第3話 トリック
「今の探偵小説というものの、トリックは、すでに出尽くしていいて、あとはバリエーションの問題だ」
という人がいた。
それがどの時代だったのかというと、日本でいうところの、
「探偵小説黎明期」
と言われ、さらに、世情が怪しくなってきて、次第に、
「出版物」
などに、規制が入ってきた時期であった。
その時代にも、確かに、いろいろな探偵小説作家がいて、
「本格派探偵小説」
あるいは、
「変格派探偵小説」
と言われていた時代があった。
「本格派」
というのは、
「謎解きなどの推理を、探偵が解いていくというところの軽快さをストーリーの柱とした小説だ」
と言われる。
そして、
「変格派」
と呼ばれるのは、それ以外の探偵小説だという。
そもそも、探偵小説の定義もハッキリと知らない人からすれば、
「さらにややこしい発想だ」
ということになるだろう。
もっといえば、
「猟奇犯罪」
「都市伝説が絡むようなホラー色豊かな小説」
「耽美主義や、SM嗜好と言った、犯人などが、異常性癖を持っていたりするという小説など」
というものが、一種の、
「変格派」
と呼ばれるものだという定義をした作家がいたという。
ただ、
「本格派の中には、変格派小説を書く人もいるし、その逆もある」
あくまでも、
「しいて言えば」
というくらいで、一つの小説の中にだって、
「耽美主義や、変質者の犯行などと思わせておいて、実は巧妙に仕組まれたトリックだったり、犯人の計算を、名探偵が追い詰めていく」
というような、
「変格派と見せかけて、実は本格派だった」
という小説もたくさんある。
むしろ、出尽くしたトリックをいかに使って、バリエーションを生かすか?
ということになれば、当然、こういうやり方が、小説界では、普通にあるのではないだろうか?
だから、一概に。
「変格派と本格派のどちらかに固める必要などない」
といえるであろう。
探偵小説家の中には。
「私は変格派と言われているが、そういわれるのは心外だ」
などと言っていた作家もいたりする。
ただ、どちらも、立派な探偵小説であり、
「変格派の人が、本格派をバカにしたり、その逆というのは、本当はありえないのではないか?」
と考えるのであった。
「耽美主義」
というのは、
「モラルや道徳よりも何よりも、優先順位は、美の追求という」
ことが、その定義だという。
だから、犯罪などという、モラルや道徳が崩壊した出来事と耽美主義という考えは、結びつくのではないかということも言えるであろう。
「変格探偵小説」
というものの中には、そんな耽美主義的な話も多い。
そして、その耽美主義として、
「SM」
などという変質者的な趣味趣向を持った人が多いということで、そもそも、
「SMというものは、性的趣向から、美を追求するものだ」
と思っている人もいるだろう。
追求するものが、美でありさえすれば、そこに、快楽が備わっていても、何ら問題はないということであろう。
モラル、道徳という観点からいえば。
「快楽が、本当はそれに反するものだという定義があるのだろうか」
人によっては、快楽を得られなければ、性行為はできないという人だっているだろう。もし、快楽のない性行為というものがあったとすれば、
「子孫繁栄」
という義務感だけに駆られた拷問でしかないといえるだろう。
「人間は、快楽が得られるから、性行為をするものである」
といえるだろう。
だから。
「子孫繁栄のために、性行為をするのであれば、快楽という悦びは、決して悪いことではない」
といえるだろう。
ただでさえ、昔から、
「家」
という考え方は、特に日本人には強く、
「子供ができないのであれば、離縁されても仕方がない」
と言われていたものだ。
だから、何も殿様に、側室がいっぱいいるというのは、何も、
「ハーレムを作る」
ためでも何でもない。
もし、正室に子供ができなかったら、側室にできた子供を跡取りにするためである。
今でこそ、
「一夫多妻制」
というのは日本にはないが、これらが求められていたのは、
「子供を産めるのは、生理学的に、女性でしかない」
ということであった。
今でこそ、同性同士の結婚が問題になっているが、昔ではそんなことはありえない。
ただ、昔から、
「男色」
「衆道」
と呼ばれるものはあり、特に戦国時代の戦国武将などに多かったと言われているではないか。
やはり戦に出ることが多かったりするのと、
「明日をも知れぬ命」
ということで、目の前の肉体を求めるのであろうか?
正直、その理由は分からないが、見方によっては、
「男性同士の性行為」
でも、
「美の追求」
という見方で見る人もいるかも知れない。
それこそが、
「耽美主義」
というものの走りだと思うのは、危険なことであろうか?
小説のトリックの中で、耽美主義を思わせる話があった。
普通であれば、犯人の心理からすれば、
「殺人を犯してしまったら、なるべく現場から遠ざかりたい」
と考えるものではないだろうか?
そして、現場には、証拠となるものは絶対に残してこない。もし、残すのだとすれば、それは、警察をミスリードするためのものであったり、
「誰かが犯人だ」
ということを思い知らせるために、必ず、その人を犯人にするという目的において、いわゆる、
「偽装工作」
ということをするというものだろう。
もっといえば、以前読んだ本の中で、これが、
「密室殺人」
というものを微妙に絡んでいるのを見たことがあった。
というのも、本当は犯人とすれば、被害者が殺された時、そのまわりに、いっぱいの、警察をミスリードするような証拠をばらまいておいたという犯罪であった。
その犯罪は、ある旧家のような日本家屋で起こったのだが、その場所が田舎で、いわゆる、
「離れ」
のようなところだったので、おりしも、前日の夜から降り出した雪のために、本当は、犯人が逃げたとされ場所も、足跡をつけておいたのに、せっかくの工作が無駄になってしまったということであった。
しかし、これがその状況をまったく違ったものに変えてしまった。
それが、
「密室殺人」
という様相だったのだ。
足跡が消えたおかげで、
「犯人が、どこから入って。どこに逃げたのか分からない」
ということで、本当は、犯人がすぐに捕まるという単純な事件だったものが、
「完全犯罪」
というような形になってきたのだった。
しかし、これは、しょせん、偶然できたものである。そのことに気付くと、実は、
「密室の謎」
というのも、簡単に解けるというものであった。
というのが、
「ある程度の事件というのは、ほとんどは、その犯行の目的や主旨を考えれば、犯人は分かるというものである」
つまりは、
「顔のない死体のトリック」
ということが分かれば、
「被害者と犯人が入れ代わっている」
ということが分かるというもの(それを逆手にとった話もいくつかあるが)
さらには、
「一人二役」
などというものも、分かった瞬間に、すべてが明るみになるというもの。
密室殺人もそうだ。
見え方としては、
「不可能なことだから、事件を解決ができない」
といえるだろう。
しかし、これだって、密室のほとんどは、
「機械的トリックか、叙述トリックしかない」
ということであり。むしろ、
「犯人がどうして密室にする必要があるのか?」
ということを考えれば分かることだ。
密室殺人とのは、一見派手だが、密室にする必然性は基本的にはない。何かのアリバイトリックだったりと組み合わせてでないと意味がないといえるだろう。それを考えると、
「犯行の青写真が見えてくる」
というもので、
「犯人の立場になって考える」
ということをすれば、トリックが解けなくても、矛盾さえ解消できれば、そこから事件の真相は見えてくる」
というものではないだろうか?
そこで一つ考えられるのは、
「密室殺人」
というものは、実際に起こしたとして、
「犯人にどれだけのメリットがあるか_
ということであろう。
「密室殺人を、他のトリックと一緒に考えた場合に、さらに別のトリックが見えてくる」
ということもある。
つまり、密室トリックというものと、他の犯行を式にした時、
「1+1=2」
ということではなく、
「3にも4にもなる」
ということで、
「トリックというものは、数学ではなく、化学だ」
ということを言う人もいるだろう。
一種の、
「化学変化をもたらす」
といってもいいだろう。
だから、トリックというものは、出尽くしているかも知れないが、バリエーションでいくつにもなる」
ということである。
というのも、トリックの数学的な組み合わせは、数式によって決まってくることであろう。
しかし、
「小説の初めから終わりまで。まったく同じものとしてしか、そのトリックの組み合わせを考えることができない」
ということであれば、っそれお考えられることであるが、実際には、そんなことはない。
「ちょっとでも違えば。まったく別の小説だ」
ということである。
だから、
「事実は小説よりも奇なり」
と言われるのであろう。
小説であれば、まずは、
「トリックありきで考え、そのトリックを使うために、いかに小説というものを生かすことになるだろう?」
ということを考えると、そこに明らかに見えてくるものというものがあることであろう。
だが、現実はそうはいかない。
前述の、
「密室トリック」
としての殺人が、実際には、最初から密室トリックではなく、自然現象から起こってしまった、
「不本意な密室殺人」
ということで、せっかくの完全犯罪が、そこでちょっとしたアリの穴ができてしまった。
大きな家も、シロアリの一匹から崩れるとも言われていることで、まったく想像もつかなかったところからひびが入って、事件を煙に巻くのであろうが、逆から見れば、見えてこなかったことが見えてくることで、
「この結論が出るには、どういう可能性があるのか?」
ということを考えていって、いらない部分を削っていくことで、分かってくるところも煽甥だろう。
つまり、
「ゼロからスタートして、積み重ねていく、加算法がいいのか?」
あるいは、
「ある程度の形を作っているところから、矛盾な部分を排除していくことで辿り着く結論がいいのか?」
ということであれば、
「やはり、矛盾を取り除くという考えの方が、早く真実を掴むことができる」
ということではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「密室などありえない」
ということで、その意思を持ったところから出発すると分かってくるのだろうが、
「ありえないと思いながらも、事実として見えてきたことは信じないわけにはいかない」
という考えが、いかに真実に辿り着けないという道に入っているのかが分からないのだろう。
それこそ、思い込みは恐ろしいということである。
トリックとして、
「バレてしまえば終わりではないか?」
と考えられるものの、最前線として感じるのは、
「交換殺人」
というものであった。」
それは、さらに問題となるのだが、
「交換殺人というのは、小説ではあることだが、実際の犯罪としてはなかなかあるものではない」
というものであった。
とういうのは、
「交換殺人というのは、犯人を実行犯と、教唆に分けることで、まず教唆する人間、つまり、被害者に死んでほしいと思っている人間のアリバイを作っておける」
ということなのだ。
もっといえば、
「交換殺人を行うことによって、利害関係があれば、当然警察から疑われることになるが、一番最初に犯人としての疑いが晴れるというのは、アリバイのあるなしではないだろうか?」
つまり、
「いくら動機があったとしても、鉄壁なアリバイというものがあれば、犯行を行えるわけはない」
ということで、容疑者から外れる可能性は高い。
ただ、完璧に、
「外れる」
というわけではないだろう。
当然、、警察としても、
「実行犯が別にいるのでは?」
ということを考える人もいるだろう。
しかし、それはあくまでも、
「犯行を行わなければいけない」
というほど、
「容疑者と密接に関係のある人間でなければありえない」
ということになるに違いない。
だから、犯人として難しいのは、
「実行犯と、教唆犯が、少しでも関係がある人間だと思われると、実行犯として捜査される可能性は、ゼロというわけではないだろうが、基本的には、限りなくゼロに近いだろう」
といえる。
警察というところは、まず、交換殺人などということを疑ってみることはないだろう。
「教唆というのは、あくまでも、実行犯は、教唆犯にくらべて、立場が弱い人間」
というものが、大きな要因となる。
たとえば、
「実行犯は、教唆犯に借金がある」
あるいは、
「教唆犯は、実行犯に何かの弱みを握られている」
などということである。
というのは、何かの犯行を見られていたり、教唆犯が、何かを計画しているということを看破していたり、
という場合であろうか。
ということは、
「教唆犯にも、何かのっぴきならない問題」
というものがあって、
「誰かを殺してしまいたい」
という恨みのようなものがあったり、
「殺さないと、自分が殺されてしまう」
などという、誰かとの弱肉強食のような事態になっているようなことなどが、あったりする場合である。
だから、お互いに、
「誰か、死んでほしい」
という相手がいる場合というのが、
「交換殺人」
というものの要因の一つとなるのだ。
しかし、この関係は、前述のような、
「立場が相手よりも弱い」
ということであれば、
「交換殺人」
などということをする必要はないのだ。
相手を実行犯にしてしまえば、自分は教唆しただけで、実行犯が捕まって、そして教唆の話をしない限りは、自分は何もする必要はないからである。
交換殺人というのは、
「自分が殺してほしい人を誰かに殺させ、その誰かが死んでほしいと思っている人を、自分が手にかける」
というものである。
だから、殺したい相手がいたとしても、
「自分には、鉄壁のアリバイがある」
ということにしておけば、
「自分に容疑が向くことはない」
という考えであるが、もし、警察が、
「実行犯が別にいる」
ということを考えたとした場合に問題になるのは、
「教唆を行った人の人間関係
である。
「人間関係を調べて、知り合いだということが分からなければ、二人を結びつけるものがないもない」
ということで、この犯罪に関しては、
「完全犯罪」
ということになる。
しかし、これだけでは、実行犯は動いてくれないだろう。
いかに、立場が絶対的なものであっても、こと、
「殺人を犯す」
ということはよほどのことである。
それこそ、昔の、
「やくさの抗争」
のように、若いチンピラのようなやつに殺させておいて、その見返りに、
「戻ってくれば、幹部にしてやる」
などと言われて犯行に及んだり、
「借金をチャラにしてやる」
などと言われ、犯行に応じることはあるだろう。
あるいは、
「誰かを人質にされて。やむなく犯行を犯してしまう」
というようなことは、昔だったらあったかも知れないが、最近もあるのかどうかは、よく分からない。
ただ、
「殺人を犯す」
というのはよほどのことで、
「自分が、誰かのために実行犯になるのであれば、その相手にも、同等のリスクを持ってもらい、自分にとって、死んでほしい人間を葬ってくれるということであれば、犯行としては、都合のいいものではない」
といえるだろう。
確かに、最初の下準備はかなり難しいところがあるだろう。
まず、誰かが、
「交換殺人」
を考えたとして。まず最初に、大きな問題にぶち当たるのではないだろうか?
というのは、
「実行犯を探す」
ということが難しい。
まず大体の前提条件として、
「誰かを殺したい」
という、その誰かがいる人でないといけないということ。
ここがある意味、一番難しいかも知れない。
というのは、
「誰かに死んでほしいと思っている人はいませんか?」
などといって、メガホンを持って大っぴらに探すわけにもいかない。
もちろん、ネットに晒すわけにもいかない。
見つかったとしても、そんな募集を掛けたりしたら、すぐに検閲が掛かるというのは当たり前のことで、
「なるべく、誰にも知られてはいけない」
という選定があるのに、そんな簡単に大ぴらにできるわけはない。
となると、偶然そんな人が見つかるか、そういう目で見ていることで、自分の目が、そういう人を探しているということで、次第に、察知できるようになるという、
「特技」
でもない限り、そう簡単に見つかるわけはない。
それだって、もし、そんな人がいたとしても、いきなり他人にそんなことを打ち明けるなどありえない。
知り合いになったとしても、親友というくらいの仲にならないと、相手が口を割るなどということはありえないに違いないからだ。
さらに考えられることとして、
「二人の間に、利害関係はまったくない」
という条件も必要であろう。
つまりは、
「二人の間に、接点はない」
と思わせる必要があるわけなので、二人が仲良くなってから、犯行計画を練る時はもちろんのこと、
「知り合って仲良くなるまでというのも、関係を怪しまれるようなことがあってはいけないだろう」
ということである。
しかし、仲良くなるまでに、誰にも見られないというのは、実質不可能に近い。
それを何とか少しでも、
「関係が薄い」
ということにしないといけないのであれば、
「仲良くなるまでと、実際の犯行までの間に、時間があればあるほど、いい」
ということになるだろう。
だが、もし、その間に、
「相手が、誰かを殺してほしい」
という感情が、次第に薄れていったり、肝心の
「動機というものがなくなってしまう」
ということになった場合ということも考えられないわけではない。
もっといえば、相手が殺してほしいと思っている人間か、自分が死んでほしいと思っている人間が死んでしまって。そもそもの
「犯罪が成立しなくなる」
ということになりかねないということだ。
そういうリスクも交換殺人にはあったりする。
要するに、交換殺人というのは、
「犯行を成功させるということよりも、いかに、完全犯罪に持ち込むことができるか?」
ということが問題になるのだった。
どんなに完全犯罪をもくろむ計画であったとしても、一人で行い、共犯がいたとしても、立場が同じであった場合は、
「犯行が不可能」
ということになれば、辞めてしまうこともできるだろう。
しかし、交換殺人ともなるとそうはいかない。
片方が裏切ったり、怖気づいたりすると、犯行が、最初からうまくいかないということになるのではないだろうか。
そういうこと一つをとっても、
「交換殺人」
というのは、
「大きなリスクを背負っている」
といってもいいのかも知れない。
何と言っても、交換殺人の場合の、
「論理的矛盾」
というものを、誰が看破できるというのだろう。
きっと、時系列で犯行を考えた時、一つ一つの辻褄を合わせてくれば、言い方は悪いが、「途中で計画がどうしても中だるみになるところがあり、それが、ちょうど、その論理的矛盾を感じさせないことになるのかも知れない」
というのだ。
この、
「論理的矛盾」
というのは、ある意味、
「心理的矛盾」
ということに結びついているといってもいいだろう。
というのは、
「犯行計画を練って、いよいよこれから、犯行の本番に向かうという時、一番の問題となるのは、最初の教唆犯にとって、鉄壁のアリバイがある」
ということである。
つまり、最初の犯行が起こった時、一番怪しいと思われる人間には、
「鉄壁なアリバイがある」
ということである。
つまりは、
「アリバイがある人間だから、その時間は、誰かと会っているとか、防犯カメラに映っているなどというものが必要だ」
ということであるのが前提だ」
ここで問題になってくるのが心理的なものであった。
最初の教唆犯というのは、実行犯が、
「自分の殺してほしい人を殺してくれた」
ということである。
そうなると、教唆犯は次に何を考えるであろうか?
「殺してもらったお礼として、今度は俺が、あいつの死んでもらいたいと思っている人を、殺してやらないとな」
と、果たして考えるであろうか?
「いや、待てよ?」
とそこで、一歩立ち止まって考えるのではないだろうか?
「今の自分は、死んでほしいと思っている人が死んでくれて、よかったと思っているのである。そうなると、何もリスクを犯してまで、相手が殺してほしいという人を、自分がわざわざ、殺す必要があるのだろうか?」
という考えである。
「相手は、そのこちらの気持ちを知ったとして、だったら、俺は自首すれば」
ということになるのだろうか?
そもそも、交換殺人などということを警察に説明して分かってもらえるかどうか。それも怪しいものだ。
それであれば、今回の殺人において、自分が何も言わなければ、実行犯として捕まることはないということで、いきなり警察にいうことはないだろう。
しかし、最初の実行犯は、
「自分が死んでほしい相手」
というのは、まだ生きているのである。
つまりは、
「実行犯として捕まることはないが、事態はまったく好転しているわけではなく、むしろ、悪化していることになる」
というジレンマに陥ってしまうことになるだろう。
自分が動けば、ボロが出てしまう。
しかし、このままであれば、自分がただ、損を下だけだということになり、どうしようもない心境に陥る。
だとすれば、この男が何も言わなければ、最初の教唆犯というのは、
「自分だけの完全犯罪を成し遂げた」
といってもいいだろう。
ただ。それは、
「今の間だけの完全犯罪」
ということで、実行犯が生きている以上、いつ露呈するか分からない。
という不安と背中合わせということで、
「完全犯罪」
というものが、いつひっくり返るか分からないということになるのであろう。
そもそも、これが、
「殺人の時効は、15年」
と言われていた時代であれば、
「時効まで分からなければ、完全犯罪だ」
ということになる。
つまりは、時効があった時期というのは、
「15年間隠れていて、犯行がと呈しなければ、罪に問われることはない」
ということで、その時点で、
「完全犯罪が成立した」
ということになるであろう。
完全犯罪という定義があるとすれば、
「時効成立時点で、警察に、真相すら分からなかった」
と言えばいいだろう。
そもそも、
「迷宮入りした時点で、準完全犯罪だ」
といってもいいかも知れない。
なぜなら、一旦迷宮入りしてしまうと、犯人が出てこなければ、指名手配写真は、交番の前などに、ポスターが貼られているかも知れないが、警察署内部では、とっくに、捜査本部は解散していて、基本的に、他の仕事であったり、新たな事件のために、忙しいということなので、この事件にかかわった警察官であっても、ひょっとして、犯人と思しき人間が目の前にいたとしても、
「意識しないで、犯人を見逃す」
ということがないとは限らないだろう。
それを思うと、
「完全犯罪」
というのは、犯人側の問題も大きいが、実際に犯罪を捜査する警察側の考え方であったり、捜査へのモチベーションが大きく影響してくるものなのかも知れない。
ということになるのだ。
しかし、今は、
「殺人という犯罪に、時効はない」
ということになっている。
だから、殺人事件には、時効はないのだ。
ただ、それだけに、
「迷宮入り事件」
というのは、どんどん増えていく。
「15年経って、時効が成立した」
という事件は、名実ともに、事件は迷宮入りということになるが、時効がなくなったということで、
「本当の完全犯罪は成立することはない」
ともいえるだろうが、そのかわり、どんどん迷宮入りする事件が増えてくる分、
「未解決事件に埋もれてしまう」
ということで、
「完全犯罪というものに、限りなく近づいている」
といっても過言ではないだろう。
ただ、これは、
「どこまで行っても、完全ではない」
ということで、何があるか分からない状態において、
「犯行を犯す者の心理状態が果たして耐えられるか?」
ということが問題となるだろう。
そんなことを考えていると、
「完全犯罪などありえない」
ということも分からなくもなくなってきたのだ。
特に交換殺人においての、
「心理的矛盾」
として挙げられるのが、
「最初の殺人と同じタイミングで、相手の犯行ができない」
ということだ。
それは、前述の、
「教唆犯の鉄壁のアリバイを作る」
というのが前提になっているので、
「交換殺人の構成要素」
ということになる。
もっといえば、
「交換殺人というのは、諸刃の剣だ」
ともいえるかも知れない。
そもそも、お互いに死んでほしい人が死んでしまえば、それが目的になるわけである。死んでほしい人間が死んだ後で、間をおいて、何もリスクを犯して、もう一人の人のために、義理というものを尽くす必要があるということなのだろうか?
何といっても、自分には、完璧なアリバイがあるのだ。いくら、
「恨みがある」
ということで、一番の容疑者ということにされたとしても、犯人として裏付けるだけの、アリバイがないということでもない限り、自分を警察が追いかけることはできない。
そのアリバイが、完璧な形で存在するのだ。
となると、警察側は何を考えるのかというと、
「この事件には、アリバイトリックがある」
と考えることであろう。
しかし、実際には、本人が犯行を犯しているわけではないので、アリバイがある時点で、
「この人は犯人ではない」
ということで、一応用紙者から外れることになるだろう。
そうなると、他の容疑者にもアリバイがあったりすると、今度は、
「振り出しに戻る」
ということになる。
それは、
「今までの捜査から、容疑者の特定すらできていない」
ということで、もう一度容疑者として戻ってきた場合、犯行から時間が経ってしまったことで、
「共犯」
ということを考えることもなくなってくるだろう。
そこまで考えると、
「果たして俺が、相手のために、犯行を犯す必要があるのか?」
ということだ。
警察だってバカではない。
「交換殺人のような話が、小説でもない限りあるわけはない」
と思っていることだろう。
警察だって、アリバイがある以上、その人は、安全であるということから、自分がリスクを犯すことをしないということくらい分かるというものだ。
しかし、逆に、犯行を犯す人、もっといえば、
「交換殺人」
というものを最初に計画した人には。
「全体を見渡している」
ということから、最初に完璧なアリバイを作り、自分にとって死んでほしいと思っている相手が死んでくれた時点で、
「もう、俺には何もする必要はないのだ」
と考えるというところまで頭が回るかどうかということもあるだろう。
「交換殺人」
というものに限らず、えてして、殺人計画を練る人間というのは、
「心理的なことをあまり考えることはしない」
ということではないだろうか?
まずは、理論的に、
「犯行が可能なのかどうか?」
ということが問題となり、それが可能であるとすれば、それが、
「完全犯罪というものができるわけはない」
ということを自分から打ち消していっているということに気付いていないのだろう。
つまりは、言い方は悪いが、
「策に溺れる」
ということではないだろうか?
殺人計画というものは、それだけ、
「多種多様な可能性についても考えなければいけない」
ということになるのであろう。
そういう意味で、
「交換殺人」
というのは、
「行われている犯行は、交換殺人なんだ」
ということが分かった時点で、
「もう先はない」
といってもいいだろう。
それだけ、
「最初の犯行を行った時点で、次の犯行を犯す必要がなくなった」
ということを、最初の教唆犯人が分かっていれば、彼としては、
「完全犯罪だ」
ということで、自分が全体の計画を立てたわけでなければ、そう思い込むだろう。
しかし、後から気づいた場合は、果たして、
「完全犯罪だ」
と思うだろうか。
ただ、
「けがの功名」
とでもいえばいいのか、自分にとっての計画通りだったのかと考えれば、少し、何もしないことに関して、
「疑心暗鬼になってしまうかも知れない」
といえるのではないか。
しかし、これはあくまでも心理的な問題で、実際には、動かない方がいいに決まっている。
そうなると、相手から恨みを買うということは必定で、下手をすれば、相手の方とすれば、
「もう、どうなってもいい」
ということから、
「自分を殺しに来るかも知れない」
ということで、不安な日々を過ごすことになるかも知れないのだ。
確かに、相手は立場からいえば、何といっても、
「殺人の実行犯」
ということで、まさかとは思うが、
「何か現場に、指紋であったりという重大な証拠のようなものを残していないとも限らない」
と考えたとすれば、それは、
「いつ捕まるかも知れない」
ということで、このまま一生、怯え続けなければならないと考えた上で、しかも、
「自分が死んでほしい」
と思っている人がまだ生きているというのは、問題解決になっていないわけなので、本来であれば、お互いに、
「得をする」
という計画が、相手からすれば、
「さらに、鉄壁になった」
ということになったとすれば、それは、
「これ以上のものはない」
ということになる。
「これは数学的に考えても分かるということで、自分たちが、今、マイナス10だったとすれば、お互いに殺してくれたことで、二人ともプラマイゼロになるはずのことが、最初の教唆犯が、そこで計画を終わらせれば、教唆犯はプラス5となり、実行犯は、マイナス5ではなく、マイナス15になってしまうのだ。つまりは、5だけ相手に移り、相手は死んでほしい人が死んだことで、さらに上乗せでプラス部分が生まれた。そのかわりに、自分がその分を受け持つ形で、マイナスがさらにマイナスになる」
ということになるのであった。
だから、交換殺人は、
「小説ではあるかも知れないが、実際の事件ではないだろう」
と考えるのは、
「心理的矛盾」
というのは、犯行を考えている場合、二人には分かり切っていることだろうと思うからであって、それが、
「本当に考えられることなのだろうか?」
と感じるところから来ているのかも知れない。
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