのも、
「ベルリンを占領したソ連は、ナチスの科学者を大勢、モスクワに連れていっているであろう」
ということだからである。
モスクワに入った科学者たちは、助命を条件に、原爆開発に従事させられたことであろう。
だから、それから数年で開発に成功し、実験まで成功させ、
「アメリカに追いついた」
というわけだ。
そこで、初めて。
「核の抑止力」
というものがいわれ始めたのだ。
つまりは、
「使用してはいけない兵器」
ということであり、その理由が、
「使用すれば、世界は終わりを迎える」
ということになるのだ。
ということは、核兵器というものが生まれた時、誰かがいったと言われているが、
「これで世界から、戦争はなくなった」
ということであった。
「つまりは、結果、遣えば終わりというところに話が戻ってくる。これも一種の、三すくみであり、三つ巴のようなものなのかも知れない」
といえるだろう。
それが、
「抑止力」
というもので、それが最大限に生かされるのが、
「三すくみの関係」
ということだ。
ただ、
「東西冷戦」
というのは、三すくみではない。
だからこそ、
「いつ何が起こるか分からない」
と言われていた。
それを徐実に表したのが、
「キューバ危機」
という状況であった。
アメリカの南の島国が、
「キューバ革命」
という革命によってできた政権を、アメリカが警戒することで、キューバは、自国自衛の方法を探っているところに、ソ連という共産国から、友好関係を結ぶ話が舞い込んだ。
ソ連とすれば、
「仲間が困っているのだから、助けるしかない」
ということで、キューバ国内に、核を搭載できるミサイルの配備を決定したのだった。
アメリカが航空写真でそれを見つけ、アメリカ国民がそれを知ってしまったことで、
「核戦争」
というものが、現実味を帯びてきたのだ。
ソ連とアメリカは、もちろん、そんなことを望んでいない。しかし、どちらも、引き下がるわけにはいかないという中での、2週間ほどの、極限状態が続いたが、結果、ソ連が、ミサイル撤去を約束し、アメリカも、トルコのミサイル基地を凍結することで合意し、
「核戦争」
の危機はなくなった。
もちろん、キューバは文句を言ったが、それは、キューバがいっているだけで、世界は安堵したのだった。
ただ、米ソはその後、
「ベトナム戦争」
というものを、数年後に引き起こし、ベトナムという土地で、
「代理戦争」
が繰り広げられたのだ。
結局世界は、
「何を学んだ」
というのか>
それを思うと、
「キューバ危機」
というのが何だったのか分からないだろう。
何と言っても、その時のそれぞれの国家元首が、かたや、
「暗殺」
され、かたや、
「失脚し、死ぬまで、当局の監視下にあった」
という、悲惨な歴史もあるのだった。
そんな両国が、ベトナムで、
「代理戦争」
を引き起こすのだから、結局、時代は、
「グルグル回っているのではないか?」
といっても過言ではないだろう。
それを考えると、日本も、そのうちの片方の国におんぶにだっこという形である。
一体どうなるのだろうか?
もっとも、日本という国は、軍事力はあるが、
「戦争放棄」
という平和国家である。
世界の表舞台、つまり、
「戦争という舞台」
に上がることはできず、
「三すくみ」
というものにも、
「三つ巴」
という舞台に上がることもできない。
それを考えると、大日本帝国では、許容できる範囲ではなかったが、日本国になって、
「これでよかった」
ということであろうか。
つまりは、
「日本という国は、金を出すことしかできない国」
ということで、世界から甘く見られていたのかも知れないが、そのいい悪いというのは、誰が決めるものでもないのだ。
ただ、
「某国の属国」
ということになってしまった今の日本は、
「日本という国内で、三すくみや、三つ巴という形を描いているのかも知れない」
と感じる。
そこで一つ考えたこととして、
「三すくみというものと、三つ巴というものが、一つのサークルの中に存在し得るのだろうか?」
ということであった。
片方では、
「それぞれ、そこを支配する空気の均衡が保たれていることで、動いた方が負けだという、三すくみの関係」
かたや。
「それぞれの個々の力が均衡していることで、動かないと雌雄を決することができないが、そのために、その空気は、次第に大きな波のようになってしまう」
ということである。
「ひょっとすると、三つ巴の一つの中に、三すくみが存在するというのは、ありではないだろうか?」
ということが考えられる。
ただ、逆はどうなのか? 考えるのに、少し時間がかかりそうだ。
「三つ巴の中にある、個別な中に、三すくみがある」
という考えは面白いかも知れない。
「三つ巴の一つが個体だとすれば、その中にある三すくみの構成要素は、分子のようなものだと考えることができる」
ただ、そうなると、個体というのは、一つの元素とも考えられ、そこからの発想であれば、
「一つの物体を形成するものの元素を形成する原子、例えば、ベンゼン格のようなものは、三すくみの関係となっていて、だから、その分、強く結びついているのかも知れない」
と考えられないだろうか?
ということであった。
一つの物体を、表から見て、三すくみのように固まった状態であったとして、すぐにその状態を、誰が、
「三すくみだ」
ということが分かるというのだろう。
つまりは、三すくみのように、動いていないものは、まるで、戦国武将の武田信玄が提唱した、
「風林火山」
のように、
「動かざること山のごとし」
という言葉が思いだされるのではないだろうか?
そういえば、あれは、子供の頃に見たアニメだったが、
「ある一定の空間に入ると、そこは紫色の空間で、もちろん、本来なら無色なのだろうが、分かりやすくするために、紫に塗っているのだろうが、その箇所だけ、凍り付いた世界だった」
ということであった。
しかし、よく見ると、そこは、物体がゆっくりと動く世界で、警官がビックリして相手に発砲したのだろうが、その発射された弾丸が、ゆっくりと、相手に向かって、宙に浮いている感覚で、ただ移動しているのであった。
そんな光景を思い出すと、その世界で、普通に動いている人からみれば、自分たちは、早すぎて、その存在すら分からないという形になっていることであろう。
そんなアニメがあるかと思えば、違うアニメで、
「主人公には、加速装置がついているようで、それは、サイボーグだったのだ。その時は子供心に、家族装置を埋め込むのだから、サイボーグでないといけないんだろうなというようなことを、ただ感じているだけだった」
しかし、もっとよく考えてみると、
「我々普通の人間から見ると、普通の人間に加速装置をつけるとどうなるか?」
ということであるが、考えてみれば、
「戦闘機などのスピードであっても、重力などの圧力がかかるということで、訓練が必要なのだから、それが、見えないくらいの速度であれば、本当に人間の身体が耐えることができるということなのだろうか?」
ということになるわけである。
それを考えると、
「人間にとって、身体を形成している分子が、どれほどの絆になっているかということは、元素の構造によって決まるであろう」
ということである。
「地球上で、一番硬いとされる物質と、軟体とであれば、元素がどのように違うのか?」
ということになるであろう。
だが、元素というものは同じであり、それを構成する要素が違うことで、硬度が変わるだけで、
「その基本的な関係に変わりはない」
ということになるのであろう。
それが、
「三すくみというものだ」
ということであれば。人間の思考というものも、その三すくみでできているといえるのではないだろうか?
ただ、それは人間でしか創造することはできない。
なぜなら、三すくみというものは、
「発想することができる人間だからこそ、できているものであって、思考能力があるのは、三すくみを創造できる人間だけではないだろうか?」
といえるのではないかと思えるのだった。
三つ巴の中にある三すくみの関係だが、それぞれでは、三つ巴の三つの一角が、キチンと見えているのだが、その三つは、巴のようになっているが、本来なら見えているはずだ。見えないと、それぞれが、争っているのに、相手が見えないと、その時点で、争いにはならず、簡単に均衡が崩れるからだ。
だが、それでも、三つ巴の関係はうまく機能していて、三つ巴の関係であるがゆえに、一角が崩れるかのように見えたのだ、
というのも、
「それぞれ三つの力が均衡しているということは、同じような三すくみが形成されているわけで、そこでは、力が平衡だから、均衡に保たれているのが、三つ巴の中に三すくみがあるという考えだ」
といえるのだ。
しかし、これが逆の関係で、
「それぞれの三つの力が平衡に保たれているという三すくみの中に、力が均衡している三つ巴があるとすると、表から見れば、いつ爆発するか分からないような、均衡しているがゆえに、歪に蠢いている元素が、重なって、一つの物体を形成しているのだが、それが三すくみで、お互いに身動きができない」
というような状態がもし存在しているとすれば、
「きっと、その分子同士は、力の均衡によって、不安定ではあるが、その分、臨機応変にはなれるが、そのまわりが、力の平衡状態であれば、身動きが取れるわけではないので、一見見た目は、変わっていないように見える」
といえるだろう。
もし、前者の、
「三つ巴が表に存在し、中を三すくみが形成する分子だったとすれば、それは、変身することはできないが、自分以外とはうまく、力を保つことで、集団で暮らすことのできる。人間を中心とした、高等動物と言われるものではないだろうか?」
と考えた。
そして後者の、
「三すくみが表に存在し、中が三つ巴の状態であったとすれば、三すくみの歪な関係性で、均衡が保たれているのだとすれば、そこは、変化であったり変異ができるものではないか?」
と考えるのだ。
だとすれば、それは、人間などの高等動物ではなく、完全に、自分の意思では行動できない。行動オアターンも何もかもが、制限されているという、前述のウイルスを例とするような、下等動物のようなものだとは言えないだろうか。
人間の目であったり、頭脳から考えると、
「細胞の世界」
というものは、想像することはできるが、あくまでも、
「話として、理解したり、解釈させるために、創造する世界」
ということになり、顕微鏡で覗いたような、何かが蠢いていて、平面なのか、立体なのか分かりにくい世界を形成していることだろう。
しかし、最近や、ウイルスのような連中から見れば、自分たちが単細胞に近く、変異などをして、生き残るという本能だけは持っていることから、もし、彼らに意識や、想像力のようなものが存在していれば、細胞の世界というのは、我々人間よりも、はるかに身近な存在なのかも知れない。
そんな存在を、ウイルスが見ているのか、ある青年には、自分の中にある元素と分子という発想で、
「まわりには、三つ巴が存在し、三すくみが、その中にあるということで、本来なら、元素の状態では、力の平衡から、動くはずが逢いものが存在していることを分かっているということだった」
彼は、それを友達に言ったが、
「何をバカなことを」
と言われるだけだった。
彼のいうことがウソか本当かは別にして、その様子はまるで、
「ルネッサンスにおける、ガリレオガリレイを思わせるのではないだろうか?」
いわゆる、
「それでも地球は回っている」
という言葉で有名な、地動説をまわりは誰も信じずに、世間を惑わすということで、投獄されるという憂き目に遭ってでも、自分の意見を貫いたガリレオである。
その青年は、処刑や投獄されることはなかったが、まわりからは、まともに見られることはなく、
「近寄ってはいけない」
ということを皆がいい合っていて、完全に、
「村八分の刑」
といってもいいだろう。
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