第五話

 死にたいなぁ、と。


 はっきりとそう思い始めたのは、中学二年の頃だった。それまでは漠然と渦巻いていて判然としなかった気持ちが、感情としてはっきりと形を持った。精神が一歩大人に近づいたのか。

 それにしても、自身の成長を知る過程としては最悪すぎる。


「あ、自殺とか勝手なことしたら、お母様も道連れね?」


 同じ中学二年の時、実際に言葉にした訳ではないのに、ふと思い出したかのように釘を刺され、僕は自殺という選択肢を奪われた。


 どうやら家族というのは自覚せずとも大切なものらしい。

 いや、借金を返して残った金を母親の口座に振り込んでいる事実から、大切に思っているというのは確実だ。父親が目の前で死んだのを見たからだろうか。

 どんな生活をしているかは知らずとも、あのやつれた姿を思い出し、少しでも足しになればと。僕の取り分で借金を返すことは許されておらず、それなら僕に使い道なんてないのだからと。

 尤も、その大切な家族に僕自身は売られた訳なのだが。それでも母親に恨みを抱いていない辺り、自分でも不思議だ。もしかしたら、恨みという感情は全てあの女に向けられていて、母親に向ける分が残っていないだけなのかもしれない。


 いずれにせよ、僕が親孝行ものといえるのは確実である。ただ、別にそれを誇りに思っているわけではない。自己肯定感なんてものは、とっくの昔に奪われたものなのだから。


 そんな訳で、僕は「死にたい」という感情を常に抱きながらも、それが日常と化してしまったからこそ、慣れきっていた。

 最早、僕と希死念慮きしねんりょは親友だと言ってもいい。切っても切れない関係だ。自分で言っていて虚しくなってくるが、事実なのでどうしようもない。



 澄み渡る青空の下、そんなことを思いながら、僕は屋上のフェンスから眼下を眺めていた。


「何か気になるものでもあるの?」




 ──そう、それが物語の始まりで。


 僕に声をかけてきた誰か。不文律を気にせず話しかけてきた同級生とか先輩とか、これまでの糞みたいな日常を打破する切っ掛けとなる存在との出会い。


 そして、僕は振り向き──




 ──首を傾げる瑞穂が視界に入った。


 当たり前だ。

 心躍る復讐劇なんてものは始まらない。僕の生きる現実は、そんな希望に満ちた物語ではない。強いて言うなら、金持ちの同級生に買われた陰鬱な物語なのである。


 元より期待なんかしていない。期待、なんて馬鹿げたものを持つから絶望するのだ。僕はそれを最初の一年で知った。

 正直、そんな考えを持つ小学生なんて嫌すぎる。もう少し人生に、未来に、希望を抱いて欲しい。


 僕は、もう高校生。

 いや、まだ高校生。

 まだ抱けるはずだ。

 希望を──


「ねぇ、今月まだ利息の半分しか貰ってないんだけど」


 無理だった。

 残酷な現実を突き付けられただけだった。


「はぁ……」


 期待はしていなくとも、溜め息は出た。


「もう。溜め息つくと幸せが逃げちゃうわよ?」


 瑞穂は唇を尖らせる。


「逃げる幸せなんて持ってないよ」

「お金があれば、幸せだって何だって買えるわ」


 ふふん、と彼女は得意げな笑みを浮かべた。


「さすが。平和な日本で平然と人身売買するヤツが言うと説得力あるね」

「知ってる? 売買って、そもそも売り手がいないと成立しないのよ?」


 嫌味を言うと、正論が返ってきた。痛いほど知っている事実だ。


「需要と供給。という訳で、シュウに対する需要よ。それなりに身入りはいいわ。良かったわね?」


 良かったわね、彼女はよくその言葉を使う。一つの言葉を、色々な意味で使う。そして、それを言う時には決まって嬉々とした笑みを浮かべている。

 今回の良かったわね、は金払いが良い客だという事に対して。僕の価格は一定ではない。厳密な意味は違うかもしれないが、「時価」のような形だ。僕の売値は瑞穂が決める。


「…………いつ?」

「今日に決まってるじゃない」


 当日でなかったことなど数える程しかないが、一応聞いてみた。二日連続。世の中のサラリーマンや、それこそアルバイトをしている同級生にとって二日連続で働くなんて当たり前のことだ。

 しかも一回かつ長くとも数時間なのだから、それに不満を覚えるなんてきっと呆れられるだろう。

 けれど、嫌なものは嫌なのだ。何度したって慣れることはない。慣れたくなんてない。だからこそ瑞穂が悦ぶのだと分かっていても。


「……時間は」

「昨日と同じで二十時から。ちなみにロングね」


 先程の言い方からして常連ではなく新規。新規でロングなんて、余計に鬱蒼とした気持ちになってくる。


「はぁ……」

「逃げた幸せ捕まえた! はい、どうぞ」


 僕が再びの溜息を付くと、彼女は上空にある何かを捕まえるかのようにその場で小さく跳ね、柔らかい笑顔とともに何も乗っていない手の平を差し出した。


「お前の触れたものなんて要らない」


 淡々と、差し出された手を払い除ける。

 それでも瑞穂は、たのしそうに目を細めるだけ。


 死にたいなぁ、と。


 今日も今日とて、僕は親友と何度目か分からない握手を交わした。

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スノードロップの花束 ゆゆみみ @yuyumimi

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