第5話 この罪を許し給え

 目覚めたときに最初に考えたのは、今回はずいぶん深い眠りについていたな、ということ。


 寝る前に枕元に新聞を置く習慣を思いついたのはアマリアだが、意図を汲んだミシェルもそれを習慣にしてくれたおかげで、スキップした期間がすぐにわかった。

 しかしこの日、枕元にあったのは新聞ではなく真新しい本。

 起き上がって手に取り、奥付の発行年を見て、思わず声に出して呟いた。


「七〇六年……」


 前回、入れ替わりが起きたのは七〇三年、フレデリクと歌劇場にいたときだった。実に三年のスキップ、ミシェル・シャルダンは十八歳になっている。

 二十二歳で死ぬとすれば、残り時間は確実に少なくなっていた。



 * * *



 十二歳でフレデリクに入れ替わりを見破られたとき、アマリアは腹をくくって自分の知る限りのことを打ち明けようとした。

 ミシェルが、女性であるということ以外は。


「私の名前はアマリア。この時代では、まだ生まれてもいない未来の人間だ。性別は女性。だから、あなたから見たミシェルが少しくらい女性らしくても、私の影響だと思って。職業は、楽器職人だった。といっても、制作より修復の方が依頼としては多くて……、最後に手掛けた仕事が君の愛器、ピアンジェレッリの作品なんだ。修復の過程でおそらく私は命を落として、気付いたらミシェルの中にいた」

「命を落とした?」


 フレデリクが眉を跳ね上げて聞き返してきた。アマリアはどこまで話すか悩みながらも、言える範囲の説明を試みる。


「はっきりとはわからない。深夜に工房にひとりだったときに、後ろにひとの気配があって、殴られたと思う……。その前後の作業の記憶は曖昧だけど、それ以降の記憶はないから」

「それは、いつの話? 君は未来の人間だと言ったけど、俺が生きているうちに間に合うなら助けに行くよ。それよりもずっと先から来たなら、どこかにメモを残しておこう。確実に未来の君に届くように」


 真摯な瞳でまっすぐに見つめられ、アマリアは思考をめまぐるしく回転させる。


(フレデリクの性格ならそう言う。だけど、かなり近々の未来だということと、そうであるにも関わらずミシェルはそのときすでに死んでいると知ったら、どうするんだろう)


 本当は言いたい。

 このままだとミシェルは破滅する、と。ミシェルを愛していると言い切るフレデリクならば、そうならないように手を打ってくれるのではないだろうか。

 一方で、もしミシェルが歴史の通り死ななかった場合、未来のアマリアはどうなるのだろうという悩みも、依然として頭を占めている。生きて、生き延びて、ミシェルとしてアマリアが工房で死を迎える事実を捻じ曲げにいくことは可能なのか? 

 そのとき対面するアマリアは、一体何者なのか。

 結論が出ず、アマリアは具体的な日時を口にするのを躊躇する。フレデリクは、痛ましいものを見るように眉をひそめながら、アマリアが話し出すのを待っていた。だが、アマリアが躊躇しているのを見て、尋ねてきた。


「この楽器が、どういうルートで『アマリア』に渡るのか知りたい。俺が直接持ち込むのか?」

「違います。ええと……、そういう中継ぎをする商人がいて、そのひとから依頼がありました。彼の名前は……、そう、ジャンピエトロ・パガーニです」

「ジャンピエトロ・パガーニ……」


 忘れまいとするかのように呟くフレデリクを前に、アマリアは決意を固めた。


(やっぱり、言おう。ミシェルが、ひどい死に方をすることは……!)


 まさにそのことを告げようとしたとき、部屋にメイドが戻ってきて、二人きりでの話はそこまでとなった。

 人前では話せない。手紙にも書けない。



 そこから、定期的に設けてきた読書会や茶会、勉強会の意味が大きく変わった。

 いかに人の目や耳のないところで、密談をするか。二人だけの時間をどうにか捻出することにアマリアは心を砕いた。

 これは、ミシェルが表向き女性ではなく、「男」であったことで、思った以上にうまくいった。

 貴族のご令嬢ともなれば、婚約者ではない男性と行動をともにするなど許されない。婚約していても、二人きりなどありえないはず。しかし、男同士であることを最大限利用し、「一緒に歌劇場へ行く」と理由をつけて馬車に同乗したり、その出先の貴賓席の個室でそれとなく従者を外で待たせて二人になったり。

 十歳のときの、婚約云々の話はいまや子どもの冗談として二人とも決して口にせず、人前では親友として振る舞った。男同士とはいえ仲が良すぎるのでは、と疑われるような言動は一切しないように心がけた。

 それはアマリアが、「ミシェルの中のひとは女性である」と最初にフレデリクに打ち明けたのも大きかったに違いない。フレデリクの態度は一貫して、節度あるものだった。


(ミシェルが知られたくない情報に触れそうなときは、ミシェル本人が強制介入してくる。私と意識を共有しているミシェルは、自分の死について気づいている。でも、それをフレデリクに話してほしくないみたいだ……)


 何度も、失敗している。話そうとすると、ミシェルに取って代わられる。そしてその後はフレデリクを冷たくあしらっているようなのだ。

 このままではいけない。

 その日は、新しくできたばかりの歌劇場の個室にて顔を合わせた。

 劇の始まるまでの短い時間に、アマリアは七一〇年に若きシャルダン公爵が罪を背負い、処刑される件を必ず伝えるべしと意気込む。


(ミシェルに勘づかれないうちに、速やかに。もう、なんの前置きもなく言ってやる!)


 従者が出ていき、部屋に二人きりになった瞬間、席をすすめようとしているフレデリクの肩に掴みかかって言った。


「ミシェルは、政争に負けるか、その結果として政敵に陥れられるのか、かなり若い内に悲惨な死に方をする! あまり時間がない。ミシェルを助けて、フレデリク!」


 ……記憶はそこまで。

 ミシェルに体を奪われた。

 そして飛んだのだ。十八歳まで。死を迎えるまで、あと四年しかない。


 * * *


 ひとまずベッドから起き上がって、アマリアは部屋の様子を確認する。

 十五歳から十八歳まで、三年も飛んだのは大きい。部屋の様相が、何があったのか心配になるほど変わっていた。

 もともと贅沢な部屋に暮らしていたのだが、調度品類が明らかに違う。

 天蓋から吊るされたカーテンの柄。壁紙。部屋の隅に置かれた背の高い白磁の壺。複雑な草花の紋様の織り込まれた絨毯。足の細い椅子や卓。


「全部東洋趣味だ。ミシェル、趣味が変わったのかな」


 ふと暖炉に目を向けると、マントルピースが見知った部屋のものとは違った。一回り以上大きな大理石の作り。そこで、アマリアは部屋そのものが違うのだ、と気づく。

 ドクン、と心臓が鳴った。


(部屋を変わる理由はなんだ……? それも、以前より格式の高い部屋に。これではまるで、公爵位を継いだように見える。待て、まだ十八歳なのに? だけど、二十二歳で死ぬとき、ミシェルは公爵だ。最後のシャルダン公爵……)


 父親はこの時点で、すでに亡くなっているのかもしれない。

 そしてミシェルはいま、公爵として生きているのだ。


「フレデリクは……、フレデリクはどこに? まだそばにいてくれている?」


 眠りに落ちていた間の事情がわからないのが、もどかしい。

 何か手がかりはないかと、アマリアは裸足のまま部屋を歩き回る。そして、ふと気になった大壺の中を、のぞきこんだ。口が幅広で、それなりの嵩があるものも入れられる仕様であったそこに、見覚えのあるものが隠されていた。

 ピアンジェレッリのヴァイオリン。

 フレデリクの命。


「どうして……」


 すうっと全身から血の気が引いていく。


(ずっと気になっていた。あれほどの腕前と美貌なのに、アマリアの記憶にそれらしき音楽家がいないこと。貴族として生き、どこかの時点で音楽を捨てたのだと思い込もうとしていたけど……。あるいは彼は、ミシェルよりも先に)


 見ようとしていなかった現実に行き当たり、アマリアは崩れ落ちるようにその場に膝をついた。


 * * * * *




「……今日の演目はなんだったかな」


 歌劇場の貴賓室にて。目の前で、叫んだアマリアが消えて、ミシェルが現れた。

 何度目の当たりにしても、フレデリクはその瞬間、緊張する。


(勘だけが頼りなんだ。俺が君たちを見分けるにあたり、根拠や物証は何もない。アマリアが話す記憶も、未来のことでいまは確かめようがないのだから)


 ミシェルはゆったりとした長椅子仕様の座席に腰掛け、背もたれに寄りかかり、遠くを見るようなまなざしになる。その横顔を注視しながら、フレデリクも腰掛けて慎重に答えた。


「君が"Méditation"を聞きたいというから」

「ああ、私ではない私が言ったのか。どこへ行こうと、お前より上手い演奏が聞けるはずもないのに」


 ほとんど独り言のような返答。やはり、アマリアと話し方が違う。フレデリクには視線もくれない。


 ――ミシェルは、政争に負けるか、その結果として政敵に陥れられるのか、かなり若い内に悲惨な死に方をする! あまり時間がない。ミシェルを助けて、フレデリク!


 フレデリクは足を組み、光に照らし出された舞台へと視線を投げながら尋ねた。


「話の途中だった。彼女は何かを言おうとしていたのに、どうして邪魔を?」

「さて。未来から来たという『彼女』のことなら、私はよく知らないんだ。何を言おうとしたんだろうな」


(声が一段低くなった。発声がアマリアとは違う。隙がない……ミシェルだ)


 アマリアは楽器の知識が豊富で、ヴァイオリンを渡そうものなら飽きずにいろんな角度から見ている。どのくらい未来から来たのかフレデリクには打ち明けようとしないが、ピアンジェレッリのヴァイオリンがよほどの歴史的な存在になっている遠い未来なのかもしれない。ごく最近まで、フレデリクはそう考えていた。だが。


(意外と近い未来なのかもしれない。ミシェルには敵が多いから、政争に負けるというのは考えられるけど……それだけでなく、ミシェルにはがある。それが失脚の原因?)


 本来は女性だと打ち明けて気が楽になったのか、アマリアに代わったミシェルは、フレデリクと二人のときは表情の動きや声に作り物めいた雰囲気がなくなった。女性に、見えた。

 それは、はからずもフレデリクの抱く仮説を強力に裏付ける。つまり、ミシェルも女性なのだ、と。


 劇場全体が暗くなる。

 フレデリクは座席上で素早く距離を詰めて、背もたれに腕をかけて横からも後ろからもミシェルを囲い込んだ。アマリアは逃しても、ミシェルを逃がす気はない。


「演奏に興味がないなら、もう少し俺と話そう」


 薄暗がりで、ミシェルが迷惑そうな顔をしたのがわかる。ちらっと視線をくれた。その目を見つめて、フレデリクはきっぱりと言った。


「アマリアには手を出さないようにしているんだ。俺が愛している女性はアマリアじゃないから。キスして良い? ミシェル」


 反射のようにミシェルが立ち上がろうとした。

 時間が間延びしたような一瞬、フレデリクは素早く立ち上がり、正面からミシェルの肩を両手で押さえ込む。

 その華奢な体を座席に沈めつつ、隣の座面に片膝を乗り上げ、逃げ道をすべて塞ぐ。


「なんのつもりだ」

「この状況で、男にそれを聞くかな。警戒心強いくせに、詰めが甘いよミシェル。俺がもう君を諦めただなんて、まさか本気で思ってないよね」

「男同士だぞ」

「それ以外に断る理由が無いなら、実質それは俺を止める気がない。アマリアは気を抜きすぎだし、どのみち君はこれ以上隠しきれない……」


 細い肩に指が食い込む。喉をいじれば、そこにあるべきものがないのが、はっきりとするはず。

 ミシェルはヘーゼルの瞳でフレデリクをじっと見つめていたが、やがてふっと力を抜いた。フレデリクの手に伝わる抵抗が弱まり、消える。ミシェルはいかにも大儀そうに横を向いて、息を吐き出した。


「好きにすれば良い。お前がどう考えようと、私は『男』でありその事実はいまの世界では変えられない。たとえこの先、継承権が女性にまで拡大されてもそのとき私は……」


 言葉尻が弱まる。少しの間待って、ミシェルがそれ以上のことを言う気がないと確信をしてから、フレデリクはその顎を掴んだ。自分の方へと向かせる。


〈それはいまは昔、美しき巫女にして淫蕩にふける娼婦であった女の身に起きた話〉

〈神よ、この罪を許し給え〉


 背にした舞台で、劇が始まる。

 朗々と歌い上げられるセリフ、高まる音色を耳の端にとらえながら、フレデリクは長椅子に覆いかぶさるように身をかがめた。


〈神よ、この罪を許し給え〉


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