再起

はみのめ

再起

 ピピピッと目覚ましの音が鳴る。まだ重い瞼を支えながらベッドに座る。あたりを見ると、暗い部屋に昼の太陽が顔を覗かせていた。

 「もう...昼時なのか」

 昼まで寝ていたことに若干の罪悪感を感じながら手早く着替えを済ませる。外に出ると蝉の声が一番に俺の耳に届いた。空を見上げれば、真っ白な太陽が熱をここまで運んでいる。文字通り干からびてしまいそうだ。ゆっくりと歩を進める。若々しい緑が視界に入る。太陽とブルーハワイのような空の色が相まってエメラルドのように煌めいている。俺にはそれが、とても眩しく見えた。


 最近、散歩をしていると無性に学生時代を思い出す。まるで今の俺から目を背けるように。あの時はダイヤの原石のようだった。だが、プロテクト入隊試験を受けてから変わった。変わってしまった。俺はだんだん炭のように黒くなっていったのだ。

 エイリーン・カタルシス。俺の名前。大層な名前だ、と名前を思い出すたび感じる。カタルシス家は何らかの挑戦をし、自分の精神を成長させることを美徳としている一族だ。昔ほど一族の束縛は強いわけではない。むしろ緩いほうだ。だが、成長する機会すらもらえず落ちこぼれた俺。落ちこぼれたからと言って、何かを言う人はいない。ただ、視線が突き刺さるように痛いだけ。


 日課の散歩を済ました俺はまた、エアコンの効いた部屋に戻る。何をするでもなく、ただスマホを見て時間を潰す、堕落した時間を過ごす。何時間経っただろう。赤く染まった空が窓から見えた。こうして一日が終わっていく。何もしないで一日が終わっていく。

 聞き慣れたサイレンがなっている。救急車だろうか。丁度俺の家の前を通る。そして窓から赤い光が飛び込んできた瞬間だった。

 部屋全体が真っ赤に染まった。さっきまで遠くにいたサイレンもずっと近くでこだましている。あまりの出来事に呆気に取られていると、鼻にツンとする焦げつくにおいがした。すると、今までにないような焦燥感に駆られる。今すぐにでもここから逃げ出したいほどに。なのに氷の中に閉じ込められているように体が動かない。そしてエアコンをかけているこの部屋で感じることがないはずの熱さ。頬に火花がかすめていく。燃えている。何もかもが。赤い世界に包まれている。至る所に血痕が残っている。かつて生きていた人間の一部がすぐそばに転がっている。恐怖が、罪悪感が、憎悪が。悲しみが、全て俺の中から吹き出してくるのを感じる。それと同時に俺は吐き気を催した。その上、背景がずっとぐるぐるしているように感じる。車酔いのようだ。突然の吐き気のせいでその場に倒れ込んでしまった。地面からも炎のような熱を感じる。その熱が、俺の中をひたすらぐちゃぐちゃにかき回しているように感じた。負の感情がずっと俺の中を渦巻いている。

 「痛い...? なんで」

 無理に立ち上がろうとするとところどころ鋭い痛みを感じた。動くのですら億劫になる程だ。恐る恐る俺の体を見るとどこもかしこも切り傷、打撲、擦り傷だらけで、場所によっては抉られたような傷跡も見受けられた。経験したことがないような怪我を、いつの間にか、気が付かぬうちにしていたのだ。相変わらずサイレンの音がこだましている。何が起きているのか全くわからない。弱った体に鞭を打って無理矢理立ち上がる。砂つぶにしか見えないほど遠くに、俺に似た誰かとところどころが欠損し、重傷を負っている人たちが固まっている。そばには救急車もいる。

 「あれ、あの人、俺の方を見てる?」

 一人だけ俺の方を向いている。そいつは重症の人たちを庇うように立ち上がった。どこからともなく生成した大剣を手に持ち、俺のいる方向にゆっくり歩いてきていた。ここで本能的に確信した。俺はあいつから逃げなければここで死ぬと。一気に今までのぐちゃぐちゃな感情がかき消され、ただ生物としての本能。生存本能からくる恐怖しか感情はなかった。

 「あ、え、何で」

走ろうとしているのに。必死に脳が体に信号を送っているはずなのに。動くどころか一切微動だにしない。獲物をとらえた肉食獣のように、ゆっくりと距離を詰める俺に似た何か。相変わらず俺の足は、逃げようとする俺の思惑には答えてくれやしなかった。ついに俺とそいつの距離は目と鼻の先までに迫ってしまった。

 「やはり...まだ飲み込まれるか。去れ。ここはお前の精神を壊す」

 そして俺に似た何かは勢いよく動けない俺に向かって大剣を振り下ろした。俺は最期の抵抗と言わんばかりに小さく悲鳴をあげた。意識が途切れる直前、俺の肉を引き裂き、叩き潰す音が聞こえた。

 目が覚めた。汗がだくだくと流れている。呼吸も乱れている。さっきの熱とは対照的に寒さを感じた。あたりはすっかり暗くなっている。寝息が聞こえてきそうな暗さだ。時計を見ると、午前一時。今のは、悪夢なのか。夢にしてはリアリティがあった。

 「ゔっ……。なんで急に頭痛が……」

 突き刺すような頭の痛みが俺を襲う。ひどく疲れを感じているというのに頭痛に邪魔されて寝れやしない。仕方なく、リフレッシュも含めて散歩に出かけた。いつもの散歩道とは見違えるぐらいに暗く、不気味なくらい静かだった。煌めいていた夏の葉も、黒ずんでいるように見えてしまう。さっきの炎はなんだったのだろうか。


 「よ! 兄ちゃん、疲れてるようだなぁ〜。俺と少し話していかないかい?」

 夜の静寂を突き破る突然の声で少し声を上げてしまった。考え事をしていて、外に意識が行っていなかったから余計に驚いた。紫髪の長い髪をポニーテールでまとめている赤眼の男。引きこもり生活を送っている俺からしたら、チャラさと胡散臭さを感じた。俗に言う陽キャの雰囲気だ。深夜に男二人だけ。車通り一つもない。なんとも異様な光景だ。俺を含めて深夜で徘徊している奴には碌な奴がいない。丁重に断りを入れようとした寸前に、陽キャ男が口を挟んだ。

 「おっと、自己紹介がまだだったな。俺はカルマ・シムーン。プロテクト第二部隊隊長だ。今日はお前の話を聞きにきたってわけだ。今日は家の場所だけ把握して帰ろうと思ってたんだがな〜。たまたまお前を見かけてな」

 プロテクト、と言う単語を聞いた途端に頭痛がひどくなる。それはもう頭を抱えてしまうほど。プロテクト、それは警察では対応が難しい案件を受け持つ治安維持組織。しかも隊員を統括する立場にある隊長が俺に何の用なんだ。頭痛のせいで全く考えがまとまらない。カルマと言う男は俺の様子を見て、24時間営業のファミレスに半ば無理やり連れて行った。

 深夜のファミレスは日中では考えられないほどガラガラで、子供達の声、親の声、はたまた外食に来た人たちの声が全く聞こえない。外から見れば数少ない光がある場所なのに、夜に溶け込んでいるかのように静かだった。俺たちのように普通じゃない話をするのにぴったりな場所だ。店員さんの案内のまま懐かしい手触りの赤いシートに腰掛け、水を一口飲み込む。

 「店員さん、ソフトドリンク二つとオムライスひとつ。兄ちゃんはどうすんだ?」

 「今は大丈夫です」

 それにしたって頭痛が一向に治らない。あのリアリティのある夢と頭痛、そして突然現れたカルマという男。立て続けに何かが起こりすぎている。少しずつ、少しずつ、俺を取り巻く環境が変化している。この変化を俺は受け止めることができずにいた。

 「また後で頼みます」

 全てカルマの奢りにさせてしまった。何度も自分で払いますと言ったのに、俺が誘ったんだから俺が払うさと言われ、押しに負けてしまった。

 しばらくまってみても頭痛が治るどころか酷くなっていく。あまりの痛みのせいで視界がぼやけ、音が聞こえにくい。これじゃあまともに話を聞くなんて無理だ。

 俺の様子を見て、こっちに来てくれないかと声をかけるカルマ。いう通りにするとカルマは俺の頭に触れた。カルマの手から柳色のオーラが漏れ出している。その量はあたりが柳色に明るくなるぐらいの光量で、視界に入っていなくてもすぐにわかった。驚きのあまり喋りかけるとカルマは動かないでくれよ〜と言いながら柳色のオーラを俺の中に込めた。わけのわからない儀式が終わったのか、カルマは顔を緩めた。


 「少しは楽になったか?」

 カルマのよくわからない力で少しずつ刺すような痛みが引いていった。今では頭痛をほとんど感じない。さっきの技? のせいで深夜でありながら人の目を引いている。俺の顔を見て察してしまったのかカルマは「ちょっとした治癒術だ。案外簡単だし、よかったら今度教える。」と笑顔で言った。

 「そういえば、だ。兄ちゃんにはいつものカウンセラーさんがいただろ?」

 「え、ええ」

 敬語は外していいぞ〜と挟みつつ、話を続けた。

 「あいつは急用でどうしても来れなくなっちまって、急遽俺が来たってわけ。大丈夫だ、何も心配はいらない。俺はそれなりに知識もあるんだぞ〜。こう見えてな!」

 カルマは俺がどう見てると思っているんだ。一見チャラいとか、胡散臭いと思ったことは否定しないが。ともかく、俺の欠けた記憶についての話だろうか。だけど俺に欠けた記憶なんてない。それにカウンセリングを受けるような経験はしていないはず。それをカウンセラーに言ってもはぐらかされるだけ。俺の身に一体何が起きているのか。

 「聞いたぞ〜。お前さん、今日の真昼間に物凄い叫び声をあげていたってな」

 なんのことだと一瞬考え込んでしまったが、思い出した。あの夢の中で最後の抵抗と言わんばかりに甲高い悲鳴をあげたんだった。でもあれは夢の中の話だろ? 時々現実と夢が連動してる時があるが。まさか連動しちゃってたのか。最悪だ。俺不審者じゃないか。落ちこぼれで引きこもりな上に奇声あげるって。不審者の典型じゃないか。社会的に死んだも同然だ。終わった。

 「まあ、そのことについての話なんだが……」

 思わず固唾を飲んだ。まさか、奇声を上げただけで不審で怪しすぎるから逮捕するねみたいな話じゃないだろうな。

 「ひとつ、責任感が強すぎた武闘王の物語を披露しよう」

 「...その方と俺に何の関係があるんですか」

 思わず口に出してしまった。それはそうだ。武闘王は今まで会ったこともない上に俺とは無関係。何で俺にその話をしようとしているのか全くわからなかったのだ。

 「まあまあ遠慮せずに聞けって。あぁ、なんでお前にこの話を持ってきたかの理由が知りたいのか? それはお前さんとその武闘王が似たもの同士だったからさ」

 やっぱり俺には理解できないと思った。俺は元々プロテクトの試験を受けて不合格になった。それで、堕落した生活を送っていたいわば人間のクズだ。俺の行動は責任感が強いとは程遠い。そのはずなのに、その武闘王という言葉を聞いた瞬間、少しだけ懐かしさを覚えた。

 「ある時、プロテクト入隊試験を主席で合格した人がいた。後に、武闘王と呼ばれる人だ。名は...伏せておこう。その方がロマンがあるだろ? ま、それは置いといて。武闘王は入隊してからずっと成果を上げ続け、かなりの好成績を残していた。あっという間に副隊長にまで出世したんだ。副隊長まで出世した武闘王は、武芸だけなら隊長すら凌駕すると語られるほどだ。俺もあいつの武芸を正面から受けるのはきついな。そんな順調そうに見えた武闘王にも悲劇が起こった。武闘王の部隊が襲撃を受け、部隊を解散せざる負えない大打撃を受けた事件だった。しかし、部隊の中に犠牲者はおらず、建物が数件潰れるぐらいの被害に留まった。ただ、武闘王は自分の甘さが襲撃を招いたとして、副隊長を辞職した。中には一生物の障がいを負った隊員もいたからな。自分の甘さがそれを招いたと考えたら耐えられなかったのだろうな。武闘王は病んでしまい、今もカウンセリングを受けているって話だ」

 抱えているものの大きさに、責任に耐えられなくなってしまったのか。それにしても、どこか懐かしさを覚えてしまう。聞いたことも見たこともないはずなのに。この感覚は一体なんなんだろうか。

 武闘王の物語を語り終えた後、カルマは話を続けた。

 「俺の見解では、”お前”は知らなくとも、”あいつ”はちゃんと知っているからな。いつか相対するだろう」

 あいつ...。ただ意味のわからないことを言っているわけではなさそうだ。少なくとも心当たりがある。でも、何でカルマは知っているんだろうか。俺の個人情報に近い部分だ。カルマには俺のほとんどが筒抜けになっているのだろうか。背筋が少し冷えてしまった。カルマはおっと、喋りすぎちまったと別の話題へ無理やり変えた。

 「まあ、あんたにも言えることだが、あんまり気負いすぎるなよ。それで病んじまったら意味ないからな」

 カルマは運ばれてきたオムライスを頬張りながら続けた。

 「あいつは自分の抱えていたものの大きさに耐えきれず副隊長を辞めてしまった。少しはその重圧を、周りに分けてやっても良かったと思うがな〜。お前も武闘王を反面教師にして頑張るんだぞ〜!」

 俺がその武闘王を反面教師にする場面なんてあるのだろうか...。そうこうしているうちに俺もお腹が空いて、ちょうど目に入ったチーズ入りのハンバーグを注文した。深夜なのに高カロリーのものを食べる大罪! 背徳感満載で最高...。あとの時間は親睦を深める時間になった。ほとんどの人が寝静まっていた時間であったが、この時間だけは賑やかな時間となった。刹那のように感じられるほど楽しい時間だった。

 喋りあって、実際には何時間経ったのだろうか。ハンバーグを頼んだ時はまだ暗かったのに、もうあたりは明るくなり始めている。カルマが、俺今日仕事あるんだった! と言い出したのを皮切りに突然のファミレスでの会合は終わりとなった。会計をして、俺たちは急いでファミレスを出た。外に出ているともう太陽が顔を出している。カルマに奢りのお礼を言い、解散しようとした瞬間だった。

 「ああそうだ、これは俺のお節介なんだがな」

 と、話し始める。朝のちょうど涼しい風が心地よい。爽やかな緑が辺りを包んでいた。また宝石のように煌めき出している。

 「自分が抱えてきたものの大きさに尻込みすることはあると思う。俺もしょっちゅうそうだ。だが、その重圧が自分を助けてくれることもあるんだぜ」

 やっぱりカルマの言葉は意味深で、今の俺だとよくわからない。でも、一つだけ確信していることがる。あの言葉は、これから来る大切な節目で助けになる言葉だ。そんな予感がする。俺の名前、カタルシス...。ようやく分かった。俺は多分ここで俺の人生に一区切りつけないといけないのかもな。

 「なんか分かったみたいだな。よかったよかった。じゃあ、また会おう、エイリーン・カタルシス」

 太陽に向かってさっていく彼を、俺は見えなくなるまで見送った。至る所が光に包まれている。今までの堕落した生活を夜と例えるなら、今は夜明け。家に向かって歩を進める。

 「そろそろ太陽に顔を出してもらわないとな」

 いつもの散歩道。未練のように過去を思い出すことは無くなった。いつもとは違う面持ちで家に向かう。数時間ぶりの家。家に着いた瞬間、一気に瞼が重くなっていく。深夜から夜明けまで他人と一緒にいたらそりゃ疲れるか。着替えるのも、風呂に入るのも後にしてベットに倒れ込んでしまった。

 


 「来たか、逃げ腰野郎」

 俺に似た声と共に刃物のような寒さで目が覚める。あたりには氷と雪。木々は葉っぱ一つもなく、動物の一匹もいない。要するに、雪山だ。どおりで寒いわけだ。しかし俺は冷房が効いた部屋で、ふかふかのベッドの上で横になったはず。なのに、なぜ雪山のど真ん中で眠っていたんだ。

 「ここはお前の記憶の中。そして、俺はお前の記憶。お前が逃げた記憶だ」

 逃げた?たとえプロテクト試験に落ちた日から俺の人生全てから逃げていたとして、逃げ腰野郎と罵られる筋合いはないはず。それに、俺の記憶の中がこんなに凍りついているのが気になる。

 「お前はカルマの話を通して、夢を通して見当がついているはずだ。まだとぼけるか?」

 腕組みをして、俺の反応を伺う自称俺の記憶。何もわかっていない俺をみて呆れているように見えた。時間に直して数分、困惑している俺をみかねた俺の記憶は、宣言した。

 「お前が記憶を改竄した。プロテクト試験に落ち、今堕落した生活を送っていると」

 記憶の改竄...。ますます現実味がなくなってきた。俺が殺された夢と、今見ている夢。まるで意図的に起こされているような現象が起こり過ぎている。俺自身が変化し始めていると再認識する。濃密な今日を振り返る最中、まさかと考えがよぎる。あのプロテクト内の伝説と俺。本当なのか?懐かしさを覚えた武闘王という響き。そして、懐かしい思い出話と感じた武闘王の物語。

 「俺は...武闘王なのか?」

 記憶は目を見開いた。意外だと言わんばかりだった。そして、ずっと待っていたと言わんばかりの表情をしていた。安堵しているようにも見えた。ふ、と笑って。

 「そうだ。やっと自覚したか」

 目の前の記憶は目を閉じた。そして、ゆっくりだが氷雪に包まれていく。その記憶に呼ばれるかのようにどこからともなく強烈な吹雪がやってきた。肌を裂くような寒さが俺を襲っている。目の前の記憶は氷雪に包まれているはずなのになぜか平気そうだ。寒い。このままでは凍えてしまう。本能で命の危機を感じた。あまりの寒さで、手の先の感覚がなくなっていた。

 「エイリーン、勝負しろ。お前が俺を燃やし尽くして灰にするか、俺がお前を凍らせて廃人にするか」

 氷雪の寒さで勝負どころではないことぐらいわかるはずだ。燃やし尽くすなんて、わからない。やったことがないのに、できるわけがない。俺は、負けたら廃人になってしまうのか?そしたらどうなる。もう人生のやり直しが効かなくなってしまう。それはまずい。それだけは防がないといけない。

 寒い。凍りついてしまいそうなほどに寒い。いや、実際に凍りついている。もう手足は動かない。吹雪とともに、武闘王の感情が俺にだくだくと流れ込んでくる。あの夢と同じだ。恐怖、罪悪感、憎悪、悲しみ。全て俺の中から吹き出している。底なしの負の感情。まるで俺が経験しているかのように。仲間が目の前で倒れていく恐怖、仲間を無事に家族の元へ帰してやれなかった罪悪感、のらりくらりと生きている悪への憎悪、そして俺に対する無力さを認識した時の悲しみ。全て、俺の経験してきたものたちだというのか。こんな感情を抱えて生きてきたのかよ、俺は。俺の手から全て取りこぼしてしまいそうなほどに重い感情達。ごめんなさい。俺じゃ無理だ、こんなの。こんな重圧、耐えきれない。



 だんだんと眠くなってきた。抵抗はできない。包み込まれていくように堕ちていく。だんだんと意識が朧げになっていく。意識が水のように流れ落ちていく。何もわからなくなりそうな境目で、あの言葉を思い出した。

 『まあ、あんたにも言えることだが、あんまり気負いすぎるなよ。それで病んじまったら意味ないからな』


 カルマの言葉だ。何でどん底に落ちている今ここで...。でも、やっぱり駄目なんだよ。俺。武闘王が抱えてきたものが大き過ぎて、俺じゃ抱えきれないんだ。俺はずっとニートやってるクズなんだよ。



 「ありがとうございます!」

 これは、2年前の俺の記憶。

 俺に対し頭を下げている車椅子の男性。彼は、俺の部隊の隊員で、怪我の後遺症のせいでプロテクトを退職する。

 「あなたのおかげで妻と娘を泣かせずに済みました! もう仕事はできませんが、命があるだけでも儲け物です。ですから、暗い顔しないでください!自分を誇りに思ってください!」

 俺は、少しでも。誰かを守れていたのだろうか。逃げなかったからこそ、この隊員の家族の笑顔を守れていたのだろうか。

 


 「すみません、副隊長。僕がもう少し強ければ副隊長にばっか負担をかけさせることなんてなかったんですけどね...。

 でも、両親に暗い顔させなくてよかったですよ! 俺が先に死んだら母も父も、きっと悲しむし怒ります! 守ってくれて、ありがとうございました!」

 彼は車椅子の隊員の三日後に退職した隊員だ。片腕欠損、片足欠損。もうこの仕事はできないから退職した。俺は、あの時は抱えてきたものの大きさに負けずに挑み続けた。それで守れたものが、あったのだろうか。

 退職するどの隊員も、最後には笑って俺にお礼を言っていた。「あなたのおかげで誰かを悲しませることはありませんでした」と。



 「どうしたんだい、エイリーン」

 これは子供の頃の記憶。俺が始めてプロテクトを目指した時の記憶。当時最強と呼ばれていたロゼの活躍を見て俺もプロテクトを志した。

 「パパ、ぼくこんなふうになりたいな!」

 母は危険が伴う仕事だったため勧めはしなかったが応援してくれた。父も、俺の夢を応援してくれた。今俺は、両親にどんな顔をさせているのだろうか。父と母はあの事件以降気を使って距離をとってくれている。

 

 今の俺は、果たして以前の俺のように逃げないで立ち向かうことができるのだろうか。いや、やらないといけない。記憶を失った。そこはもう仕方がない。大切なのは、俺がこれからどうするか。まだ、やり直せるのならば。


 なら、この氷雪から目覚めないと駄目だろ。やり直せよ、今ここで。踏み外した分。責任を果たせ。いつまでも逃げてばっかりだなんて、許されるわけないだろうが!

 爆炎が巻き起こる。真っ白だった世界はパワフルなオレンジ色に包まれた。あたりの氷雪は蒸散して消え去る。そして、失っていた分の今までの記憶が漏れ出していく。吹雪も俺の熱風と化し、記憶を襲う。

 「信じていたぞ、俺。記憶の番人としての役割はもう、終わりってわけか」

 寂しそうな、物思いに耽るような声が一瞬聞こえた。パワフルな赤が真っ白な世界を隅々まで消し去っていく。俺は記憶の顔を見ることなく、消滅させた。


 記憶がゆっくりと、着実に解凍されていくのを感じる。自分の記憶が少しずつ、少しずつ流れ込んでくる。これでようやく、俺は逃げずに歩き出していける。俺は、ようやく重圧と向き合えるようになれたんだ。


  久しぶりに伸び切っていた髪を整えた。まだ数回しか着たことのないスーツに袖を通す。バスに揺られ、駅へ向かう。都会から少し離れた田舎を感じさせるボロボロなビル。ここが、プロテクト日本支部だ。

 「信じてたぜ? エイリーン・カタルシス。ま、仕事が仕事だからな。末永く頼むぞ」

 颯爽と出迎えてくれたのは、カルマ隊長。見慣れないスーツ姿でのご登場だ。今日から俺の上司になる。

 「えぇ、よろしくお願いいたしますね。カルマ隊長」

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