エピローグ
第7話 そして彼らは今も愛を
ごつごつとした枕の感触に、枕としての役目を果たしていない……と残念に思ったところで目がさめた。
「おかえり」
「ただいま……?」
とても久しぶりに聞く声。
誰だっけとぼんやり見上げていたら、口周りの髭が目に入って、徐々に記憶が復元される。
「商人! ジャンピエトロ・パガーニ! なに? なにやってんの!?」
「おいっ、痛っ」
慌てて起き上がったところで、顎に額を打ち付ける。顎を打たれた髭面の男が呻き、アマリアも「いたたたた……」と呻きながら額をさすった。
「ヒゲ痛い~、おでこがすりおろされるかと思った。全部刈り込んじゃってよ。ださいし」
「お前がいきなり起き上がるからだろうが。一晩膝枕していた俺に頭突きで返して、あまつさえ髭を邪険にするとは良い根性しているぜ、アマリア」
「一晩? なんでそんなことになってるかな。何もしてないよね? 一応私女なんだけど」
ぶつぶつと言いながら、アマリアは髭面の商人、ジャンの胸を手で押しのけて立ち上がる。
見慣れた工房の中。隅のベンチに横になっていたらしい。体がバキバキに痛い。
窓ガラスからは朝の光が差し込んでいる。腕を突き上げるようにして全身伸びをした後に、アマリアはハッと息を呑んだ。
「アマリア? いま、アマリアって言った?」
ベンチに腰掛けていた、大柄で年齢不詳のジャンが口元だけで笑い、「それが?」と言う。どことなく癪に障るその顔を見ながら、アマリアは自分の頬をつねった。
「すごく長い眠りに落ちていた感じがする。遠いところから戻ってきたような。何をしていたんだっけ。たしかピアンジェレッリのヴァイオリンの修復をしていて……? そうだよ、あなたが持ち込んだ楽器だ」
無人の工房で、顔見知りとはいえ得体の知れないところのある男と朝から二人きり、という状況に辟易してアマリアは眉をひそめる。すかさずジャンが自分の眉間を指でつついて「シワになるぞ」と余計なことを言ってきた。
「昨日の記憶が全然無い。どこまでやったんだっけ」
せわしなく、自分の作業台へと歩き出したアマリアの背後で、ジャンが立ち上がる。
「昨日はこの工房に強盗が押し入って」
「はいっ!?」
何を言い出したのかと、アマリアが振り返ると、ジャンは髭面でにやりと笑った。
「そりゃそうだろ。ピアンジェレッリのヴァイオリンがあるなんて噂にでもなれば、強盗が殺到する。強盗同士が鉢合わせしたっておかしくないくらい」
「何言ってんの? え、ヴァイオリンは!?」
「ヴァイオリンもそうだけど、お前はもう少し自分の心配を」
何やらぼそぼそと言っているが、アマリアはそれどころではない。自分の作業台に向かい、そこにヴァイオリンが鎮座しているのを確認して、ほっと胸をなでおろす。
(経年劣化のケアのためのオーバーホール。最後の仕上げで止まらなくなって、夜中までかかっちゃったけど……終わってる)
持ち込まれたヴァイオリンは、長く使い込まれていくつかの不具合が出ている状態だった。その修理箇所の確認と修復のために、解体することにしたのだ。
もちろん、簡単な作業ではない。解体の過程で修理どころか二度と元に戻らない損傷を負わせることもある。そのため、気軽にできる作業ではなく、確実に必要だと判断した上で踏み切ったのだ。そして、前夜ようやくすべての工程を終了した。
アマリアはヴァイオリンの状態をざっと見て取ってから振り返り、すぐ後ろまで迫っていたジャンを見上げて尋ねた。
「それで、強盗はどうなったの?」
「俺が撃退した」
「ああ。荒事向いてそうだもんね。ありがとう、お疲れ様」
「なんだ? 褒められて、礼を言われて、労われたのに微妙に嬉しくないこの気持ち」
表情をもやっとさせたジャンに対して、アマリアはついでのように重ねて聞いた。
「私は? なんでその、あなたの膝枕で」
「ん。お前は作業中に寝落ちして床にぶっ倒れていたんだ。強盗が騒いでも、警邏が来てもまったく起きないで」
「へ~……。てっきり強盗に殴られたのかと思った」
言いながら、アマリアは後頭部をさする。そこに激しい痛みを受けた記憶があるのだが、こぶにもなっていないので、寝ぼけていただけなのだろう。
寝ぼけた挙げ句に、長い夢を見たのだ。
夢の中でアマリアは、ミシェルという少女だった。そして、天性のヴァイオリン弾きの少年に出会った……。
耳の奥に、彼の奏でる七色の音色が蘇る。
彼はいつも、暗がりで背を向けてうずくまって密かに耳を傾けるミシェルに向けて、愛を捧げるように弾き続けていた。
(ミシェルも、彼のことが好きだったと思う……。二人は……)
視界がぼやけてきた。涙だ。目覚める前のアマリアは夕暮れの光の中で、作業に没頭していた。それは、ヴァイオリンにベタ塗りされたニスを剥がして、埋め込まれたごく小さな紙片を取り出す気が遠くなるような作業……。
「なんだお前、泣いているのか? 今更強盗にびびっても遅いぞ。もうあいつらは全部俺がシメて警邏に引き渡しているから」
からかうように声をかけてきたジャンの胸にどん、と拳を叩き込み、アマリアは唸り声を上げた。
「全然違う。このヴァイオリンの来歴を思っていたら、泣けてきたんだ。非業の死を遂げたシャルダン公爵と、結ばれなかったヴァイオリン弾きの少年の、悲恋」
「悲恋?」
不思議そうに聞き返される。アマリアは手で乱暴に涙を拭って、ジャンを見上げた。
「悲恋の逸話は……、そうか、公になってないか」
「いやぁ、熱愛の逸話ならあるけどね。亡命して実は女性であることを公表したミシェル・シャルダンと、その恋人のヴァイオリニスト、ラルス・セーデルシュトレーム」
「亡命? ラルス?」
聞き慣れない名前に、アマリアは思わず渋い表情になる。
(あの少年の名前は、もっと違う名前だったはず。何度も呼んだ……)
思い出そうとするのに、記憶が急激に薄れていく。アマリアは焦って口をぱくぱくと動かした。ジャンが「ん? 聞こえねえぞ?」と言いながら耳に手をあてて体を傾けてくる。その耳に向かって、アマリアは消えゆく記憶の最後の一欠片を手繰り寄せて叫んだ。
「フレデリク!」
* * *
フレデリク・デュヴァリエ。
ときの女王陛下から「花の貴公子」の名を賜った少年は、十代半ばにしてその類まれなる音楽の才を買われて、遠方の国へと留学。その後、祖国での政変の前後の時期に行方をくらます。
後に名をラルス・セーデルシュトレームと改め、各地で音楽活動をしていたことが知れる。その傍らには美しい妻の姿があった。黒髪にヘーゼルの瞳のかのひとは、政変で処刑されたはずのミシェル・シャルダン公爵によく似ていた……。
ジャンは、ピアンジェレッリのヴァイオリンの来歴についてそのようにアマリアに説明をした。二回目だぞ、と言いながら。
「セーデルシュトレームの名前は知っているけど……、前に聞いたときその話はもう少し違っていたような」
「何がだよ、お前自分で言っただろ、フレデリクって。そうだよ、そのヴァイオリンの持ち主のもともとの名前がそれだ。いまはラルス・セーデルシュトレーム。愛器を修理に出しているって全部のコンサートを断って、世界周遊の旅に出てるさ、奥方と。今日にでも戻ってくるはずだけどな」
面倒くさそうな態度ながらも、付き合いよく話してくれるジャン。流れで、二人は一緒に近場のレストランで朝食をとっている。なぜかジャンは「こう、なんだ。お前は良いのか。朝っぱらから俺と二人で朝食なんて」と動揺していたが、アマリアにはそのためらいがよくわからない。「朝以外にいつ朝食をとるんだ。私はお腹が空いている」と言って、テーブルまで引きずってきたのだった。
そして、食後のお茶とともに話を聞き終えたが、どうにも腑に落ちないままの顔つきでいる。
「ミシェル・シャルダンは処刑されずに亡命したってこと?」
「あらかじめ、ラルス……いや、フレデリク・デュヴァリエが手を回していたんだ。本人は侯爵家の次男坊だったけど、王族にツテがあったとかなんとか。『公爵を辱めることなかれ』って処刑を非公開にして、その場から連れ出したんだ。それで、ほとぼりが冷めるまで二人で名前を変えて各地を転々。ラルスの演奏で稼ぎながら」
「公爵だったひとが、思い切ったことをする。よく追手がかからなかったね」
「それなんだけど、公爵の女装がさまになっていて。というか、本当の女性だったんだよ。処刑を逃れたんじゃって噂は根強くあったんだけど、見つからないはずだ。公爵時代と雰囲気がらっと変えて、メチャクチャ可愛くしていて。今でもとにかく可愛いぞ、元公爵閣下。旦那の溺愛が止まらないのもわかる。実業家として相当なやり手で、慈善事業にも熱心で有名だ。性格はまさに高潔にして豪傑。『ノブレス・オブリージュは、貴族以外は手を出そうとしてはならない。扱いかねて沈む』なんて言ってな」
「会ったことあるの?」
まるで自分の目で見てきたかのように語るジャンに、アマリアは思わず食いつく。すると、ジャンは片目を瞑って笑った。
「そりゃ、その楽器を俺が直接受け取ってきたからな。なんでもラルス・セーデルシュトレームが俺を探していたとかで。会うなり聞いてきたよ。『良い楽器工房を知っているらしいが、指名で頼めるか? 職人の名はアマリアだ』って」
「ふ〜ん……」
工房は数あれど、修復技術で名を挙げているところはまだ多くない。偉大な演奏家に名前を知られていたのはこそばゆいが、評判が届いてもさほど不思議ではないのだった。アマリアはカップのお茶を飲み干して、吐息した。
「べつにジャンを経由しなくても良かったのに」
「おい、そう言うな。俺はな、楽器の中継ぎの他にも重要な任務があったんだ。ピアンジェレッリのヴァイオリンは確実に強盗に狙われるだろうから、きちんと作業完了するまで職人から目を離さず、護衛をするようにって。商人としての信頼だけじゃなくて、この腕っぷしも買われてな。現に昨晩」
「はいはい」
アマリアは絶妙に聞き流しながら、通りすがりの給仕の女性に声をかけ、会計を願い出る。すかさず手を振り、財布を出そうとしたジャンをあしらった。
「おごり? なんでまた」
「べつに。依頼人からの契約に含まれていたとはいえ、あなたが私の命を守ったのは確かみたいだし。お礼くらいはしておくよ。ありがとね、ジャン」
小銭を多めに数えて女性に渡して、アマリアは椅子から立ち上がる。ジャンは、「それじゃあ、ありがたく」と言ってから付け足した。
「今日の午後にでもご夫妻が工房にお見えになるはずだ。俺も同席するから」
「了解」
話すべきことを終えて、アマリアは店を後にする。その立ち去る背中を見送りながら、ジャンはひとり小さな声で呟いた。
「
* * *
修復を終えた楽器を、アマリアは依頼人夫妻に直接手渡した。
若い頃はさぞや美しい少年だったのだろう、かつての「花の貴公子」は今もとんでもなく魅力的な美中年で、直視したら目が潰れそうなまばゆさであった。
その隣にいた黒髪の女性は、まさに年齢不詳。
少女のように瑞々しい可憐さで微笑んでいた。
(このお二人が、処刑されかけた元公爵と、彼女を助け出した勇気ある音楽家の青年とは)
ひとに歴史ありだな、と思ってしみじみとしたアマリアの手を取り、奥方は笑みを深めて言った。
「楽器を修復してくれてありがとう。あなたのおかげで私は、彼を信じることができたの」
間近で見ると、透き通るように美しいヘーゼルの瞳。アマリアはドキドキとして、「どういたしまして」としどろもどろになりながら答えつつ、気になって尋ねた。
「彼を信じる?」
いまが初対面で、アマリアが彼らに対して知ることはごく少ない。何かしただろうか? と。
奥方は笑ったまま言った。
「ずっと彼を信じるかどうか迷っていた。だけどあなたが見つけてくれたのよ、彼のメッセージを。『黙って処刑されろ。必ず助けて君を妻にするから』って書かれたメモを」
「ええー……?」
思わず声を上げたアマリアに対し、そばで聞いていた夫が苦笑しながら答えた。
一回死んでもらわないと、この状態にできないってわかっていたから、と。
「一回死ぬ……。ああ、処刑されたふりをしてもらわないと、連れ出せないって意味、ですね」
自分なりに納得したふりをして、アマリアはそう答えた。内心、(メモってなんだろう?)と思いながら、笑顔の二人につられて笑ってみた。
死に戻りのアマリア 有沢真尋 @mahiroA
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます