影のある犯罪計画
森本 晃次
第1話 明と暗
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年8月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。
世の中には、双極的なものが結構存在していたりする。
例えば、
「明と暗」
というものであるが、これに関しては、
「陽と陰」
とも言い換えることができる。
もっといえば、その両方が、同じところにいるという感じである必要もないというわけで、むしろ、
「昼と夜」
の時みたいに、
「同じ場所で、一番外側にあって、その世界を作っているものだから、絶対に、その二つは、共存できない」
というものもある。
しかし、
「月と太陽などはどうであろうか?
昼間の太陽が出ている時間でも、月が見えているではないか。たあ、逆に月が出ているはずの時間に太陽が見えるということがあるだろうか?
それはありえないといえるだろ。
というのは、
「太陽という存在が大きすぎて、あたりすべてを照らすのが太陽だということになると。太陽が出ている時点で、いくら時間帯が夜であっても、状況だけを見れば、その時間は昼なんだ」
といっても過言ではないだろう。
確かに太陽というものは、
「天体すべてを凌駕する」
といってもいいくらいの力があるのかも知れない。
「まるで、ギリシャ神話に出てくる、全能の神である、ゼウスの神のようではないだろうか?」
といえるかも知れない。
ゼウスの神というのは、確かに、
「全知全能だ」
と言われているが、ギリシャ神話の中のゼウスというのは、まぁ、ゼウスに限らずであryが、
「オリンポスの神々」
というのは、
「人間よりも、人間臭い」
といってもいいだろう。
自分の私利私欲のために、地上の国家が、まるで、鼻息で蹴散らすかのように、あっという間に自然現象に見せかけて、抹殺することができるのだ。
だから、
「オリンポスの神々には逆らってはいけない」
ということなのだろう。
特に、ゼウスなどは、今でいう、
「肉食男子」
だという。
地上の女と、片っ端から契りを結んで、子供を産ませているというではないか。
その子供たちが、立派になり、世の中を動かしていくというのであれば、その存在を打ち消そうということはない。
この世において、何が一番怖いのかというと、
「神に逆らう」
ということである。
それは、聖書でも同じことで、むしろ、聖書の方が大きいかもしれない。
「食べてはいけない禁断の果実を食べてしまった」
あるいは、
「人間が堕落してしまったので、一度浄化を意味するという意味での、大洪水を起こさせる」
という、
「ノアの箱舟」
の話。または、
「点にも届きそうな塔を立てて。天に弓を射たりして、人間の力を恐れ多くも神に見せつけようとした、ニムロデ王という王がいて、それを怒った神が、民衆の言葉を通じないようにし、野に放った動物のごとく、どんどん世界各国に彷徨っていく:
ということになる、
「バベルの塔の話」
さらには、
「堕落してしまった村を滅ぼす前に、掴まっている家族を助けようとして、救い出したその時、後ろを振り向いてはいけないと言ったにもかかわらず、後ろを振り向いて、砂になってしまった奥さん」
という、
「ソドムとゴモラ」
の話などである。
どれにしても、神が、世界を、または、その一部を破壊するという形で、
「人間界は、神によって作られたものだ」
ということだが、この世界を、誰が人間界だと決めたのだろう。
いっぱい、助かるべき人がいなければいけないのに、一部だけが生き残るという。
一度は浄化したはずなのに、すぐに変な連中が出ていくということは、
「神の神通力もたいしたことはない」
ということになるのだろう。
このように、人間を作った神は、自分たちの思うようにいかない人間を、時々、こうやって、滅ぼそうとしているように思える。
実際は、自然災害のようなものが、その真相なのだろうが、それを、
「神格化」
して、神の権威を印象付けることで、宗教であったり、それらに近い組織が、暗躍した話を残したのかも知れない。
大体の宗教というと、基本的にであるが、
「この世で恵まれなかった人は、今、ここでお祈りをすれば、あの世に行った時、極楽に行ける」
ということで、
「死んだ後のことを、煽っている」
といえるではないか。
しかし、それなのに、
「自殺は厳禁だ」
というのは、どういうことであろうか?
明智玉(細川ガラシャ)が、夫の、細川忠興が遠征中に、敵対している石田三成が、自分の味方に付くようにと、留守を襲撃し、家族を人質にしようと企んだ時、彼女は、
「夫の足手まといになりたくない」
ということで、死を選んだ。
しかし、ここで、クリスチャンである彼女は、
「自殺は許されない」
ということで、
「配下の者に、自分を殺させる」
という手段を取ったのだ。
ただ、よく考えてみると、
「これが許されるのか?」
ということである。
キリスト教では、人を殺めてはいけない」
といっているのだから。自分がいくら自殺をしてはいけないという戒律を守るためだといって、配下の人間に、
「自分を殺させる」
というのは、本末転倒ではないだろうか?
というのも、
「自分のために、配下の者を人殺しにして、地獄に落とさせよう」
というのである。
それだったら、まだ自殺の方がマシなのではないだろうか?
正直、
「あの襲われた状況で、尋常な状況判断ができなかった」
ということかも知れないが、普通に考えて、
「捕虜になっても、生き延びる形の方がいいのではないか?」
という選択肢はなかったのだろうか?
夫が悲しむということだって、どこまで考えたのだろう?
そんなことを思えば、けっして、許される行為ではないように思う人は、少なくないであろう。賛否両論で、激しい激論になるかも知れないといえるのではないだろうか?
これが、大日本帝国における、大東亜戦争時代の、
「戦陣訓」
というのとは、また主旨が違っているだろう。
あれは、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
ということで、捕虜になるのは、恥ずかしいことで、
「そんなことなら、潔く自害」
ということであろう。
確かに戦争中の捕虜の処遇というと、かつての大日本帝国は、
「世界の見本」
というくらいに、捕虜に対しての処置が素晴らしかった。
しかし、他の国がどうなのかということは分からない。正直、
「諸国に攻め入って、占領し、植民地をどんどん作っている」
という国々なので、捕虜への配慮など考えられないと思っていたとしても、それは、決して間違った考えではなかったことであろう。
そもそも、この世において、争いや戦争などが、起きるというのが、どういうことなのか、正直、ハッキリと定義できる人などいるのだろうか?
戦争というもの、どんなものが多いのか?
いろいろ考えてみたが、どうしても、考えられるのは、宗教がらみというのが多いような気がする。
戦争というか、侵略というところで、宣教師というのが、そのカギを握っている時代があったではないか。
例えば、16世紀くらいから続く、いわゆる、
「大航海時代:」
に端を発して、
「植民地獲得競争」
なるものである。
特に、そのやり方というのが、宣教師が絡んでいると言われている。
まず、先遣隊として、宣教師を送り込み、そこで、布教を始める。そして、同時期くらいに商人もやってきえ、貿易も始まったりする。すると、元々あったその国の宗教と衝突などが起こり、国内が混乱すると、居留民保護であったり、商人の保護という名目で、軍隊を送り込み、その国の内乱を収めることで、統治を行うようになる。それが、植民地の始まりということになるのだった。
そんな植民地は、完全に属国となり、不平等条約はもちろん、宗主国には、逆らえないということになるのだ。
そうなると、例えば、世界大戦などが発生し、ヨーロッパが戦場になると、植民地からも兵として召集されるということになる。
この時の世界大戦は、
「民族問題」
が主であったが、結局は、
「民族も違えば、宗教も違ったりする」
ということで、
「間接的に、宗教が関わっている」
といえるのではないだろうか。
また、日本においての、戦であったり。一揆、あるいは、内乱というものも、宗教がらみがかなりあった。
キリスト教が前面に出たものとしては、
「島原の乱」
などというものがあった。
天草四郎時貞を、
「ゼウスの生まれ変わり」
などと称しての反乱であった。
当時の島原藩の領主が、その時代によく行われていた。
「大名の改易」
という状況。
つまりは、大した理由もなく、幕府から因縁を吹っ掛けられ、
「謀反の心あり」
と思われて、
「領地没収:
あるいは、
「お家断絶」
などという状況のことである。
成立してからまだ間がない
「徳川幕府」
であったが、元々は、
「豊臣政権」
というものから、独立する形で起こった徳川政権であった。
当時は、石田三成と、武闘派と呼ばれる武将たちとの間で、いざこざがあったことから、それに乗じた、
「天下取り」
だったのだ。
三成と武闘派の争いは、かの、二度に渡る、
「朝鮮出兵」
ということにおいての、論功行賞においての報告が、捻じ曲げられていたことへの不満が大きかったのだ。
「俺たちは、外国で命がけで戦ったのに」
ということなのに、恩賞があまりにも少なすぎるということで、その問題にかかわっていたのが、
「石田三成」
ということで、武闘派たちが、三成を恨むというのも分かるということだった。
もっといえば、
「三成など、国内にいて、戦争をしていないではないか。そんな血も流していないやつに、勝手に恩賞を決められてたまるものか」
ということでもあった。
かつては、
「皆、秀吉、いや、その性質である、おねに兄弟のように育てられた仲間だったのに、大人になって立場が変わってきたことで、このような憎悪の渦巻く関係になったというのは、悲しいことである」
といえるだろう。
しかし、それだけ、政治を行い、全国統一ということになると、難しいことなのであろう。
それを思うと、徳川幕府が成立した時、
「関ヶ原では、何とか武闘派連中を取り込むことで、勝つことができたが、それも、すべては、徳川が、豊臣政権を守り、秀頼を立てるということが条件としてあったからのことではないか」
ということであった。
さらに、そこに、
「三成憎し」
という感情があったのだから、ほとんどの武将が、家康についたのも分かるということであろう。
それでも、兵としては、互角だったのだから、三成もすごいといえるだろうが、それは、あくまでも、
「秀忠軍が、真田に、足止めを食ったことで、徳川本隊が、合戦に参加できなかった」
という状態でのことである。
そういう意味では、最初から秀忠軍が加わっていれば、倍近くの軍勢なので、正直、
「徳川の圧倒的な勝利」
だったともいえるだろう。
そうなると、
「小早川の裏切り」
などということもなく、戦は決していたに違いない。
戦で勝利したことで、家康は、
「江戸に幕府を開き、徳川時代の幕開け」
となったのだ。
しかし、だからといって、すべてが、徳川の思い通りになるというわけではなかった。
「まだ大坂には、豊臣政権があり、秀頼がいるのだ」
ということである。
位としても、家康よりも、秀頼の方が上であったり、元々、関ヶ原に置いても、
「家康が、秀頼を立ててくれるのであれば」
という条件で、家康方についただけである。
ということは、
「いくら幕府だといっても、豊臣政権をないがしろにするようなことがあれば、いつ、徳川に牙をむくか分からない」
ということで、関ヶ原の後、論功行賞の中で、豊臣ゆかりの武将の領地は増やしてはいるが、江戸から遠いところに、国替えになっているというのが、実情だった。
これも、豊臣政権においての、
「全国統一の最後」
となった、
「小田原征伐」
において、家康の領地。
「三河、駿河、遠江と呼ばれるところを没収し、大坂から遠い、関八州を与えた」
という秀吉のやり方のようなものであった。
しかも、この時の家康の江戸転封には、もう一つの意味があり、
「東北への睨み」
という、
「抑え」
の意味もあったのだろう。
それを考えると、
「徳川は、まだまだ、当時の豊臣世間を脅威に感じていたはずあ」
といえる。
下手をすれば、
「西国にいる豊臣ゆかりの武将たちが手を結んで襲い掛かってくる」
ということになりかねないからだ。
そんな、
「外様大名」
への抑えということで、徳川主要の、
「譜代大名」
たちに、城を作らせ、あくまでも、徳川を脅かさないようにと考えていたのだ。
結局、家康は、
「豊臣家が存在している限り、徳川の時代ではない」
と判断し、豊臣をけん制することで、大坂城が、
「浪人を集めている」
ということを理由に、
「大阪を攻める」
ということで、
「大坂の陣」
というのが始まったのだ。
豊臣方の、いわゆる、
「上層部」
というのは、淀君が仕切っているようなもので、しかも、その取り巻きに、ほとんど戦経験のない者ばかりだったので、
「真田信繁」
や、
「毛利勝永」
と言った有力浪人が立てた作戦を、ことごとく却下し。
「大坂城は難攻不落」
ということで、籠城戦となったが命取り、
「戦う前から、勝敗は決していた」
といってもいいだろう。
最後には、
「裸城同然」
ということになり、最後には、
「天守が燃え落ちる」
ということになり、淀君と、秀頼は、
「切腹して果てる」
ということになったのだ。
それが、最後の戦ということで、
「やっと、戦国の世が終わった」
ということになったのだ。
だから、この時の年号を取って、家康は、
「元和堰武」
という言葉を宣言した。
つまりは、
「元和という時代に入り、武器をすべて蔵に納め、戦のない時代の訪れを宣言する」
ということであった。
そもそも、この
「元和」
という元号も、
「平和の元になった年」
という意味が含まれているのだった。
それから少しして、家康は死ぬのだが、
「2代将軍秀忠」
「3代将軍家光」
という時代には。力のある大名。特に外様大名には、結構な因縁を吹っ掛けたりした。
そもそも、
「元和堰武」
によって、発せられたこととして、
「一国一城令」
というものがあった。
っ大名が政務を見るのに、一つ領内に城があればいい」
ということでそれ以外の城は、
「廃城」
ということにいなければいけなかった。
しかも、城の修理等も、いちいち幕府の許しを得ないといけない。
だから、改易の理由として、
「勝手に城の修理を行った」
ということであったり、
「浪人を必要以上に召し抱えたりすると、幕府に対して、謀反の心があると見られて、改易の理由にされてしまう」
ということになるのだ。
それを考えると、
徳川幕府はまだまだ安泰ではない。
改易の本気度は、
「外様大名だけにこだわらない」
ということだった。
三河以来の、徳川への重鎮であり、絶えず、親子二代で徳川家に仕えてきた、
「本多正純」
までもが、改易ということになったりした。
さらに、家光の時代になると、
「弟の忠長までもが、改易させられ、切腹の憂き目に遭っている」
ただ、これはウワサとして、
「忠長の素行が手の付けられないほどであった」
ということが原因だったともいわれているが、真意のほどは、どこまでだったのかというのは、分からないところであった。
徳川幕府というのも。安定するまでには、これだけの犠牲を払ったということになるのである。
そんな江戸であったが、確かに
「財政逼迫」
であったりなどといういろいろな問題を抱えていたが。それでも、大きな戦が起こらなかった、250年以上というのは、世界的にも珍しいと言われるほどの、まさに、
「天下泰平」
といっても過言ではない時代を築いたというのは、すごいことであっただろう。
それも、
「鎖国制度」
であったり、
「参勤交代」
であったり、
「天下普請」
と言われるような事業を大名に課すことで、大名の力を削ぎ、謀反を起こさせないようにしたという意味では、成功したといってもいいだろう。
そんな時代において、
「徳川幕府は、黒船来航までは、見事に鎖国政策を行っていた」
のだった。
そういう意味で、何とか、植民地にならずに済んだともいえるだろうが、
「日本の立地的な存在」
ということと、当時の外国からすれば、植民地時代というのは、
「日本は戦国時代であり、勇猛果敢な群雄割拠の時代に、他の国を植民地にしたような方法では、とても、日本に侵攻することはできない」
というほど、戦という意味では、日本にたいして、
「勝ち目はない」
と考えたのか、
「勝つことはできるだろうが、そのための損害は、相当なものだ」
と考えたとしても、それは無理もないことだったに違いない。
それを考えると、
「日本が植民地にならなかったのは、運がよかったということもあるが、ある意味、必然的だと思えるほど、武士というのは、強かった」
ということであろう。
何しろ、戦国時代のような、
「群雄割拠」
と呼ばれ、さらには、内部からも、虎視眈々と、領主に取って代わろうという、
「下克上」
と呼ばれるものが渦巻いているだけに、領主も必死である。
それだけに、
「戦争のやり方」
などというのは、武士たちのすごさが分かるという時代だった。
そんなところへ、占領軍を送り込んでも、
「そもそも、日本という国が、分裂しているのだから、最初から統治など不可能だ」
といえるだろう。
そうなると、幕末のように、
「どこかの藩であったり、幕府と直接結びついて、貿易を行う」
ということが精いっぱいということになるに違いない。
そんな時代を経て、黒船の威力、つまりは、
「砲艦外交」
と呼ばれる、一種の、
「脅し」
というもので、
「開国させられた」
といってもいいだろう。
ただ日本も数十年後、同じような、
「砲艦外交」
により、
「江華島事件」
を引き起こし、韓国を強引に開国させたということがあった。
それにより、その当時、韓国を属国とみなしていた、
「清国」
を、刺激したのは、無理もないことであった。
日本は、韓国を、
「独立国」
と見なし、清国側は、
「宗主国」
という立場で、韓国に介入してくるのだから、当然日清間の緊張は、すごいものだったのだ。
結局、
「朝鮮を巡る攻防」
から、日清戦争に発展した。
そもそも、韓国自体の中に。
「攘夷派」
と
「独立派」
とが対立し、日本、清国を巻き込むことで、事態が収拾つかなくなっていたといってもいいだろう。
これは、日本における、
「幕末の動乱」
と同じで、
「幕府にはフランス。薩長軍には、イギリス」
ということで、こちらも、一種の
「代理戦争」
という様相を呈していたのが、
「戊辰戦争だった」
といってもいいだろう。
そういう意味で、日本における日清戦争から後は、軍部が力を持ったことによって。そこから起こる戦争は、最初から避けることができなかったという意味で、その理由は、ある程度。
「一貫していた」
といってもいいかも知れない。
何しろ、大日本帝国というのは、一種異様で、他の国にはない軍の体制だったからである。
その一番の理由が、
「天皇制」
にあったといえるだろう。
というのは、大日本帝国というのは、
「立憲君主国」
というもので、
明治維新からの目標としては、
「開国した時に結んだ諸外国との不平等条約撤廃を目的とするために、諸外国に、追いつけ追い越せ」
ということで、国家のスローガンを、
「富国強兵」
「殖産興業」
というものに定めたのだった。
というのは、
「国を富ませて、国防に力を入れる。そのために、産業を興す」
ということだったのだ。
だから、
「諸外国に肩を並べるということで、外国のマネをしたり、議会政治や憲法の制定によって、近代国家になったことを示そう」
というものだった。
さらに、日本という国が、力を持つために、
「軍の強化」
もあったのだ。
西郷隆盛などが提唱した
「征韓論」
に反対しても、まずは、国の力を強めるということを優先しなければならなかったという理由もあったのだ。
ただ。この
「征韓論」
というのも、ある意味切羽詰まったものでもあった。
そもそも、明治維新の事業として、
「徳川時代の封建制度というものを、崩壊させる」
ということが大きな目標だった。
そのために行うこととして、まずは、
「身分制度の撤廃」
だったのだ。
いきなりは難しいので、
「四民平等とは言いながら、武士は士族、さらには、貴族を華族などといい、区別をしなければいけなかった」
のだった。
しかし、言葉だけで区別しても、封建制度のような特権は、もう武士にはない。
そうなると、それまでの武士と違うのだから、当然、不満が起こってくるのは当たり前というものだ。
そんな武士たちの不満を逸らすということでの、
「征韓論」
だったのだ。
だから、それからあと、
「佐賀の乱」
「萩の乱」
「秋月の乱」
などという不平武士の反乱が、いろいろなところで生まれてきたというのも、仕方のないということだったのだろうか。
そんな立憲君主の国なので、まず言えるのは、
「君主は天皇であり、大日本帝国というのは、天皇中心の国家であるということなのであった」
そんなことは、理屈では分かっても、実際にどういうものなのかということは、諸外国では、想像することもできなかったであろう。
それが、大日本帝国憲法の、天皇の欄にある、
「統帥権」
という問題だった。
この統帥権というのは、その後、大日本帝国が崩壊するまで、
「軍が暴走したことで、戦争が勃発し、敗戦することになった」
という、思い切りはしょった内容になるのも致し方ないことであったのだ。
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