第3話 痛みを愛して、ヴァイオリンは歌う
朝、目がさめてアマリアは異変に気づいた。
(時間が飛んだ……、まただ)
寝る前に枕元に置いた新聞。起き上がって手に取り、日付を確認して呟く。
「王国暦七百年の、七月六日……」
前夜、眠りに落ちる前に置いた新聞は六月二〇日のものだった。二週間以上時間が進んでいる。その間、おそらくミシェルはうまくやってくれていたのだろう。そして、今日はミシェルにとって苦手な約束があるから、アマリアに体を押し付けてきたのだ。
そこまで理解して、アマリアは天蓋付きの寝台から床に足を下ろし、やわらかいルームシューズを足にひっかけて窓へと向かう。
カーテンを軽く手で開いてみると、すでに日差しは明るく、良い天気だった。
この日は「ミシェルの苦手」こと、フレデリクとの読書会の予定が入っていた。
* * *
アマリアに初めてこの現象が起きたのは、ミシェルの体で気がついてから二ヶ月ばかり経過して、公爵令息の生活にもなんとか馴染み始めた頃。
飛んだ期間は、約一ヶ月。
朝起きたら、ほんの少しずつ、物の位置や他人との会話が前日とずれている。その原因を突き詰めていき、やがて気づいた。
時間をスキップしている、と。
そしてその間は、本物のミシェルが、この体で生活をしているらしいのだ。
ミシェルの意識は、ときどき深い眠りに落ちる。
代わって起きたアマリアが、ミシェルの寝ている間その体で生きることになる。
わかったときは、静かな感動があった。
(私がこの体で目覚めたとき、本当のミシェルはどこへ行ってしまったのかと思ったけど、きちんと生きているんだ。そして、何かのタイミングで切り替わる)
十歳から一、二年の間、短ければ一日単位で、頻繁に交代があった。
アマリアは、ミシェルの体で過ごしている時間に、「うっかりたらしこんでしまった?」フレデリクとの親交を深めていた。
元々交流があったらしく、お茶会や読書会の機会はそれなりの頻度で設けられていたのだ。
数回を経た段階で、アマリアは不意に閃いた。「ミシェルはフレデリクと約束している日はアマリアに役目を譲っているようだ」と。
それがミシェルの意思なのか偶然なのか、ミシェルと意思疎通する術のないアマリアに推し量ることはできなかった。
ミシェルの意思をはっきりと感じたのは、約束なくフレデリクが屋敷を訪れたある日のことだった。
普段なら意識の交代は寝ているときなのに、その日は「緊急!」という忙しなさで、昼日中にフレデリクを前にしている瞬間に、ミシェルからアマリアへの交代が起きたのだ。
アマリアとしては、数日前に眠りについたところから時間が飛んでいきなりミシェルの中で覚醒したので、混乱しきり。
(突然何!? なんでフレデリクがいるの!?)
状況がわからないまま焦るアマリアに対し、やけに間近な位置まで顔を近づけてきていたフレデリクが、ふわっと笑ってミシェルの前髪から手を離した。
「驚かせてごめん。髪に糸くずが引っかかっているように見えて、取ろうとしただけなんだ。キスしようとしたわけじゃない、本当だよ」
それで、アマリアはようやく状況を察した。
(約束もなくフレデリクが現れて、なんとか対応していたら急にキスされそうな距離になって、びっくりして私に体を押し付けてきたと。「フレデリクがミシェルに懐いているのは私のせいだから、責任とらせよう」という圧を感じる……。ミシェル、フレデリクが苦手っぽいけど、仲良くなって悪いことしちゃった? もしかして歴史が変わっているのかな)
――わかった! 婚約しよう! 俺はミシェルと婚約して、結婚する!
いまもって、あのときのフレデリクの決断がアマリアにはよくわからない。
カンが鋭いのか鈍いのか判然としないフレデリクは、ミシェルを「男」と認識した態度で接してくる。
しかしミシェルは女子なのである。近づかれ過ぎるのはまずい。
(今のところ、部屋には誰かしらいて、二人きりで会うこともないし、いきなり体を触られたりということもないけど、成長すればミシェルの見た目も変わるよね。フレデリクは紳士とはいえ、何するかわからないっていうのはあの告白の一件でよくわかっているから……)
アマリアとしても責任は感じている。ミシェルから、フレデリクを離さなければ、と。そう思っているのに、積極的に突っぱねることができない。
それは、彼が天性のヴァイオリン弾きだからであった。
ミシェルの中のひととしてアマリアが十歳の時分に知り合ったフレデリクは、十二歳となった現在、その恐るべき才能を遺憾なく発揮するに至っていた。
アマリアから「新しい本を手に入れた」と、読書会にかこつけて彼を屋敷へと呼び出す。
そして、一通りの意見交換を終えた後に一曲所望する。
ミシェルはこの予定が苦手なようで、アマリアが約束を取り付けるたびに体を押し付けてくるのだが、不思議と「やめろ」という意思表示を受けたことはない。それを良いことに、アマリアはフレデリクと顔を合わせ「次の約束」を取り付けてしまうのだ。
理由はただひとつ、彼の演奏を聞きたいから。
この日もアマリアがお願いすると、フレデリクは持参していたヴァイオリンをケースから取り出し、気負った様子もなく肩にのせた。
指が指板に乗せられ、弓が弦に当てられる。
ほんの数音弾き始めただけで、その豊かな音色は空間を染め上げていく。
("Méditation"……)
オペラの間奏曲。
その日フレデリクが奏でた調べは、敬虔な修道僧が、美貌の高級娼婦にして異教の巫女である女性へ改宗を迫る場面で流れる曲であった。自らを厳格な信徒として疑わぬ修道僧は、奢侈に溺れた彼女の享楽的な生活を批判して、己の信じる神への帰依を迫る。
〈虚飾に満ちた生活を改めよ、巫女として生きるあなたならば神に身を捧げる生活の尊さがわかるだろう。私とともに行こう〉
天上に捧ぐ祈りのように、伸びやかで清らかな音色は耳に優しく、労りと慈愛に満ちている。そこにはどんな偽りも不穏さもなく、安らぎだけがあった。
だが、修道僧の言葉には本人すら無自覚の、一筋の偽りが滲んでいるのだ。
(「あなたが欲しい」だ。彼女の乱れた生活を正すと言いながら、修道僧が本当に求めていたのは、彼女が他の男に触れられるのを阻止すること。本音と建前、理想と欺瞞、エゴ)
楽器職人のアマリアは、楽器の仕組みには精通しているが、演奏はとてもひとに聞かせられたものではなかった。美しい音色を聞くと、決して手の届かぬものを目の前に置かれた痛みに、胸が甘苦く引き絞られる。そのアマリアの思いなど届かぬ透明な壁に隔てられた向こう側で、フレデリクは幻想を奏で続ける。
曲調が変わった。
(巫女でもあるヒロインが、修道僧の求めに応じて、改宗を決断する場面だ。だけど、どれほど淫蕩にふけろうと純粋な心を持ち続けていた彼女に対し、自らの浅ましさに気付いた修道僧は彼女に背を向けて旅に出てしまう。砂漠の国へと……)
まるで夜から朝へと世界が生まれ変わるほんの刹那、灰色の雲間から光が差すような音色だった。
光は照らし出す。アマリアの抱えた鬱屈を。その心の奥を。指板の上を走る指先から、白い翼を持つ鳥が暁の空へと羽ばたく。
見えぬ鳥の影を追って、アマリアがソファから思わず立ち上がったとき、演奏は終わった。
「本日はお招きいただきありがとうございました。一曲と言わず、いくらでも弾きますよ。言ってください、ミシェル」
優美な仕草で、フレデリクがお辞儀をしていた。
伸ばされたプラチナブロンドが肩口をすべり、長い睫毛に彩られたアイスブルーの瞳は、笑みを湛えてミシェルに向けられている。身長差は一段と、広がっていた。
彼とミシェルを隔てる透明な壁はいつの間にか消え失せていた。少しだけ歩み寄り、手を差し伸べれば届く距離で、彼は微笑み佇んでいる。
ふらり、と。
意思とは無関係に彼の方へと足が一歩出て、気づいたアマリアは慌てて踏みとどまった。
(ときどきこの体は、私の意思を無視する。私の中のミシェルは、実はいまも起きていて、私の影でフレデリクの演奏を全身全霊で聞いていたんじゃないだろうか)
アマリアにはミシェルの記憶が無いので、逆もそうなのだろうと思っていたが、もしかすると違うのかもしれない。
ミシェルはアマリアに気づかれないように、今もフレデリクとアマリアの会話に耳をそばだてているような気がした。
そう考えれば、いままでアマリアが抱いていた違和感にも、理由がつくように思われた。
交代があるとアマリアは戸惑うばかりなのに、ミシェルは何やらうまくやっている気配がある。
どうしてそう落ち着いているのかと思っていたが、実はミシェルの中では記憶が連続しているのだとすれば、説明がつく。
そして、アマリアが何かとんでもないことをしそうなときは、表に出てきてうまく立ち回っているのだ。
その代わり、自分がアマリアに押し付けたいことがあれば、これ幸いと隠れてしまう。
隠れたくせに、こうしてこっそりとフレデリクの演奏を聞いているのは。
もしかして、ミシェルは、フレデリクの演奏が好きなのではないだろうか。
「ありがとう。今日もすごく素敵だった。君は演奏家になるのが良いんじゃないかな」
アマリアは固い表情筋を力づくで動かし、フレデリクに微笑みかける。
途端、ぱあっとフレデリクが顔を輝かせた。
「ミシェルにそう言ってもらえるとすごく嬉しい。嗜みとして習い始めたはずが、いまでは楽器が手放せなくて。ほどほどでやめて勉強に専念するように両親には言われているけれど、時間さえあれば手が勝手に曲を弾き始めてしまうんだ」
「大変だな。音楽は、隠れた趣味にしようにも、音で気づかれる」
「そうなんだよ。部屋でこっそり絵を描いたり、詩を書くのとは違う。いずれ楽器を隠されてしまうかもな……」
それとなく距離を詰めて、アマリアはフレデリクの手にしたヴァイオリンを見る。フレデリクも心得たもので、アマリアの関心がヴァイオリンにあると気づくと、よく見えるように持ち替えて、差し出すようにしながら言った。
「ピアンジェレッリの作品だ。この楽器に変えてから、音が変わった。さすが評判だけあるよ、すごく良い品だ。もしも本当に没収されそうになったらどうしよう。ミシェルが預かってくれる?」
ヴァイオリンを手に置かれた。
背筋に悪寒が走った。その楽器が何か、アマリアはよく知っていた。
(シャルダン公爵の遺品から出てくるヴァイオリン、これだ……! この先、こういった口約束で、シャルダン公爵はこの楽器を預かるのか? それを返しそびれたまま死に、楽器は偽装を施されて人手に渡っていく……)
アマリアは、慎重な手付きでヴァイオリンの検分を開始する。そのまなざしは楽器職人の審美眼、向き合う態度には修復者としての矜持が漂う。
(覚えておきたい。この楽器の在りし日の姿。いつか私の手元に届いたとき、この姿まで復元できたら)
裏板を確認した。あの工房での夜、手にした紙片。中身を読めたかどうかは思い出せないが、少なくともいまの時点では、まだそこにはない。
「……どうもありがとう。こんな歴史的に素晴らしく価値のあるもの、なかなか見られるものじゃない。勉強になった」
今はまだ預かる日ではないだろうと思いながら、アマリアはヴァイオリンをフレデリクの手へと返す。
それまで黙っていたフレデリクは、受け取ってからアマリアへと声をかけてきた。
「不思議なんだけどさ。君は本当にミシェル?」
意図を測りかねたアマリアは、未練がましく見つめていたヴァイオリンから視線を引き剥がし、そばに立つフレデリクを見上げる。
フレデリクは、いつものように邪気なくにこにこと笑いながら、口を開いた。
「君、ときどき別人みたいな顔になる。以前一度不意打ちで訪問をしたときと、今では全然違うひとに見えるんだ。君はいつもの、少なくともあのときのミシェルとは違うね?」
「何を言っているんだ、フレデリク。どういう意味だ?」
ドクン、と心臓が嫌な鼓動を打った。そこから、ドクドクと早鐘のように乱れて鳴る。
仕方ない、アマリアはこんなとき白を切り通す方法など知らない一般人だ。面の皮が何枚あるかわからないミシェルとは違う。貴族育ちのフレデリクとも。
フレデリクに見下ろされて、アマリアの顔には影が落ちた。微笑みを絶やさぬまま、フレデリクは厳然とした声で尋ねてきた。
「ミシェルをどこへやったの? 君は誰?」
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