第4話 愛は欺瞞を見つめる
ミシェルの様子がおかしい。
(やっぱりあの十歳のお茶会……だよな。婚約者候補を寄せ付けないようにしていたのは前からなんとなく感じていたけど、まさか男の俺にあんなこと言うなんて。冗談だとしても、ミシェルだったら言わない冗談のような気がする……)
その冗談に乗っかって、ミシェルと距離を詰めることに心血を注いできたフレデリクだが、会えば会うほどに言葉にしにくい違和感があると気付いてしまい、その意味でもミシェルの存在が気になって仕方なくなってきた。
見た目も声も、本人そのもの。
強いて言えば、話し言葉や興味の方向性が、以前とは変わっているように感じる。
そこまで気づくのに、一年かかった。
交流のある間柄とはいえ、毎日頻繁に顔を合わせるわけではない。手紙を出して約束を取り付け、日時を決めて会うとなれば、頻度を上げようにも二週間に一回程度が限度。
互いの用事等で時間が折り合わなければ、一ヶ月空くことも往々にしてある。
そうやって、ミシェルがおかしいという確信を深めながらの二年目。
あるとき、不意打ちをした。
出先で、品種改良に成功した珍しい薔薇を頂いたから、薔薇が枯れる前にと先触れもなく公爵邸を訪れたのだ。普通なら不調法を咎められる場面であったが、ミシェルの友人として通い詰めていたこともあって、屋敷勤めの使用人たちの覚えもめでたく、無事に取り次いでもらうことができた。
通い慣れた廊下を進み、見事な彫刻の施された樫の扉を開けて、ミシェルの部屋へと足を踏み入れる。ちょうど本棚に向かっていたミシェルは、案内のメイドに茶の用意を命じた。
フレデリクは部屋を横切ってミシェルの元まで進み、笑顔で挨拶をした。
――突然ごめんね、ミシェル。会えて良かった。
――用事があると聞いた。
同年代の中でも、身長の伸びで遅れを取っているミシェルと、家族全員長身の部類で本人も順調に背が伸びているフレデリクが向かい合うと、身長差で見下ろす形になる。上から見たミシェルは、肩が細く華奢な印象だった。
視線を感じたように、ミシェルが顔を上げて見返してきた。
艶を帯びた黒髪、秀でた額、きっぱりとした眉に、位置関係でどうしても上目遣いになるヘーゼルの瞳。その目を見た瞬間、それまで彼に対して感じ続けていた
目をそらさぬまま、フレデリクは話し始めた。
――俺の母上が、先の王妃様の末の妹にあたりまして、ときどきお屋敷にお茶に呼ばれるんです。話し相手が必要だからと言われていますが、厳しい質問がたくさん飛んでくるので、教養がどの程度身についているのかの確認ですね。今日は「珍しい薔薇があるから持って帰るように」とたくさんいただきました。ミルクティーのような色合いで、ミシェルの瞳のようだと思って、つい先触れもないまま寄ってしまいました……。
苦しい言い訳だったが、ミシェルは押し黙って聞いた後で「なるほど」とだけ呟いた。そして、フレデリクの抱えた花束に目を落として、口の端だけで笑った。
――枯れ草のような色の花びらだ。私の瞳は、こんな色か。
自嘲の滲んだ、突き放すような物言い。これがミシェルだ、と思った。
いつもよりさらに感じが悪い。何もかもに見捨てられたと思い込んでいる、暗い眼差し。見ているうちに、フレデリクは胸がざわつくのを感じた。
(俺はこのミシェルを知っている……。いつか遠い未来に、何度も思い出す。……未来?)
――ミシェルの瞳は綺麗ですよ。『和解』の花言葉を持つ
――何と和解をするんだ? 和解とはそもそもなんだ。誰も私のことなんか。
フレデリクは、ミシェルの胸に薔薇の花束を押し付ける。とっさに、ミシェルは手を出して支えた。両手がふさがったミシェルの肩に手を置き、身をかがめて視線を合わせて、フレデリクはその目をのぞきこんだ。
感情を叩きつけるように、告げた。
――あなたを愛している俺の前で、そういうこと言うんですか。それ、俺はどう受け止めれば良いんですか? そんなことないよ俺がいるじゃないですかって言えば良い? それとももっと違うことを期待していますか?
(無償の愛を注ぎ、心の穴を埋めれば満足するのか。しないだろう。君はいつも無いものねだりのいらだちをふりかざして、周りの人間を切り捨てて、そして)
ミシェルに対して手を伸ばしたのは、自分でもどうしてかわからない。本当に、文字通り手が出て、しかし無策ゆえに何もできず。前髪に触れた。
――あ……っ。
ミシェルは恐怖したように目を見開き、ついで目を瞑った。
まぶたを開いたときには、目つきがまるで別人になっていた。そのときに、フレデリクは確信した。
いま、入れ替わった、と。
――驚かせてごめん。髪に糸くずが引っかかっているように見えて、取ろうとしただけなんだ。キスしようとしたわけじゃない、本当だよ。
言い訳としては非常に適当なことを言って、フレデリクは手を離した。もしミシェルの記憶や人格が連続しているのなら、怪しむ言い草だったはず。しかし、何度かまばたきをして、辺りを確認するように素早く見回したミシェルは、それで納得したらしかった。
――口で言えば良いものを。
ミシェルを真似た口ぶりで、そっけなく言いながら自分の前髪を指で払う。それは、ここで一度話題を終えようとしているようにも見えた。
(いつも会っているミシェルは、こちらだ。どういうことだ? 人格が入れ替わる? 記憶はどうなっているんだろう。というか、これは結局
その場ではそれ以上の追求はしなかったが、親交を深めるうちにフレデリクは気づいた。
音楽に対する向き合い方。いつも会っているミシェルは、ヴァイオリンに対して強い関心がある。それは十歳以前のミシェルに見られなかった特徴だ。
フレデリクは、乞われるままに曲を弾くようになった。
そして「入れ替わり」に気付いてからさらに一年ほどたった十二歳の終わり、ついにミシェルにカマをかけることにした。
「ミシェルをどこへやったの? 君は誰?」
* * *
確信を持った声の響き。アイスブルーの瞳に射抜かれる。言い逃れの余地などなさそうだ。
(フレデリクは、気付いている? ミシェルの中に、
動揺のあまりアマリアは心の中でミシェルを呼んだが、返答はなかった。入れ替わりが起きる気配もない。
対応を一任されている……と、ドキドキしながらフレデリクには質問で返す。
「ミシェルはここにいる。いないと思ったのは、どうして?」
「愛かな」
にこっと微笑みながら、フレデリクは即答。
アマリアは本能的な危機感から、一歩下がった。
気づくと、部屋の中にいつもいるメイドや従僕がひとりもいない。そういえば演奏を始める前に、フレデリクが何か用事を言いつけていた、と思い出した。
(完全に、ここで決着をつけるつもりでいたんだ。そして、決定的な何かを掴まれた)
焦るアマリアに対して、フレデリクは距離を詰めてくることなく、笑顔のままヴァイオリンのネック部分を掴んで掲げるように持ち上げた。
「十歳の頃から、君は変わった。何かがズレたように感じたけど、それが何か答えを見つけるまで時間がかかった。たとえば君はいま、『こんな歴史的に素晴らしく価値のあるもの、なかなか見られるものじゃない。勉強になった』と言った。これはたしかに貴重な楽器だけど、ミシェルがそう言うかと考えると、違う気がする。それがつまり、
腹芸が苦手過ぎるアマリアは、そこではっきり顔色を変えてしまった自覚があった。フレデリクは目を細めて、思案するかのように口を閉ざした。
次に何を言い出すかがまったくわからない。
沈黙が怖くて、アマリアは早口で答え合わせをしてしまう。
「ふつう、ちょっと変だと思っても、別人だなんて発想にはならないと思う。少なくとも、公爵家では面と向かって言われたことはない。愛って……、まさかまだ婚約の件にこだわっているのか?」
フレデリクは一瞬真顔になって、目を瞬いた。その後に、蕩けるような笑みを浮かべた。
「こだわっているよ、もちろん。他人を寄せ付けない君が、冗談とはいえ俺を指名したわけだ。他の誰でもなく、この俺を。そこには必ず意味があると思っていた。あれ以来、ずっと注意して君を見てきた。これは正真正銘、愛だね」
(こっちは適当だよ! 絡んできたから、からかっただけなんだってば! 私の気の迷いで、ミシェルの意思だって介在していない嘘の告白だったのに! ……そうだよね? ミシェル)
まさか真に受けたフレデリクが、アマリアを宿したミシェルを見つめ続けて、真実にたどり着くだなんて。
「どんなに君が愛を捧げても、叫んだって、ミシェルには届かないっ」
「届けてみせる。俺の命であるこのヴァイオリンにかけて」
揺らがない。
掲げられたヴァイオリンを前に、アマリアは反論も思いつかずに口をつぐむ。
周囲の誰にも、両親にすら入れ替わりに気づかれなかったミシェル。
ヴァイオリンには命をかけてきたアマリア。
奇しくも二人の泣き所を同時に貫いてきたのだ、フレデリクは。
「愛なんて、知らない……。あなたが、なぜそんなに確信に満ちているのかもわからない。だけど私は……ヴァイオリンに誓われたら、逆らえない……!」
血を吐くほどの感情ないまぜに、屈服を口にする。フレデリクは掲げたヴァイオリンを下ろして、実に爽やかに言い放った。
「それで良いよ、ミシェル。の、中の人? この先俺に隠し事ができるとは思わないで。俺の聞くことには全部正直に答えるように。いいね?」
「えぐい……。愛がえぐい」
非難がましく呟くアマリアの前で、フレデリクは声を上げて楽しげに笑った。
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