第2話 明と暗、パート2

 さて、この、

「統帥権」

 というものだが、まずは、そもそも、大日本帝国というものが、まずは、前述のような、

「立憲君主」

 であることであった。

 立憲ということで、日本がなぜ、

「憲法を制定したか?」

 あるいは。

「議会政治を行うようになったのか?」

 ということが分かったであろう。

 だが、日本という国は、これまでの歴史から考え、目指したものというのは、古代からお歴史を見ても、

「天皇中心の中央集権国家」

 というものであった。

 途中、中世においては、武士というものが台頭し、武士が力を持つことで、政治の中心は、

「幕府」

 というものに移行した時代があった。

 しかし、それはあくまでも、それまでの平安時代までというのが、

「貴族中心」

 の世界だったということ、そして、さらに問題は、日本が農耕民族であり、

「土地から上がる米というものが、大きな影響を持ってくる」

 ということであった。

 たとえば、日本国の古代からということを考えても、土地の法律にも、いろいろとあり、

それを管理するやり方も、いろいろあった。

 特に、

「荘園制度というものができてきてから、ややこしくなった」

 というものだ。

 基本的には、領主に納めていたものを、途中で、神社やお寺などが介入してきたりして、彼らが、自衛のために発展してきたのが、武士であったり、僧兵だったりした。

 僧兵や、地方武士が反乱を起こしたりして、それを朝廷が平定するようになると、その朝廷が派遣するのも、また武士であった。

 そんな中において、武士が次第に力をつけてくるが、身分的には、圧倒的に強いのが、貴族たちであった。

 だから、平安時代の武士というのは、貴族などを守るためであったりするので、

「貴族のために働くのが、武士だ」

 ということで、まるで、武士は。

「貴族の奴隷」

 というくらいにまで、貴族側は思っていたかも知れない。

 皇族や。貴族の、

「権力争い」

 あるいは、

「天皇家における、後継者争い」

 などというものが、内乱となってくると、そこに有力武士がついてくることになり、そこで力をつけてきたのが、

「源氏」

 であったり、

「平家」

 だったりする武士が、貴族の権力争いに巻き込まれ、勝った方の武士が力を持つようになり、最後には、平清盛が台頭することで、平家の天下がやってくることになったのだ。

 そこから起こってきたのが、源平合戦。完全に武士同士の覇権争いだった。

 こうなると、もう貴族や天皇には、力はない。勝ち残った源氏が力を持って、鎌倉に幕府を開き、

「そこから、600年という長きに渡る、武家政治が始まった」

 ということである。

 この時代に、数度、

「天皇中心の世の中に戻そう」

 という乱がおこったが、失敗に終わった。

「後醍醐天皇が起こした建武の新政」

 というものは、幕府の弱体化と、武士の不満が重なって、倒幕に成功し、

「建武の新政」

 というものが始まったが、結局、命を懸けて戦った武士ではなく、褒美となるはずの土地を貴族に分け与えるという、まるで、

「平安時代までの律令制」

 に戻そうということだったので、時代を逆行することになり、武力のある武士を敵に回したことで、結果、

「武士の世に戻そう」

 という力には逆らえず、また別の幕府と作るということにしかならなかったのだ。

 だからこそ、武家政治は長く続いた。

 しかし、今度は外国が介入してくることで、時代が大きく動き、最初は、

「天皇を仰いで、外人を打ち払う」

 ということであったが、外国の力が思ったよりも強いということで、それまでの、

「尊王攘夷」

 というものから、

「尊王倒幕」

 という形になったのだ。

 やはり、日本という国は、

「中央集権国家」

 として一つになるには、

「天皇を中心とした社会でなければならない」

 という、

「尊王」

 という考えは、外せないという独特な政治体制であるということであろう。

 という時代となり、

「徳川幕府を倒し、天皇中心の中央集権国家の建設」

 ということを、薩摩、長州が中心となって行うだった。

 それが、大日本帝国が生まれるまでの、

「日本の歴史」

 というものであった。

 しかも、江戸幕府というのは、約200年に渡り、

「鎖国政策」

 というものを取っていた。

 その最大の理由は、

「キリスト教排除」

 というものであった。

「キリスト教は国を亡ぼす」

 と言われていたが、それは、実は間違いではなかった。

 前述のように、諸外国における、

「植民地化」

 というものが、

「キリスト教の宣教師を送り込むことから始まる」

 と言われていた。

 つまり、宣教師を受け容れることで、国内が乱れ、内乱を起こさせるということが最大のミソなので、最初の宣教師受け入れさえなければ、いいのだ。

 特に、幕府は、最初からそれがわかっていたのかどうかは、正直不透明だが、

「キリスト教が、徳川幕府のやり方と違っているのは、明白だった」

 といえるだろう。

 それを思えば、幕府の。

「キリスト教禁止令」

 というのは、政策的には間違っていなかったのだ。

 すでに、キリシタンとなっている人たちを迫害したりしいたことは、人道的にどうかとは思えるが、実際に、一揆が起こる原因として、戦国時代などでは、寺社の力が強かったりして、特に、信長を苦しめた、一向宗などによる勢力を考えると、

「宗教は怖いものだ」

 といえるだろう。

 特に徳川初代将軍である家康を苦しめたのも、一向宗の一揆であった。

「三河一向一揆」

「長嶋一向一揆」

 などと呼ばれるものも、直接家康と敵対したものだったからである。

 だから、

「宗教というものが、政治に介入してくると、ロクなことはない」

 ということは、幕府が一番わかっていたことであろう。

 しかし、それが、外国による。

「砲艦外交」

 によって、国が混乱し、結局、行き着いた結論として、

「外国を受け容れ、自分たちが、その外国に追いつけ追い越せ」

 ということしかないという結論だったのだ。

 弱小明治政府ではあったが、

「殖産興業」

「富国強兵」

 というスローガンは、次第に国力を強くしていき、結果として、

「日露戦争の勝利」

 ということで、世界の列強の中に、アジアで唯一仲間入りしたということで、念願であった、

「不平等条約の撤廃」

 ということには成功した。

 しかし、それだけに、今度は日本の安全保障という観点から、

「軍による方針によって軍が二つの派閥に割れたのpだった」

 それが、陸軍の派閥として、仮想敵国ということでの問題だった。

 一つは、

「仮想敵国をソ連とする」

 という考え方で、彼らは、陸軍大学出身ではない、いわゆる今でいえば、

「ノンキャリア組」

 と言われる人たちで、

「皇道派」

 と呼ばれる派閥だった。

 そして、もう一つは、

「中国大陸に進出し、中国への進出を考える」

 という考え方で、彼らのほとんどは、

「陸軍大学出身者」

 といういわゆる、

「キャリア組」

 というエリートだったのだ。

 また、海軍は、その考え方が違い、

「アメリカ」

 というものを仮想敵としているということで、陸軍とはまったく違った方針だったのだ。

 ここで、統帥権というものが出てくるのだが、これはどういうことなのかというと、憲法に書かれているのは、

「天皇は陸海軍を統帥す」

 ということである。

 つまり、

「陸海軍というのは、天皇直轄だ」

 ということである。

 陸海軍は、政府の関与を受けることはない天皇直轄だということは、

「政府による外交とは関係なく、天皇によって、動く機関だ」

 ということになる。

 さらに問題なのは、

「天皇というのは、慣例的に、政治に口出しできない」

 と言われている。

 だから、政府が決定したことは、上奏され、天皇が、それを聞いて、追認するということであった。

 要するに、

「閣議決定されたものを、天皇が追認となるので、天皇は口出しできないのだ」

 ということになる。

 しかし、逆に、軍部のことは、天皇が、最高責任者ということになるので、天皇が直接命令を下すということになるので、

「天皇を無視しての軍の作戦というのはありえない」

 とうことである。

 したがって、

「天皇の命令のない軍の作戦はありえない」

 ということになり、さらには、

「政府の方針には、天皇が口を出せない」

 ということで、

「軍と政府は、まったく違った命令系統であり、別々の機関なのである」

 しかし、実際に、

「有事」

 ということになると、そうもいかないだろう。

 このあたりが難しいのだ。

 たとえば、昭和初期に起こった、

「満州事件」

 であるが、

「この時は、日本軍が行ったこととして政府が追認し、天皇にも上奏し、不拡大方針を打ち出したのだが、関東軍はそれを無視した」

 ということになっているが、満州事変の原因を考えれば、

「不拡大」

 というのはありえない。

 そもそも、満州事変を引き起こした理由というのが、

「日本における食糧問題だったのだ」

 というのは、

「日本は、当時、人口が爆発的に増えていて。しかも、凶作や、昭和恐慌なるものが起こり、子供を売らないと生活ができないと言われるほどに困窮していたのだ」

 そこで考えたのが、

「他の土地への移住だったのだ」

 そこで、軍が画策したのは、

「満州で事変を起こし。それに乗じて、満州全土を征服し、そこに傀儡国家を立ち上げる」

 ということであった。

 それが

「満州事変」

 であり、

 その計画として、まず、

「満州全土の占領」

 それは、約半年という期間で、電光石火のごとく成功した。

 そして、天津から溥儀を連れてきて、元々満州族の溥儀を執政とした、

「満州国」

 を作り、さらに翌年には、溥儀を宣統帝として、皇帝に即位させ、そこで、

「満州帝国」

 としての独立国家を作ったかのように装っていたが、実際には、満州国というのは、

「関東軍配下の傀儡国家」

 ということだったのだ。

 ただ、そのおかげで日本という国は、当初の目的であった

「食糧問題」

 というものを解決できたといってもいいだろう。

 この時、政府は追認するばかりで、独断専行で作戦を行ったのは関東軍だったのだ。

 それもそのはず、

「大日本帝国陸軍というのは、天皇の統帥権の中にある、機関だからだ」

 ということだったのだ。

「大日本帝国」

 が、軍部が独断専行を行ったことで、結局、無謀な戦争に突っ走ってしまったことで、結局、

「国土を焦土として、大日本帝国を破壊してしまった」

 ということになると言われているのだ。

 だが、本当はそういうわけではなかった。

 かの戦争は、本当はちゃんとした作戦が軍にはあったのだが、辞めるはずだったタイミングでやめられなかったのは、もちろん、軍の過信というものもあっただろうが、それよりも、

「マスゴミの煽り」

 によって、民衆が、

「世論となって、戦争を辞めれば、暴動が起きたりする」

 というそんな状況に入ってきたのだった。

 ということであった。

 しかし、その前の軍部が強力になってきたということの背景にあった事件を描かないわけにはいかなおいだろう。

 それが、満州事変から数年後に起こった、いわゆる

「軍事クーデター」

 といわれる、

「226事件」

 だったのだ。

 これはそれまでの事件としての。

「515事件」

 などとは少し内容が違っていた。

 どちらかというと、

「相沢事件」

 などの方が近いかも知れない。

 この

「226事件」

 と呼ばれるものは、いろいろな解釈がある。

 映画などで描かれているのは、

「天皇の側近連中の特権階級が、天皇にウソの情報を流し、自分たちだけが得をするということで、彼らを討つ」

 というものだった。

 だから、スローガンが、

「尊王倒奸」

「昭和維新」

 だったのだ。

 つまり、天皇の側近の中でも、

「君側の奸」

 と呼ばれる、徳をする連中を倒すということがスローガンだったのだが、実際には、自分たちの派閥を脅かした連中に対する復讐だったのだ。

 つまりは、前述の派閥としての、

「皇道派が統制派を排除する」

 という、いわゆる、ただの、

「派閥争い」

 でしかないということだった。

 軍部は、結構反乱軍に対して。同情的だったが、怒りをあらわにしたのは、昭和天皇だった。

 天皇はさすがに大元帥で冷静に軍の体制を見ていたのだ。だから、彼らが反乱軍であることは明白で、何といっても、一番悪かったのは、

「軍を天皇の命令もなく、勝手に動かした」

 とが、最大の間違いなのだ。

 自分たちの目的を果たすため。いくら天皇のためだとはいえ、明らかな派閥争いで、クーデターを起こすなど、あってはならないことである。

 それを考えると、天皇が怒り狂ったというのも当たり前のことである。

「お前たちが二の足を踏むなら、私自らが、総大将となって、反乱軍を討ち取る」

 とまで天皇に言われては、彼らを反乱軍とするしかないのも仕方がないことだ。

 反乱軍としても、自分たちを天皇が認めてくれなかったと思えば、もう投降するしかないのだった。

 何といっても、勝手に天皇の軍を動かしたのが一番の間違いだったのだ。

 したがって、反乱軍の責任者である青年将校たちは、その場で自決したり、投降して、自分たちの言い分を、軍法会議でぶちまけるということを考えたていたようだが、実際には。

「弁護人なしで、非公開の中、全員死刑」

 という、最高の刑が処せられた。

 これはやはり、天皇というものが、

「自分というものを使っての、派閥争いを。しかも、天皇の軍で行った」

 ということを分かっていたからであろう。

 いわゆる統帥権というのは、大東亜戦争が起こった時でも、一番大きな問題は、

「戦争指導者というものが誰なのか?」

 ということであった。

 基本的にいえば、国家元首である天皇だということは、誰の目にも明らかであるが、天皇は、他の国のような、

「独裁者」

 というわけではない。

 特に、同盟国である。

「ナチス党のヒトラー」

 でも、

「ファシスト党のムッソリーニ」

 でもないわけだ。

 国家元首こそが法律というような世界ではなく、日本の場合は、あくまでも法律があり、それに従っての元首である天皇は、完全に他の国とは違っていた。

 実際に表に出てくるわけではないし、大本営には、大元帥として出てはくるが、あくまでも作戦を考えるのは、参謀総長以下の参謀本部の面々だからである。

 ただ、軍というのは、天皇直轄なので、政府は立ち入ることができない。

 特に陸軍というのは、

「陸軍省」

「参謀本部」

 と二つに分かれていて。実際に軍令を行うのが、参謀本部である。

 となると、陸軍省の陸軍大臣と、参謀本部の参謀総長を兼ねるということになると、

「権力が一人に集中する」

 ということで、

「慣例的に、してはいけないこと」

 ということになるのだった。

 だが。実際に戦争になってしまうと、戦争開始時の首相であった、東条英機は、陸軍大臣も兼ねていたが、あくまでも政府の人間なので、

「軍の作戦に絡むことはできない」

 つまりは、大本営に入ることもできないのであった。

 そもそも、東条英機というのは、

「陸軍軍人」

 である。

 統制派の中心人物として、実際に、陸軍エリートだったのだ。

 しかし、首相となり、陸軍大臣を兼ねている以上、軍には口も出せないし、軍からの情報も流れてこない。

 ということは、

「東条英機は、対戦国からすれば、戦争指導者にしか見えないのに、実際には、戦争の指導どころか、作戦参加も、現在の状況も分からない」

 ということになるのだ。

 それだけに、ミッドウェイでの散々な敗戦も、知ったのは、半年後だったというそんな中途半端な状況であった。

 これが、日本における統帥権の問題であった。

 一番大きな問題となったのは、

「軍縮会議での国際会議において、外務大臣や海軍大臣が、その軍縮に調印した」

 ということであった。

 そもそも、海軍大臣は、政府の側であり、

「軍の人事などをつかさどる省庁なのだ」

 ということである。

「軍縮問題」

 などというのは、完全に軍の作戦であったり、軍令に踏み込むことなので、これは、越権行為である。

 しかも、相手が、天皇なので、

「統帥権を持っている天皇の権利を、冒涜するものではないか?」

 と言われ、

「統帥権干犯」

 ということで問題になったのだ。

 とにかく、

「有事になっても、統帥権問題が絡んでいる」

 ということで、戦争にならないということにしかならないのだった。

 そんな大日本帝国ではあったが、日本の歴史から見ると、ずっと今までの政治家であったり、軍部の人たちは、

「いい悪いは別にして、中央集権国家をつくることが、日本国にとって一番いいことだ」

 ということを信じていて、それを国民全員が思ってきたということは、人によっては、

「洗脳されている」

 というかも知れないが、それが本当に悪いことなのだろうかと思う。

 今の日本も、

「いい悪い」

 という問題はあるかも知れないが、考えてみれば、戦争に敗れたことで、かつての大日本帝国というのは、

「そのすべてが悪いことだ」

 という教育を受けているのではないだろうか?

 だから、歴史の教科書でも、近代史というのは、実にはしょってしか書かれていない。幕末から敗戦までの、ほとんどが、大日本帝国だった時代も、時系列を並べ、あった事件を定義づけているだけの文章だけで、さらりと終っている。

 本来であれば、明治以降の歴史だけでも、教科書一冊でも全然足りないくらいの歴史なのに、ここまではしょってしまうと、

「これは学問ではない」

 と思えてくる。

「だったら、大学に行って、その時代を専門的に勉強すればいい」

 ということになるのだろうが、それも極端な例であろう。

 今の時代は、アジアの近隣の国に気を遣っているのかどうか分からないが、結果、軍国主義となってしまったことが、

「悪いことなんだ」

 ということにさせられて、政府も弱腰である。

 そして、本来であれば、昔の日本を支えてくれていた人を敬うのであれば、いいのだが、それこそ、

「罪人」

 というような扱いになるからこそ、今でも、

「靖国問題」

 などと言われるのだ。

 確かに今までの歴史から考えれば、

「豊臣政権から徳川時代に変わった時、徳川は、徹底的に豊臣政権時代のものを叩き潰し、徳川時代から、明治新政府に変わった時も同じだった」

 といえるだろう。

 ただ、それは、クーデターが起こり、新しく握った政府によって押し付けられたものであったが、今回の敗戦は確かに、最初こそ占領軍による教育というものがあっての、

「民主制の押しつけ」

 だったではないか。

 しかし、

「サンフランシスコ講和条約」

 によって、日本は、独立した民主国家になったのだから、教育も変えていいはずだ。

 過去の過ちがあれば、それをすべて、軍部のせいにして、本当の真実を見せずに、連合国の押し付けられたままの教育と、戦後80年近くも経った、もうすぐ、1世紀にもなるというのに、それこそ、

「愛国心というものはないのか?」

 ということである。

 それだけ、今の国民に押し付けられた教育が、今の政府にとって都合がいいということであろうか?

 要するに、

「明と暗」

 というもの、それをトータルで考えて、今明らかにする、

「明」

 という部分は、明らかに、

「自分たちの都合」

 というものしか考えていないということなのであろう。

 だから、本来なら、歴史の事実も、

「いいところ、悪いところ」

 それぞれをちゃんと教えるのが教育なのではないだろうか?

「学校では教えない歴史」

 というような本が売れているというのも、今の教育体制に対する皮肉であり、対抗心となるのではないだろうか?


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