第6話 修復の末に

 七〇六年、十八歳。


 顔見知りのメイドに朝の支度を介助されて、朝食をとる間、アマリアは注意深く辺りを確認した。そして、やはりミシェルはすでにシャルダン公爵となっていることまでは突き止めた。わからなかったのは、フレデリクの行き先である。


(色々努力はしたけど、まさか「フレデリクどうしたっけ? 死んだっけ?」とは聞けないよね……。父上は、って聞いただけで変な顔されたし、これ以上失言するのはよくない)


 執務室の机に向かってから家令を呼び出して確認したところ、今日のミシェルは珍しく予定がないとのことだった。どうも、このところ働き詰めで、久しぶりの休日ということらしい。それならそれで自分で使えば良いのに、とは思ったものの、ミシェルにとってはすべてをアマリアに押し付けたいくらいの蓄積疲労があるのかもしれない。

 三年飛んだのは難しすぎる、と思いながらアマリアが机の上の書類に手を伸ばすと、何か言いたげに留まっていた家令から苦言を呈された。


「差し出がましいことを申し上げますが、閣下。あまり年長者に噛み付いて、敵を増やしたりしないよう……」

「ああ~、やっぱり噛み付いている? 敵増えてる? やっぱり、やってるか……」


 思わず本音が口をついてしまい、家令は訝しげに片眼鏡の奥の目を瞬かせる。

 その反応にひやりとしたものを感じて、アマリアは無理に笑みを浮かべた。


「なんでもない、なんでもない。こっちの話。だいたいわかったから、下がってくれていいよ。少しひとりになりたい」


 誤魔化して家令に退室を促した後、何度目かの「しまった」を呟く。


(人払いを続けていると、フレデリクの消息を聞く相手がいない……。いや、私は楽器職人だ。修復作業に入るときはいつだって、楽器の声を聞くようにしている。ここはもう、彼の愛器に聞いてみよう)


 もちろん、楽器の声を聞くというのは比喩であり、アマリアにできるのはつぶさにその状態を確認して、修理や修復の方向性を決めることだ。その過程で楽器制作者の使用していた道具やクセ、素材選びの傾向を調べたり、保存状態や使用具合を知るために持ち主のことを聞いたりする。

 最初は役に立たないように思われた情報も、思いがけないところで生きてきたりするので、この作業で手は抜けない。


 こうなったら善は急げと、執務室を抜け出して私室へと向かう。

 朝は手にとってきちんと見ることができなかった。その意味では、アマリアの思い込みで、あれは元から壺にはまっていた全然無関係なヴァイオリンという線も考えられなくはない。まずもって、その考えに無理があるとしても、希望を捨ててはいけない。

 意気込みだけは十二分に、アマリアは壺の中からヴァイオリンを引き上げる。

 そして、叫んだ。


「フレデリク、お前か……! まさかの、没落して流出してからじゃなくて、この段階でもうニスのベタ塗り……!」


 周りにひとがいなくて良かった。乱心したと思われるところだっただろう。

 もっとも、ミシェルとアマリアで入れ替わった時点で、乱心に近い状況は発生しているのだが。


 アマリアの手にしたヴァイオリンは、すでに工房に持ち込まれたのと同等の状態になっていた。裏返してみて、さらに呻く。ニスによって、紙片が塗り込められている。

 さーっと、頭の中で全部がつながった。


(下手に内部にメモを入れた場合、気づかれてすぐに取り出される。魂柱に括り付けたりしても、これだけの名器だ、音に異変が起きれば何事かと探られるだろう。一方で、ニスのベタ塗りは外観に影響はあるけど、音への影響は軽微。そしてこの時代の技術では、まだうまく落とせない。あのときは、うちの工房の師匠と私で新規に合成した薬品を使っていたんだ、あそこが最先端だと言ってもいい。ピアンジェレッリの銘のあるヴァイオリンの価値がわかる者なら、たとえ紙片に気付いても、ニスを剥がす作業中に破壊してしまうことを恐れて、おいそれと手を出せない。フレデリクが、こうまでして紙片を楽器に仕込んだ意図は明白だ。これは未来において修復に携わる私へのメッセージだったんだ……)


 この楽器の仕事中に命を落とす未来のアマリアへの、警告。

 しかし残念ながらその思いは届かずじまい。何しろアマリアはメモには気付いていたが、中身を見てはいないのだ。


「気持ちはありがたいけど、間に合わないんだ、これじゃ……。そして私は目の前にこの状態の楽器があるのを見過ごせない……。ごめん、フレデリク。ニスは落とす」


 決断は早かった。意図は明白だが意味をなさない未来を知っている以上、アマリアは楽器をこのままにはしておけない。

 すぐに頭の中で必要な道具を並べて、廊下へと走り出る。目についた使用人に片っ端から調達をお願いし、自分はいま屋敷にあるもので代用できそうなものを探し始める。

 いつまでミシェルでいられるのか、残された時間がどれだけあるのかはわからない。しかし、アマリアは諦めるつもりはなかった。



 * * *



 道具を揃えたところで、アマリアは眠りに落ちた。薬品を合成したところで、入れ替わりが起きた。作業を始めようとしたところで、記憶が途絶えた。

 遅々として進まぬ現実。夢の中では、ミシェルの声が響いていた。


 ――たとえその者の父にどれほどの才能と徳があろうとも、息子がそのすべてを受け継ぐなどとは、いったいどこの誰が保証できようか。むしろ、己の努力によらず生まれたときから与えられた世襲の特権は、彼を決して浮上できない愚か者に仕立てるのに一役も二役も買うだろう。諸君、己の周りをよく見回してみるが良い。


 ――閣下。それはいささか口が過ぎるのではないか。陛下の御前であることをお忘れでは?


 ――ほう。それはつまり私が、貴君ら腐敗した宮廷貴族たちではなく、王室に向かって放言しているという意味か?


 やめて、ミシェル。届かないと知りながら、アマリアは叫ぶ。


(あなたの理想は、真っ直ぐ過ぎる。放蕩を繰り返す貴族たちは、没落して再起ができない。代わって、金銭を得た庶民が成り上がる。身分による支配は崩れて位階は混ざり合い、利益ではなく徳と名誉に生きる貴族の在り方は嘲笑の的となる。貴族の中の貴族であるあなたが憂えているのは、ノブレス・オブリージュの形骸化……)


 目先の利益になど目もくれないほどの強者にしか、できないことがある。ミシェルは直観的にそれを知っているのだ。それは、先祖から受け継がれたものを浪費し尽くして身を持ち崩していく貴族たちにはなし得ないこと。

 耳に痛い、誰もが直視したくない現実を恐れず口にするミシェルは、旧来の貴族たちには敵視され、台頭する有力な庶民たちにも煙たがられる。どちらからも睨まれて、徐々に追い詰められていくのだ。

 そしてある日、足もとの床が消えて、真っ逆さまに暗黒の深淵へと落ちる。



「寝てた……」


 夕日の差し込む執務室で、アマリアは目を開けた。執務机に向かっていたが、書類は隅に整然と積み上がっている。時間があるからと、ミシェルが体を譲ってくれたに違いない。意思の疎通ははかれなくても感じるのだ。いまはミシェルが、あのメモの中身を切実に知りたがっている、と。

 アマリアは、椅子をひいてふらりと立ち上がる。修復の続きをしなければと、取り憑かれたように歩き出す。

 体のどこもかしこもぎくしゃくとしている。よほどの疲労が溜まっているに違いない。今は何年だろうか。シャルダン公爵ミシェルが死ぬまでの時間は? 頭の中をとりとめなく考えが巡るも、アマリアは足を止めずに私室へと向かう。

 破滅に向かうミシェルを止めたい。だがミシェルはその願いを聞かない。


(生きたいようにしか、生きられないのだ。私もミシェルも。そしてミシェルから私に対する願いは、フレデリクが残した紙片の中身を知りたいということ。私は、あれはアマリアの死に対する警告だと思うのだけど……)


 フレデリクの行方を知ろうとはしてみたが、「最近、フレデリクは」と家令に話を振ってみたところ「もうこのお屋敷にはお越しになることはないでしょう」と答えられた。

 情緒的なものを排除しようとしていたようだが、片眼鏡の奥の瞳は悲しげな光を湛えていた。アマリアは、それ以上の追求を放棄した。

 そこからはただ、ミシェルの願いを叶えるため、そして職人として名工のヴァイオリンを在りし日の姿に戻すために、ニスを落とすことだけに集中することにした。

 そして、途絶えがちだった作業をなんとか進め、ベタ塗りのニスを綺麗に落とし終えた日。最後に細心の注意を払って、紙片を剥がす。


(ミシェルが中身を知りたかった、フレデリクのメモ……)


 ふと顔を上げて窓の外へ目を向けると、外は真っ暗だった。


「いま何時だろう。というか最近、ぶつ切れで交代がくるから確かめてもいなかったけど、いつなんだ……」


 作業用の椅子から立ち上がる。

 求め続けてきた紙片を取り出す作業を最後にしたのは、その内容を見た瞬間に「終わる」予感があったから。作業工程をすべて終えて、修復の完了が確信できたときに見ようと、当初から決めていた。

 それは自分アマリア宛のメモだと確信しつつも、ミシェルのものだという気持ちもあって、見るのがためらわれたのもある。


 このまま道具を片付けて、紙片だけ置いておけば、入れ替わりが起きた後にミシェルが見てくれるだろう。その思いから、アマリアは久しぶりに体を伸ばして、ゆっくりと部屋の中を歩き回った。

 新聞や本を枕元に置く習慣はもうない。入れ替わりがあっても、いつ戻るかわからない緊張感がたえずつきまとい、アマリアは作業以外のことは極力しないようにしてきた。

 薄暗い部屋を横切り、本棚の前で立ち止まる。見覚えのない本を探して指を引っ掛けて引き出し、その奥付を見た。


「七一〇年……、ミシェル、時間がない!」


 作業台まで引き返そうとする。そこで、ふっと目の前が暗くなった。


(だめ、今は代わりたくない。やっぱりあのメモを見ておかないと、フレデリクが何を言おうとしていたのか知らないと……)


 暗転。アマリアの意識は、闇へと落ちた。


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