第6話 狂乱 (終)
Y(ユキヤ)
「こりゃー、お前だ、お前。・・君にちょっと話があるんだけど」
「いいです・・おれには話すこと無いですから」
飲食店が建ち並ぶ、細い裏通り。 学生三人組の中でも派手な服を着た一人の腕を掴んでビルの階段下に強引に引き入れようとしている。
「お前・・なかなかいい服着てんじゃんか、着飾って君たちはどこに行くんですか?」
「・・な、な、なんですか」
三人の中でもむこう気の強い一人が答えた。 あとの二人の学生も、もう一人の男から威圧されて、やはりビルの下に後ずさりしている。
「君達、今夜は何処にお出かけですか?・・何処で飲むんですか?」
学生達は青白い顔をして無言で唇を結んでいる。
「おれたちも呑むとこ探してるんですよ。 ご一緒したいんですけど・・どう?」
「・・・・・・」
学生達は無言だ。
「おれたち、腹減ってる分けよ」
「それに、ちょっと飲みたいしなー」
「どう? ご一緒いただけませんかねー」
それまで、おののいていたグレーのトレナーを着たもう一人の学生が。
「じゃ、一緒に行きましょう」
あとの二人の学生の目は泳いでいる。
「いいね・・そうこなくちゃね」
「よーっと、それじゃ話は成立だね、ことははやい方がいいね、考えが変わる前に行こうぜ」
腕を捕まれ、圧倒されて三人は比較的大きな居酒屋に入った。強制的に座席の奥に追いやられ座らせられると、これからどうなるんだろうか不安が首をもたげてきた。
注文を取りに店のお姉ちゃんがやってきた。
「いらっしゃいませ、お飲み物は何になさいますか?」
さっきからよくしゃべる目のぎょろっとした肌の浅黒い男が。
「とりあえずビール三本ね・・えーと、それから唐揚げ三人前と冷や奴三つ、おにぎり四人前、サラダ二つ・・うんーんまあそんなとこか」
「分かりました、グラスは五つですね」
お姉ちゃんがいなくなると。 目の細い口数の少ない得体の知れない雰囲気を醸し出す男が。
「お前ら、財布出せ」
低くドスをきかせ。 他に余計なことを言わせるなとでも、言っているように指図した。三人は渋々財布を出した。 素早く三人の財布を持ち上げるとテーブルに並べた。
「君たちは、学生かな?」目のぎょろっとした浅黒い男が聞いてきた。
「ええ・・」「この辺の大学なんだ」「いいえ都内です」「通学するのに結構かかるんじゃない」「はあ」こんな話をぐだぐだ続けていると料理が運ばれてきた。
柄の悪い二人は、学生にもビールをついで、自分たちは一気に飲み干した。 唐揚げを食べ、おにぎりを詰め込み、口の端しからキャベツを飛ばしながらサラダを食べた。 その間三人の学生は下向いてじーっとビールを見つめていた。 二人はいい加減食べ終わると、並べた財布の中から、一万円札二枚を拭き取った。そして空の財布を派手な服装の学生に放り投げて返した。
「ごちそうさん、これはおれらの払い。・・楽しかったよ・・じゃぁな」
後は無言だった三人の学生は、さっきからビールグラスの中で小さな泡が尾を引く様子を不安な顔で見つめていた。投げつけられた財布で三人は、はっと我に返った。 恐怖の会食は終わった。 ぎょろ目と細目は立ち上がると。
「お前達はゆっくりしていきな」
捨て台詞を残すと、さっさと店を出て行った。
残された学生三人組は、直ぐに財布の中身を確かめた。 財布の中には合わせて三万五千円残っていた。
「ちきしょう、お前いつも元ラグビー部だからって腕の筋肉自慢してるのに・・」
「なんだよ、いち早く奴らのいいなりになったの誰だよ」
険悪になってきた雰囲気で、三人は警察に届け出るかどうか迷い思案しはじめた。
「しかしよ、全部無くなってないじゃん、けっこう金が残っているんじゃないか」
「警察に行ったら、これから何時間もかかるんじゃやねぇ」
ぶつぶつ三人はつぶやいていたが、徐々にトーンが下がってきて、これ以上このことに関わりたくないという気持ちがはたらいて、とりあえずいやな気分のこの店を引き払って他の店で気分転換をすることにした。
ふところと腹がちょっと満たされた二人は、裏通りの暗がりに止めていた車に乗り込むと、爆音を響かせて、浦和の街中を郊外に向けて走り去った。
「二万か、まあまあの実入りか、兄貴なんで金、全部抜かなかったのですか」
「馬鹿やろう、全部抜き取ったら奴等警察に走るだろうが・・これがいただいたっていうことで恐喝じゃねえんだよ・・まあ取る方より返す方を多くすることが足がつかねぇぎりぎりなんだよ、覚えとけ」
「ああなるほどねー飯も食ったし・・まあ、いいか」
「兄貴、どっち向かいますか? 今夜どうしますか?」
「まずは、十七号に出ろや・・走りながら適当な宿を見つけようぜ」
対向車のライトが、運転している鈴木の顔を時折照らす。明暗が強調され、彫像のようにほりを深く浮かび上がらせる。
「おれらこの辺じゃ、有名だからな、とりあえず他のところに行こうぜ」
「兄貴、おれもそう思います。はやいとこここを出てやることやっちゃいたいですね」
「まあ、そう焦るな、奴は、お前が行くことをまだ知らねぇんだから、ゆっくりやれよ」
「兄貴、何から何までつき合ってもらって」
「そんなこっちゃねぇよ・・お前のことはおれのことと同じだよ」
「だって、おれのことで、別に兄貴に関係あることじゃないじゃないですか」
「おれは、おめえの兄貴分だぜ、弟分がやられっぱなしじゃなぁ」
鈴木の目がかーっと熱くなって涙が一筋二筋流れ落ちて、街の明かりに頬が光った。
「兄貴・・兄貴・・」
「もう、何も言うな・・もっとこの旅を楽しもうぜ」
「あーはい」
二人は、街外れのモーテルに入った。鈴木の隣で星川が、さっき煙草を買うために立ち寄った婆さんのやっている店で、ガメてきたつまみと冷蔵庫から出したビールを飲んでうとうとしはじめた。
二人は次の日十時頃、群馬に入った。高崎あたりだろうか、市街地に入っていくと商店街を抜けたあたりで裏通りに入り車を止めた。商店街の出口のあたりでぶらぶらしていると高校生の姿を見つけた。
車に戻りさっきの高校生を追って車を走らせた。 二人はさらに柄の悪い二人の高校生を見つけた。 鈴木はその周辺に続く道の傍らに車を止めた。 歩いて通りに出ると。 朝の時間に遅れて登校する、さっきのちょい悪の高校生が学ランの前をはだけて二人、いかれたチャリンコをこいでくる。 鈴木達は建物の影から奴らの前に急に立ちふさがると。びっくりして高校生が。
「こらーおめらーなんだー」
粋がって大声を出してきた。 鈴木はドスのきいた低い声で。
「よー、ちょいとお話しようや」
高校生は、よく聞こえなかったのか、眉をつり上げて叫んできた。
「なんだーこらー」
高校生達は、思いもよらない敵に目を白黒させて、それでも悪の臭いを強く出して精一杯粋がる。 鈴木はゆっくりと奴等の中でも強そうな方に近づくと。
「まあーそんなに粋がんなよ」
と言うがはやいか、自転車にまだまたがっている悪の腹に勢いよく拳を叩きこんだ。 ちょい悪高校生は飛んで自転車から道に転げ落ちた。
「おい、だから話しようっていったじゃねぇか、素直になりな」
もう一人は、自転車を倒すと、逃げようとしたが、すでに星川が奴の襟首を捕まえていた。掴んだ襟に力を入れると星川が。
「お前な、直ぐに仲間から金集めてこいや。 いいか目標は二万だ、さもないとこいつがめちゃくちゃになるよ」
吹っ飛んだ学生は立ち上がっていたが、鈴木が頬に二発平手を飛ばした。 唇が切れて口の横から血がにじんできた。 鈴木は襟を捕まれた奴を見て、もう一発平手を飛ばした。 それを見せつけるようにしていた星川が。
「なあ・・二万円集めてこいや・・直ぐに、誰にも言うんじゃねえぞ、金さえ集めてきたらこいつははなしてやる。いいか」
青い顔をした奴がうなずいた。
「学校まで三分、金集めに二十分、ここまで三分、まあ三十分で帰ってこいや、それ以上かかったらこいつの腕の骨を折ってしまうからな、分かったか」
また、さらに血の気がひいて青い顔をした奴がうなずいた。 星川は、襟を離してやった。 奴は足をもつれさせながら学校を目指して走った。
ちょい悪学生は、力が抜けたように座り込んだ。 鈴木達二人は学生を挟むように立っていると・・・・二十分・・・・息を切らしてちょい悪高校生が帰ってきた。 息を切らして。
「も、も、持ってきました」
星川は鈴木に目で合図すると。 鈴木がまだ肩で息をしているもう一人から金を受け取った。
「はい、ごくろうさん」
その瞬間に、鈴木と星川はそれぞれ二人の学生のみぞおちに拳を飛ばした。
「誰にも言うんじゃねーぞ、こいつがヘッドだろうが・・ヘッドがやられたとなっちゃ立つせがねぇだろう。 おれらも誰にもいわねないでやっからよー、おめえらも言うなよ。 おれの仲間がしばらくはお前ら監視してるからな・・いいな」
星川がそう言うと、二人は直ぐにその場を立ち去ると車に戻り爆音を響かせた。
「田舎の悪は、ちょろいもんですね」
「まあな・・何事も締めが大事よ、後始末をしっかりしとかねえとどっから足がつくか分かんねぇーからな」
「兄貴の後始末には、びっくりですよ」
「まあな・・田舎でもたまにすげーのがいる時があるんだよなぁ、気をつけねぇーとな」
星川の頭には、いつか対峙したしんじの顔が浮かんでいた。 車は信州をめざしてさらにスピードを上げた。
*
朝早くしんじから急な電話が入った。 ヒロはじっと受話器に耳を押しつけた。
「よー、この間はわざわざ来てくれてありがとうな」
「いやいや、こちらこそ」
「あのなー、ユキヤの居場所が分かったんだ」
「おー、どこにいるの?」
「この間お前らが帰ってから、よく考えてみると・・やっぱり心配でな、奴の実家に電話して聞いたのさ。 あの時の鈴木達を思い出すと、奴ら何やるかわかんねぇからなー」
「ううん、かなり追い詰められてるからな」
「ほんでもってユキヤは、どーも金沢のS×K▲O建設っていう会社にいるようなんだよ」
「ユキヤと連絡ついたのかよ」
「まだだ・・ユキヤは今、ちっと市内から外れた現場に一週間くらい出ているようなんだよ。はやくこの状況を知らせたいけどな」
「実は、こんな悠長なことは言ってられなくなってきたのよ。おれがユキヤの実家に電話入れて奴のお袋さんと話したら、一昨日、鈴木君からも電話があってユキヤのこと教えたって言うんだよ」
「鈴木も同じこと考えたんだな、鈴木達もう向かっているかもな」
「大変じゃん、鈴木に見つかる前に連絡しないと」
「まあ、とりあえずおれは奴の会社に何度か連絡を入れて、ユキヤからの連絡を待つよ」
ヒロは、この期に及んで、沢田に電話をしようにも鈴木達がユキヤのところに向かっている事実がない。 確証がなければ警察は動かない。 どうしたらいいのか・・ただ焦りだけが心に渦巻く。
「おれは、とりあえずP介に電話を入れて相談してみるよ」
「ああ、何か動きがあったり分かったことがあったら連絡する」
「奴らの懐具合を考えると・・鈴木達が今すぐ金沢に向かっているようには思えないけどな」
「そう願うぜ」
金沢のS×K▲O建設電話番号をメモして、電話を切ったヒロはP介に電話を入れた。
「おい、さっきしんじから電話があって、ユキヤが金沢にいることが分かったってよ。それに鈴木にもユキヤの居場所が知られてしまって、『気をつけろって』伝えたいんだけど、事情があって直ぐにユキヤと連絡がとれないらしいんだ」
「それで、ユキヤ本当にあぶないのか?」
「それが分かんないんだ・・鈴木が金沢に向かっているのかどうかが、どうしたらいいかな」
「そうだなぁー、今はどうにもなぁー」
「しんじも、待つって言うし」
「やはり、今はユキヤと連絡がつくのを待つしかないな」
意外に、冷静なP介の言葉に、焦ってもどうにもならない心の乱れが落ち着く気がした。 だが時間がたつと、まさかと思う気持ちがどこかでちくりと心を刺す。
*
あっちこちで金集めをしながらシャコタン車は、埼玉を出発して信州を通り五日目の夕方、金沢市内に入った。 電話帳で住所を確かめると、ユキヤのいる建設会社に向かった。 何度か迷いながら会社までたどり着いた。 会社の入り口の前に車を止めると結構大きな建物を見上げた。 夕方の会社の入り口はひっきりなしに様々な従業員が出入りしている。
ユキヤの顔が見たい。期待がふくらみ、腕の筋肉が盛り上がる。震える拳に何年かぶりで会う野郎の顔が浮かんでは消える。
鈴木がぶつぶつと念仏を唱えるように話し出した。
(やっと、あの時の恨みが果たせる・・あの時、体育館の裏で、喧嘩の練習だからって、何度もおれの腹をなぐりやがって・・けりを入れられた時に前のめりになって倒れた、その時いつも首にぶら下げていた、お守りが外れて落ちた。 そしたらユキヤの奴『なんじゃこれ・・こんなもの何のやくにもたたねぇよ』って笑いながら持ってるライターで燃やしやがった。
・・あれはなぁーあのお守りは、小学生の時に死んだ親父からもらったもんだ、貧乏なおれら家族の、ただ一つの家族を繋ぐものだったんだ。貧乏なおれたちをあったかくしてくれるものだったんだよ、分かるかユキヤーよ)
鈴木の体は汗ばみ、目が血走ってきた。
「鈴木・・落ち着けよ、奴は逃げも隠れもしねーよ、いずれちゃらちゃらした顔であらわれるさー」
「兄貴、なんかーこう体を止めようとしても震えがとまらねぇんで」
「鈴木落ち着け、出入りが多くなってきたぞ、まあ・・集中してみてな、おれが入り口まで行って従業員に聞いてみるからよ」
鈴木の血走った目は、入り口に穴があくかと思えるほど鋭く光っていた。 車を降りた星川が会社から出てきた若い従業員に近づいた。 星川は優しそうな顔をつくった。
「あのー、湯沢ユキヤ君はここにいますか?」
出てきた、髪を短く刈り上げた肩幅の広い男は、せわしげに煙草を吸いながら。
「しらねえなー」
素っ気ない返事をして、街に消えていった。次に出てきた汚れた作業服に身を包んだ三十代くらいの毛の濃い髭面の男に聞いた。
「あのー湯沢ユキヤ君は、この会社にいますか?」
「あっ、あーあーユキヤな、そんな奴いたな」
「これから、彼に会えますかね?」
「奴は、何日か会社にはもどらねぇな‥離れた現場に行ってるって言ってたな」
「どこですか? 分かりますか?」
髭面の男は面倒くさそうな顔をして「中に入って、事務所に聞いてみれば分かんじゃねえ」と言い放つと早く酒が欲しいというような顔をして明かりがチラチラしだした街の方に消えていった。星川は、素っ気なくぶっきらぼうな返事しか返ってこない奴等に、何度聞いても無駄なような空虚さを感じた。そして車に戻ると。
「おい、いることは分かった。でもよー、今どこにいるかは分からねぇ、電話した方がはやいな。まずは電話だ」
二人はいったん郊外のモーテルに移動すると、星川はS×K▲O建設に電話を入れた。
「もしもし、S×K▲O建設ですか? そちらにおります湯沢ユキヤ君をお願いします?」
「はい・・ただいま湯沢は外に出ておりまして、帰ってくるのは明後日のの夕方になります」
「ああそうですか。 現場はどこですか? 急いでいるので」
「そうですか、ちょっとお待ち下さい・・・・あー現場は、○○町の倉庫の建築現場です」
「近くまで行けば分かりますか?」
「大きい建物ですから行けば直ぐに分かりますよ」
星川は電話を切ると。
「鈴木よ、奴の居場所が分かったよ、でもよ、もう奴はねぐらに戻っているだろう・・まあ、とりあえず今日のところは中止だ・・いいな」
血走った鈴木の目が、化け物と見間違えるほどにつり上がり、そして星川をにらんだ。
「鈴木よ、お前の気持ちは分かる。分かる・・落ち着いて考えろ、もっと拳に恨みを蓄えて、奴を追い詰めて思い知らせてやる方法をな」
鈴木は「はっと」した、兄貴の言うことは絶対だ (奴に、今はまだ何も知らない奴にもっと恐怖を与えてやる)二人は、無口になって黙々とビールを飲み始めた。
*
ユキヤの家に電話してから二日、しんじはまだ連絡がつかないユキヤへの心配が日を追う毎に膨れてくる。 しんじは居ても立ってもいられなくなって、ユキヤの会社の方にまた連絡した。
「もしもし、S×K▲O建設さんですか? そちらにおります湯沢ユキヤ君をお願いします?」
「あー、はい・・・・湯沢は外に出ております。帰ってくるのは明後日、現場は、港の方○○町の倉庫です」
「あー、はい」
「あのね、さっきもお話ししましたよね・・あなたさっきの人でしょう。 同じことをなんべんも言わせないでくださいよ」
「・・・・すみません・・・・ありがとうございました」
「それでは帰ってきましたら、直ぐに03-***-25**の××まで電話するように言付けしていただけますでしょうか」
「分かりました、帰ったら伝えます」
しんじは電話を切った。 (おれより先に電話した奴がいる。鈴木だ) しんじの鼓動は大きくなった。 胸騒ぎがする・・どうしようか。 今夜か明日には鈴木達に見つかってしまう。 しんじは、どうしようものない怒りを拳にのせて机に叩きつけた。
*
星川は口についたビールの泡を吹き飛ばすと、鈴木を見た。
「お前、明日ユキヤに会ったらどうするんだ」
「ずーとおれは、ユキヤに会える日を楽しみにしていたんだ・・まずあの時の悔しさを全部返してやりますよ」
にたにたしながら話す鈴木をみて、星川の喉がごくりと動いた。
「その次は?」
「へへ・・痛みに耐えるユキヤにさらに痛みを与えるんです、次は奴が自分で自分が嫌になるようなことをしてやりますよ」
「お前もなかなか考えてんだな」
鈴木はビールを飲み干して、グラスを持つ手が震えて涙声になっていった。
「おれは、この日をずーっと待ってたんですよ」
近くのごみ箱を蹴り上げるとゴミ箱はベットの淵にぶつかって鈍い音がしてかけた。
「お、お、おれは、兄貴に会うまでは何にもいいことなんて無かったのさ、金がなくて腐った家、ずーっと使いっ走りで、喧嘩の練習台で、いつもどこか怪我してあざができていて、悔しくて、クラスの奴らからも馬鹿にされて、おれって何だったのか、ゴミのように扱われて・・」
目は涙で溢れて体が小刻みに震えてきた。
「そんな気持ちの時、たった一人、兄貴だけがおれの話を聞いてくれて、一人前に扱ってくれて・・・・そしてこんなに優しくしてくれて・・・・兄貴だけですよ、ひっく」
大粒の涙が鈴木の頬を流れ落ちた。鈴木の脳裏には、劣悪な環境で暮らしていた頃のことが一気に蘇ってきた。
鈴木は小学校に上がる頃まで、港の河口近くにあった漁師の番屋のような家に、家族五人がひしめき合って暮らしていた。 その日の食べるものにも苦労し、落ちていた魚を鳥より先に拾って食べた。
衣類といえば漁師達の家族の着古しに頼っていた。 そのうち何人かの他人が出入りし誰が家族か分からなくなった。
それから番屋の取り壊しもあって、市内の薄汚い地区の四畳半と六畳の二間続きの傾いた薄汚れた長屋に移った。 いつも酒浸りの隣のじいさん。 いつも男を連れ込んでいる年増女。 いつも大声でわめき立て建物を壊す暴力的な彫り物の入った男。 見つかれば髪をかきむしられ害虫のように追いかけてくる婆々ー。 心がいつもトゲが生えたようにささくれだっていた。
おやじがどこで知り合ったかわからない男について仕事するようになってちょっと暮らしは良くなった。 そして家族で卵焼きの夕食を食べたときには温かな気持ちになった。
小学校に入って三年生になっても、ひらがなも書けない、簡単な足し算もできない、三年生になた時、教育愛にあこがれた若い女先生が、警戒しながら短い会話で近づいてきた、優しそうできれいな女先生は、見るからにうわべだけの優しさが前面にあった、しばらくすると徐々に目がつり上がって早々にさじを投げた。
それから間もなく親父が死んだ。そして、後に続くように二つ下の妹も死んだ。 突然の腹痛で近くの病院に行ったが、首をひねる医者の前で、気違いのように苦しみはじめ、何を言っているのかもわからずに、ただただ腹の痛みにのたうち回り、やがて診断が出ないままに死んだ。 医者は盲腸が手遅れになったんだろうよ言っていた。 そして一年すると働きに出ていた母が無理をしたのか体を壊して動けなくなった。
小学校の高学年になって、いつも切れる自分がいた。 切れれば、みんな腫れ物にでも触るようになり、ほっておかれるようになった。 誰からも無視されることに、初めて居心地の良さを感じた。 そんな発見も短い間に破壊された。 しんじが転校してきたからだ。 おれを殴りやがった。 その時の恐怖は忘れない、仲間がいるしんじにはどう転んでもかなわなかった。 それから、おれの奴らへのへつらいの行動は始まった。
中学にあがると周りにへつらい、きげんをとるようになった。 おれはいつも家へ帰ると、あの汚ねぇ共同の便所で泣いた、糞の盛り上がった肥だめを跨ぎながら泣いた。 泣きながら何度も壁を殴りつけた。 そしてあの婆々ーや彫り物男が来て、ぎゃーぎゃーわめいていた俺の頭にげんこつをたたき込んだ。
「鈴木よー、もうーいいよ。 それも今日までだ、明日には終わるよ」
星川の声に我に返った鈴木は、はじめて自分を人間扱いしてくれた兄貴に、涙であふれた眼差しを向けた。
「何もかも兄貴のおかげです。 ありがとーございます。 おれを馬鹿にしたあの田舎の奴らへの復讐は数年かかりました・・」
鈴木は、ちょっと感慨深げに天井を見上げると。
「少しずつですが、どうにか恨みを晴らすことができました」
鈴木の声は震えていた。
「・・ちょっとまだ心残りはあるけど・・こんなおれのために一緒にいてくれた・・兄貴・・あ、り、がとう・・ございました」
鈴木は、感極まって涙が滝のように流れ落ちた。
「鈴木、あのしんじは、おれに任せな・・おれがお前に変わって叩きのめしてやっからよー」
「大丈夫です・・今度やるときはドジは踏みませんから・・もう少し時間をかけて奴はそのうちやりますよ」
「分かった・・でもよ、お前がやられたら必ずおれが出ていくからな」
「分かりました、その時はよろしく」
星川はみぎの頬をつり上げて、鈴木の答えを受けた。
*
しんじは、気持ちを落ち着けるとヒロに電話を入れた。ヒロは留守でいなかった。次にP介に電話を入れた。
「もしもしP介? 今、ユキヤのいる会社に電話入れて奴に連絡とろうとしたら、おれが電話する前に鈴木達が電話していたみたいで、もしかしたユキヤは、今夜か明日には奴に出会うかもよ・・ほんでよーどうーしたらいい?」
「ちょっと待て、ユキヤが鈴木達に見つかったてことだな」
「そうそう、奴等にやられるぞー」
「ユキヤはまだ何も気づいていないんだな」
「そうだ」
「知らせる方法はないのか?」
「ない・・・・会社の人に行ってもらうしかないな」
「それだ・・会社の人に事情を話して行ってもらおう」
「どう電話したらいいいんだよ」
「よしおれがやってやる」
P介はしんじから詳しく、会社や現場のことを聞くと、会社に電話しはじめた。すでに夕方の七時をまわっている。誰か電話に出ることを願いながらP介はダイヤルを回した。
ぷるるるる、ぷるるる‥十回ほどコールした後、若い男が電話に出た。
「はい、S×K▲O建設です」
不機嫌な声だ。
「もしもし、S×K▲O建設さんですか、わたしそちらで働いております湯沢ユキヤ君の友人ですが、彼について少しお願いたいことがあって電話しました」
「あーはい・・なんですか、もう時間が過ぎているんですので、込み入ったことでなければ明日お願いします」
「あー、はい‥実は、東京からある人物が湯沢君に危害を加えようとして、そちらに行っているのですが、どうも今夜か明日には危害を加えそうなんで。 なんとか彼に連絡を取って助けたいのですが」「そんな、わざわざ東京からだなんて、今時そんなことあるんですか、中高校生じゃないんですから、考えすぎじゃないですか。 ‥こっちは忙しいんですよ、たまたま今は忘れ物を取りに戻ってきたところでねぇー」
「すみません、信じられないようなことだと思いますが本当のことなんです‥ねらわれているんです」
「どうせ明日には湯沢は戻ってくるので、その時でいいでしょう」
「もしかしたら、その時では遅いような気がするんです」
「そんな、見ず知らずのあなたに言われたからって、それに、ただ気がするだけではねぇ、私もそんなに暇じゃないんですよ。 明日にしましょう。明日に」
「待ってください。 もしかした大怪我をするかも知れないんですよ」
「そんな‥それじゃ犯罪じゃないですか‥まずは明日にしましょ」
「それでは‥おそいんですよ」
P介が必死で訴えても、取り合ってくれない相手は、すでに電話を切ってしまった。
電話を切った建設会社の主任は、明日は自分が建築確認のために現場に行くのでそのついでにユキヤに確認すればいいという気持ちもあり、緊迫感はなかった。
*
次の日主任は昼頃現場に着いた、車を降りると現場の重機の陰の奥に湯沢を確認しながらも、他の仕事の打ち合わせに急いだ。
その時を鈴木達も現場の近くに着いた。 現場には建築中の建物を取り巻くようにいろいろな資材が積まれ機材も持ち込まれていた。 二人は現場を取り巻くように一周すると、少し離れた道路一本外れた場所に車を止めた。 鈴木が一人、車を降りると現場がよく見える近くの塀の陰に立った。 外装がほぼ完成した現場を入口から顔半分出して見つめていると、中から昼時の合図が聞こえ、幾人かの作業員が建物の外に出てきた。 それぞれが日陰で弁当をひろげて食べ始めたり、近くの食堂をめざしていなくなる者もいた。 現場から最後のあたりにユキヤが出てきた。 日焼けして浅黒い顔は健康そのものだ。 鈴木は足下の血が一気に全身に上昇するのが分かった。 (ユキヤ、やっと会えたな、おれはこの時をずーっとずーっと待っていたんだ‥) うひぃうひぃうひぃ、鈴木は喉の奥から不思議な声を絞り出した。鈴木は意を決したように、塀の陰からユキヤに向かって両手を挙げて近寄った。
「やあー、ユキヤー‥よー元気だったか」
ユキヤは突然現れた男を思い出せずに、しばらく鈴木を見ていた。そして目を細めると笑い顔になって。
「なーんだ、鈴木かよ、誰かと思ったぜ‥なぜここに、ここよく分かったなぁ、どうしたんだ急に」
「しばらくだなぁ‥こっちの方に来たから、お前どうしてるかっておもってなぁ」
「会社の方に聞いたんだ‥しっかしお前、なんか成長したなぁ」
(いいお世話だ、誰だって中学生の頃から見れば成長するさぁ)
「鈴木・・お前、今何やってんの?」
屈託がない。過去の彼とは全く異なる話し方をして、ユキヤが話しかけてくる。
「今は仕事やめて、次の仕事を探しているところだよ」
「大変だな‥それでお前今はどこに住んでいるの?」
「おれか、まあーあちこちだよ」
「ふーん」
ユキヤは鈴木が無職で住むところが定まっていないことが分かると、若干警戒感が心に芽生えた。
「ユキヤ、しばらくぶりだし昼飯でも一緒に食べないか」
「ああーいいよ、ちょっと待ってな、近くの食堂いこうぜー」
ユキヤは、座って弁当を食べている同僚に、友達がしばらくぶりで尋ねてきたから、近くの食堂に行くことを告げると、道具を腰から外して身軽になった。近くにいる会社の仲間に「じゃ行ってくるよ」と軽く手を挙げると、鈴木を伴って食堂のある方に向かった。 敷地内を出ると鈴木が前を歩くユキヤに声をかけた
「おれ車で来てるから、ちょっとドライブしながら、どこか食べるところに行こうぜ」
ユキヤはちょっと考えたが、まあそんなに離れてないところのレストランが浮かんで鈴木の車に乗ることにした。 通りの角を曲がると、派手なシャコタンが止まっている。 ユキヤは車を見て嫌な予感がした。 車に近づいて助手席のドアを開けると、後部座席に誰かが乗っている。
「ユキヤ、この人おれのダチ、一緒に来てるんだよ‥まあ気にしないでくれ」
「ああーこんにちは、はじめまして」
中にいる星川が、笑顔作って、挨拶を返した。三人乗った車が走り出すと、ユキヤが「そこ右‥次を左‥」案内しだした。 鈴木はその通りに走っていたが広めの道路に出ると、突然ユキヤの首に紐のような物が巻き付けられ絞り上げられた。
「うふっ・・うふっ・・う、う、う・・」
意識が薄れそうになると、紐が少しゆるんで息ができるようになった。ユキヤは紐と首の間に指を挟み、紐を引っ張ってぜーぜーしながら、解こうとしたが力はゆるむ気配はない。
「何するんだ・・」
手足をばたつかせて、もがくとまた首の紐がきつくなった。
「今から、お前に落とし前をつけてもらうからよ」
車は急に左折すると、人気のない空き地に入った。 車が停止すると鈴木の平手が顔面に飛んできた、鼻をおもいきっり打たれて鼻血が噴き出してやけにすーすーする。 口の中に血液の鉄分の味が広がった。
「おめよー、何でおれがお前の前にあらわれたか分かるか」
ユキヤは動こうとすると、首が絞まる。 身動きができないまま覆い被さってきた鈴木の顔見ると、先ほどまでとはまるっきり別人のような凶暴な顔に変わっている。
「ユキヤよ、体育館の裏で喧嘩の練習をしたこと覚えてるか?」
ユキヤは散った桜が体育館の裏に舞い散って、雪のように真っ白になった光景を思い出した。首を立てに振ってうなずくと、またおもいっきり平手が飛んできた。 鼻血を腕で拭き上げると、開いたボディーに拳が入った。 胃が内臓にめり込んだような痛みを感じて体を折り曲げようとしたら首の紐が食い込んで、喉の奥から苦い胃液がふきだし、口から唾液が糸を引いて流れ落ちた。
鈴木が車から降りると、ユキヤを引きづり下ろした。 星川も降りると四つん這いになるユキヤの背中に木刀が炸裂した、激痛に草の上に倒れると鈴木の硬い靴の先がみぞおちにめり込んだ。ユキヤは口から胃液を垂れ流しながらそのまま草の上を転がった。
「ユキヤ‥だらしねぇーぞ‥あの時に鍛えたはずじゃねぇか‥どうしたんだよお」
鈴木は、激痛に身悶えして転げ回るユキヤを笑い顔をつくって小動物をいたぶって楽しむかのような目で見ている。
「ユキヤよー、じゃーそろそろ落とし前をつけてもらおうか‥」
ユキヤは、残る全身の力を振り絞って、草の上を転げ回りながら対抗しようとしたが膝立ちが精一杯だった。 その姿に鈴木のけりが右の横腹にヒットした。 ユキヤはそのまま仰向けに一回転して、草の上にうつ伏せに崩れ落ちた。
「だらしねーな」
星川が、小さな板をユキヤに投げ飛ばした。鈴木はその板をユキヤの側に寄せると。「ユキヤよ目を開けろよ、そのまま眠られちゃ困るんだよ‥目を開けろよ、だから顔なんか殴ってねーじゃんか」
鈴木はユキヤの右の拳を靴で思いっきり踏んづけた。ユキヤは詰まるような苦しい声をあげて腕を引っ込めた。その右肩に星川が木刀を振り下ろした。 ばきっと骨が折れる音がして右腕がだらりと草原に垂れ下がった。鈴木はゆっくりとユキヤの顔を見ながらだらりとした腕を掴むと、ユキヤの手を開き板の上にのせた。
「ユキヤよしっかり見てな‥」
鈴木は靴を脱いで足裏で開いた手の甲を押さえると、ユキヤの小指に、数日前に農家の小屋から持ち出した錆び付いて、刃のかけたボロボロの包丁をつき立てた。
「ユキヤ‥こわいか‥こわいか‥おれもあの時怖かったぜ」
ユキヤの必死な目が、大きく開かれている。 その時、鈴木は包丁の背にむけて、脱いだ靴のかかとを思いっきりたたきつけた。 ユキヤは自分の指にぼろぼろの包丁が骨にあたる鈍い音ともに深くくい入ったのを見た、 肩から全身にむけて大きな電気が流れ激痛がはしった、ような激痛に絶叫を発した。 と同時に燃えるような圧迫感がせまり、内臓をドライバーで刺され体が破裂して一気に感覚が無くなった。
まだ切り落とせない包丁の背を鈴木が、さらに大声を上げて。
「これは、教室で金が無くなったときにおれのせいにした礼だ」
と叫ぶと靴のかかとをまた包丁の背にたたきつけた。その瞬間に、ユキヤは目を大きく開いて二・三度体を震わせて気を失った。
まだ指はわずかについている。 鈴木はまだ叫ぶ。
「これは、おれの髪をめちゃくちゃに切った礼だ」
また靴を振り下ろした。 そして。
「これはよー、万引きしたとき置き去りにした礼だ」
と叫ぶとユキヤの指がぽろりと落ちた。 それからしばらくすると、ユキヤは激痛で目が覚めた、右腕が無くなったようで感覚が全くない、しかも体が熱く、心臓のどくんどくんという鼓動が全身を揺らす。 体が引きちぎられて、半分が無くなったかのような感覚があり、どこで激痛がするのか分からない。
見ると、無くなった指の根本が紐できつく縛られている。ユキヤは思わず無くなった指を探した。 血だらけになった板の上には指がない。 指を探しながら草むらに目を這わせると、鈴木達がたき火をしている。 (そうだ‥鈴木におれの指を切り落とされたんだ‥) 急速に意識が蘇ってきた。
「おー目覚めたか‥ユキヤよーなかなか目を覚まさないから、死んだかと思ったぜ‥心配したんだぜ‥」
ユキヤは鈴木の異常な行動に、またその場に倒れ込んだ。 深呼吸する度に鼻をつくような嫌な臭いが鼻孔を刺激する。
「ユキヤよーまたねんねかよー‥ちょっとこっち来て、一緒にたき火にあたろうぜ、肉がいい具合に焼けているからよ」
ユキヤは、力を振り絞ると。
「す、ず、きー、すん、だ、か」
「おお‥そうこなくちゃ、ユキヤ、口がきけるじゃねーか」
「わる、かった‥」
「今更謝られてもなぁー、もう指切っちゃたしなぁー」
ユキヤは、鈴木の恨みに、復讐に、耐えた、耐えるしかなかった。そしてどうしたらいいか分からずにいるのも事実だった。
「ユキヤよ、お前これで終わりだと思うなよ‥」
ユキヤは、これからどうなるんだと‥さらに途方に暮れた。ユキヤの目はたき火でゆれる二人の方を焦点が合わない目で見つめようとした。奥に座っている星川が。
「鈴木そろそろいいぞー」
「よーぉ、できたか‥ユキヤ、じゃーお前に食ってもらおうか」
針金で止められた黒こげの三センチほどのウィンナーソーセージのようなものを顔の前につるされた。
「さー、昼飯だ‥食えよ」
ユキヤはその黒こげをよく見ると、爪のあとらしき線が見える‥一気に背筋が凍った。 (小指だ、おれの指だ、狂ってる鈴木は完全に狂ってる‥) じっと見てると、鈴木の拳が横っ腹に飛んできた。
「食えねぇのか‥食えよ、お前は食わなきゃならねんだよ」
ユキヤは口を閉じて、口を動く腕で口を覆った。すかさず星川が後ろに回って、腕が押さえた。無防備になった口に鈴木は、さっきの包丁をあてて口を開こうとした。 歯に包丁が当たってがりがりと歯茎を擦る音がする。 同時に太い指で鼻を思い切り摘まれた、少しの時間で息が苦しくなる。 空気を求めて閉じた口を瞬時、開けた。その隙間に包丁が口に差し込まれた。
「お前なぁーあの時おれのお守りを焼いたろう‥あれは大事な物だったのよ」
ユキヤは、体育館の裏の出来事を思い出した。 目の前が真っ暗になってきた。 それでも包丁は口にぎりぎりと挟まれて、唇の右の付け根が数センチ切れてひりひりと痛み出した。
「ほら、早く開けって‥こうしてお前の大事な物も焼いてやったぜ‥早く呑みこんじまえよ」
ユキヤは包丁が唇を裂く痛さに、血だらけの口を開いた。 その瞬間に口の中に黒こげのかたまりを押し込まれた。 鈴木はユキヤの下あごを思い切り持ち上げた。 ユキヤの口が閉じて生暖かい焦げ臭い味が口の中に広がった。 しばらく鈴木はあごを持ち上げている。 ユキヤの喉が動いて飲み込みを確認するためだ。 ユキヤ苦しくなり大きな異物を嫌悪感と共に飲み込んだ。 鈴木の力が徐々に弱まり、解放された。
ユキヤは前のめりになると草原に倒れ込んで、首を持ち上げて、げーげー吐き出そうと胃や食道を動かそうとしたが、むなしくも胃液かよだれか、唇の血だまりか何だか分からないものがたれ落ちてきた。 涙が流れて、全身の力が抜けて、そしてまた鼻水と涙が頬を流れ落ちていく。 その姿を鈴木はしばらく薄笑いを浮かべてじーっと見ていた。
「ユキヤよぉ、指が無くて唇が耳まで避けた顔を持って、これから毎日生きていけや‥あの時の代償だよ‥ユキヤよー」
「鈴木もういいか・・帰るぞ」
鈴木は星川に促されて、何かを確かめるようにユキヤを何度か振り向き、そして車に乗り込んだ。
* さすが S(しんじ)
P介が電話してから二日後の夕方、しんじから電話があった。
「ヒロ、おれだ、しんじだ。 今、金沢のユキヤのところに来てんだけど、やられたよ」
「あー遅かったか‥」
しんじは電話の向こうで、辛いのか苦しいのか、ぐっと声が詰まっている。
「かなりひどいもんだぜ‥口が裂けて、小指が切り落とされて、肩の骨が砕かれているんだ」
しんじの一つ一つ区切るような言葉にその凄惨さが伝わってきて、ヒロは背筋が寒くなるのを感じた。
「ユキヤ、話できるのか‥」
「あーあー口が裂けてて辛そうだけどな」
「警察に届けるのか?」
「いいや‥‥ユキヤは事件にしたくないらしい‥まあユキヤにもその他に知られたくないことがいろいろあるようだからな」
「ふーん、それでもさ、小指切り落とされてるんだろう」
「あーおれも進めたんだが‥奴は『警察はごめんだ』の一点張りさ、まあーおれには何となく分かるような気がするけどな‥たぶんお前には分からねーよな」
「ふーん」
「お前、いつ東京に戻るのよ」
「まあ、こっちのユキヤの様子を見て、一段落したら戻ろうと思っているよ」
「ああー分かった。帰ったら電話くれよ・・・・あっ、ちょっとちょっと、しんじ‥次は、またお前がねらわれるんじゃねぇのか?」
「ううん‥そうだと思うよ」
ヒロは、至って冷静に答えるしんじにどきっとした。 (仲間が悲惨な目にあって、次は自分だと分かっていても、これほど落ち着いていられるものだろうか? やはり頭になる奴は、自分の役割や割り切り方をこれほどまでに意識できるものなのだろうか?) ヒロはある偶然から以前に会ったことのある筋ものの人が言った『親分のためならいつでも死ねる』と言い切った言葉を思い出した。 今のしんじがその男の住む世界にどこか似ているような気がした。
それからP介に電話した。P介は、ユキヤが指が落とされた事が、ことさらショックだったらしく、あれほど会社の人に話したのに最後まで詰められなかったことを後悔していた。 「もう一度電話していれば」と何度も自分に言い聞かせていた。
*
赤提灯がともる、小さな居酒屋でP介とヒロが、小さなテーブルを囲んで顔を寄せて深刻な話しをしている。 ここは、しんじの仕事の都合で十時という遅い時間に待ち合わせをしたしんじ指定の店だ。 しんじの勤め先からそう離れていない六〇歳代の親父さんが一人で切り盛りしている店で、しんじと何か関係がある店なのだろう。
「P介、しんじに今まで分かっていること言わなきゃならないんじゃねぇ」
「そうだよな‥実際しんじも狙われて、ユキヤも襲われたんだからな」
「もう‥巻き込まれてるよなぁ‥それにしんじだからこそ分かる新しい事実もあるんじゃねぇ」
「そうだよな、昔も今もしんじは、おれらと違って渦中にいるんだよな、知る権利があるな」
「やはり、話そう‥その方がおれたちも楽だしな」
店の親父さんはビールも持ってきてくれたり、焼鳥やお新香も出してくれたり、結構気を遣ってくれた。 そのたびに礼を言うと、親父さんが「しんじから、いつも腹減っている学生だからいっぱい食わしてやってくれ」って言われていると言って笑って去っていった。 十時過ぎにしんじが入ってきた。
「よー待たせたな‥親父さんいろいろありがとうございます。 今日は申し訳ありません」
しんじは律儀にも店の親父さんに深々とお礼をすると、P介とヒロの座っているテーブルに腰を下ろした。 親父さんがグラスとビールとイカ焼きののった皿を持ってくると、小さく礼をすると受け取り、手しゃくでビールをついで一気に飲み干した。 しんじがビールのグラスを置くと。いきなり言い出した。
「ユキヤは鈴木が狂ってるって言ってたよ‥それに、奴を壊したのはおれたちだったのかも‥とも言っていたなぁ」
唐突な話に、もう何時間も話し込んでいるような、一気に時間がが短縮されたような錯覚に陥った。
「確かに、指を切り落とすなんて」
「奴はユキヤの指を落とすとき、昔の恨みを一つずつ叫んだらしいぞ」
「ユキヤの怪我の具合はどうなのよ」
「どうもこうも、小指はさびたぼろぼろの包丁で落とされてたから、切り口がぎざぎざで、さらに切り直してきれいに短くなってな。口も右の端っこが一センチばかり広がって、それを縫いつめて般若のようになっちまって、肩の骨が砕けてビスで固定して、サイボーグだよ・・・・まあ命ばかりもあって良かったてとこかな‥」
「ああ‥もっと悪いことは自分の焼いた小指を食べてしまったショックがいまだにあって、当たり前にものを食べられないことかな‥」
それを聴いているP介とヒロの顔は、みるみる真っ青に変わっていく。聞いているだけでぼろぼろの包丁で指を切られているユキヤの顔が目に浮かんでくる。 さらに黒こげになった小指を無理矢理口に入れられている姿に吐き気をもよおす。 そして二人の表情はますます暗くなっていく。
「ユキヤは、やはり警察には届けないのか」
「ユキヤは草の上で倒れて、痛みに耐えながら、鈴木の恨みが今は分かるって言ってたぜ、そして『おれは奴の恨みを受けなければならない』って言ってその意味では結構、落ち着いた顔してたぜ」
「でもさ、その恨みって指と引き替えにするほどのことなのか?」
「昔仲間だった二人の間のことだから、おおよそは分かっても、詳しくは分かかんねーな、でも、ユキヤは鈴木にかなりひどいことやったって、当時よく自慢げに言っていたことはよくあった、それを仲間内で笑いものにしてさらに馬鹿にしていたような気がするんだ」
「そのひどいことが鈴木を狂わせている原点か」
「あーそれから、ユキヤがこんなことも言っていたな‥『おれの切り落とされた指は、奴の恨みの詰まった指になってそれを焼いて償って、おれが指を消化できれば許されるかもな』って、おれにはその辺のことはどうもよく分からなっかたよ」
「指を焼いて‥消化って言っても‥自分の指を食ったりできないよ」
「焼かれて、ソーセージの燻製のようになったのをな」
「しかも過去の自分の許しを請うためにか」
ヒロとP介は、焼け焦げた指を飲み込むユキヤを思うと、それまで食べたり飲んだりしていたものが急に喉から奥に入っていかなくなって、胃液が逆流してくるような感覚を感じた。
「‥‥‥」
三人はしばらく無言で、ヒロはじっと目の前にあるイカ焼きを見ていたら、何だかイカが小指に見えてきて、そっと目線を外した。
「しんじ‥奴らまた来るんじゃねぇ」
「ああ分かってる‥親方に言って明日からしばらく違う店に住み込んで手伝うことにしたよ」
「そうか、それでも十分に気をつけてくれよ‥特にもよー。 もう一人の方の星川には」
「分かってるよ‥鈴木より奴の方だよ、奴は不気味だからな」
P介がグラスに残ったビールを一気に飲み干すと。
「奴ら、もう都内にいるかな」
「あんな事件おこしたから‥足がつかないか毎日新聞なんか見て隠れてんじゃないかな」
「奴らそんなに注意深いかな」
「奴らじゃ無くても、捕まるかどうかの瀬戸際にいる奴らは、警戒心が強くなるもんだぜ」
「確かにそうだよな」
「だから、しばらくは動かないと考えた方がいい‥たぶん動き出すとすれば二・三週間後だな」
ヒロは、しんじが襲われるかも知れないときに、鈴木の動機は分かるが行動が異常であることは確かだ。 その動機によって起こしてきた放火はあまりにも無謀で常軌を逸っしていることについて知って欲しいと思った。
鈴木はしんじやユキヤだけの昔の仲間をおとしめようとしているだけではない、結果として沢山の同じクラスだった仲間の家が数年に渡って被害にあったのだ、もしかすると死者が出ていたかも知れないのだ。 異常さが重罪であることの意味を、恨みという自分勝手な事情にすり替えて欲しくなかった。
「しんじ、実は鈴木達は数年前から、田舎の中学時代の仲間だった友達の家に火をつけてきたんだ‥しんじの家やユキヤの家は放火の最後で、ごく最近のことだよ」
しんじの顔が何を言い出すのかと言う顔をしてヒロを見た。
「おれとP介が学生でこっちに来てから、あることをきっかけに調べて分かったことなんだ‥そして、鈴木が星川と一緒だってことも、つい半年くらい前、平川のところの自動車修理工場に奴等が修理に来て分かったことさ、鈴木は何年か放火を繰り返していくうちにどうして自分がこんなになったかを思い詰めて、それがお前達の家に火をつけることだけでは物足りなくなって、お礼参りにつながったような気がするんだ」
しんじは目を見開き、納得したような表情をした。 するとP介が。
「‥しんじ、沢田って覚えているか」
「ああー覚えている」
「沢田が今、田舎で警察官をしているんだ、沢田とひょんなことからヒロが会って、放火事件に繋がって、それから沢田も協力しているんだ」
納得したしんじの顔を確認しながらヒロが続けた。
「しんじ、君をおれたちが探したのはその真相を確かなものにしたいと思ったからなんだ」
「なるほど‥だから警察に追われている分けか。 それに奴等の動機が何だったかということだろう。 大体分かったよ、鈴木が誰の家に放火したか、何となく分かるよ‥たぶん当時おれたちの仲間でなくても、鈴木のことを馬鹿にして笑った奴だろうな‥あの頃おれたちの仲間内でも鈴木は、人間扱いじゃなかったし、それを見ていた周りも、奴に対して馬鹿にした態度とってたからな‥あの当時周りには奴の側に立つ奴なんていやしなかったからな」
ヒロは貧しくて孤独な鈴木が見えてきたように思った、仲間だと思っていた奴等から突き放されて、関係ない周りからも人間扱いされず、いつも悪者にされ、とうてい居場所のない学校は地獄ようで、それでも歯を食いしばって気に入られようと馬鹿なことまで演じていたのだろう。
「鈴木はかわいそうなやつだな‥でもだからって、いつか見返してやるじゃなくていつか制裁を加えてやるに変わって、だからって放火と指切りは許されるものじゃないよ」
しんじが、ため息をつくと、ビールを飲み込んだ。
「益々、奴を野放しにはできねぇな、奴を捕まえるチャンスは、今度おれの所に来る時だな、ヒロ、沢田に連絡してくれ、おれの近くを張れってな」
「沢田に会ったら、ユキヤのことも言ってやるよ、あそこまでやることねぇ。ユキヤはこれから醜い顔と欠けた指で世間を生きて行かなきゃならねんだぞ」
しんじは、拳を強く握りなおすとグラスが大きく震えてカタカタ音が響いた。
「しんじ、鈴木は間違いなく、重い罪で捕まる‥一生塀の中で暮らすことになるはずだ、だから早まるなよ」
「分かってる、今のおれは昔のような馬鹿じゃねぇから‥安心しな」
しんじは憑き物が落ちたような顔して、イカをほおばると喉を鳴らしてビールを飲んだ
「おれは、ヒロやP介と今のような話をしながら、向こう側じゃなくこっち側の人間になってつき合いたかったのよ、これからもよろしくつき合ってくれよな、今のおれと」
ヒロはしんじの言葉に大きくうなずいた。
「当たり前じゃないか、おれたちは今、仲間だよ‥なあP介」
「ああそうだよ、しんじ」
その後、しんじは自分に降りかかる凶状に身をさらしながら日々を過ごすことになる。 一応沢田には、鈴木がしんじの所に現れるだろうことを伝えた。 沢田がどう動くかは一般人には分からない。
*
小料理屋での打ち合わせから五日後、しんじはいつも通りに仕事をして、変わらぬ生活をしている。
鈴木達は一つところに長居せず、警戒を怠りなく。 その周囲への注意も尋常ではなかった。 軽のライトバンを盗んだ。 服装も工事業者のような上着を着て移動した。 相変わらず足がつかない程度の恐喝をして食いつないでいた。
最近夜は、しんじの店から五・六十メートルくらい離れたところでマンホールを開け、赤いコーンを路上に立てて下水道工事業者を装った。
この五日間、なじみの客がいつもと同じ店に同じ時間に現れる。 しんじもいつもと同じ時間に店に入り、同じ時間に帰る。しんじの寝床は店の親父さんのところらしくて親父さんと行動が一緒だ。 奴を襲うには、奴が何かの用で店から出てきて一人になったところを襲うしかない。
「兄貴、こんな状態じゃ奴を襲撃できねぇよ、奴の顔を見る度に体が震えるんでぇー」
「まあぁそんなに焦るな、考えればいい案が浮かんでくるもんさ」
「おれは、その考えるってことができねえからな、兄貴は偉いよ、放火のからくりもうまく考えたし」
狭い車の中で鈴木と星川は、交代で監視して思案していた。 菓子パンをかじり、ジュースを飲みながらの監視は五日を過ぎていた。 そして、ユキヤを襲ってからは一ヶ月が過ぎようとしていた。
「鈴木、いい案が浮かんだぜ」
鈴木の顔に打ち上げ花火が上がり、視界が広がる。
「ど、どうするんですか?」
「この五日間で奴が店から出てきたのは、近くのスナックに出前した時だけだ・・出前すれば外に出てくる」
「なるほど、その出前はいつですか」
「だからよー俺たちが出前をするんだよ、近所の誰かになって寿司を注文するんだ」
「なるほど、出前なら必ず奴がやってきますね」
「どうだ名案だろう」
「おれは何をしたらいいですか」
「お前はな、とにかく奴をやることだけ考えな」
「ありがとうございます」
*
廃墟の工場跡地に止めた車のボンネットの上で、星川は思案していた。 今度こそ、しんじとのけりをつけたい。 スナックから、寿司の注文をよそおうて電話すれば店の外に出てくる。 星川は注文する文言をメモしてみた。 小さな用紙に釘のように角張った字で「スナック、ノックターンで飲んでいる山田です。 寿司の上を二つお願いします」といつも工事の真似事をしている近くのライトグリーンのスナックのドアを思い出して書き上げた。
出来上がったメモを鈴木に振って見せた。
「鈴木、このメモをな、あの通りでお前が誰かに頼むのよ‥それができたら後は待つだけだぜ‥‥あー忘れるところだった、お前顔隠すために注文のメモをお願いするときにはマスクをつけるのを忘れるなよ」
心得た鈴木はにんまりと笑って、車に乗り込んだ。そして鈴木と星川は最後の戦いの準備を整えて、今夜もしんじの店の見えるいつものところに車を止めた。いつものようにカラーコーンをたて工事を装った。 今夜もスナック、ノックターンからは明かりが漏れている。
「しんじも今夜でおしまいだ‥」
「しんじ‥しんじお前には結構よくしてもらったぜ、やはりよーお前は頭だったよ‥子分がおれをいじめたとき、止めてくれたのもお前だが、笑っていたのもお前だよ‥もっと子分には厳しくしねーとな‥あめーんだよ‥その分はおれがやっておいたよしんじさんよー」
ぶつぶつと呪文のようにつぶやくと鈴木は数日にもおよぶ見張りも忘れてしまった。 鈴木は、車を降りて通りを歩いてきた三十代と思われる小太りの女に目星をつけた。
「も、も、も、申し訳ありませんが‥」
声をかけられた女は、びっくりしてあわてて鈴木から離れた。 すかさず鈴木は距離を縮めると。
「あ、あ、あのー、頼みがあるんですが‥」
女は自分が声をかけられていることを意識した。 そして鈴木の顔を見ると、急いで逃げるようにその場から駆けだした。女の後ろ姿を見て鈴木は「この野郎‥」蔑まれたようで後ろ姿に思わず叫んだ。 あわてて星川が鈴木をなだめた。
静かになった鈴木が小さな声「ちくしょう。なんなんだよう」悔しさを口に出すと、メモを握りつぶしそうな勢いを、すんでのところで星川に腕を強く押さえられた。
「焦っちゃだめだぜ‥」
鈴木は耐えながら無言で、うなずくと、またメモを託す相手を物色しだした。
小太りのおばちゃんが、片足を引きずるようにしてゆっくり歩いてきた。鈴木は手紙を車に打ち付けると、おばちゃんに駆け寄った。
「こ、こ、こんばんは‥あのー」「はい、こんばんは」おばちゃんはいたって愛想がいい。
「あ、あ、あのー、実はこのメモをあそこの「田菊」っていう店の方に渡して欲しいんですが」
それを聴いたおばちゃんは、怪訝そうな顔をして。
「自分で渡したらいいじゃないか、あんた健康そうじゃ無いか‥わたしゃ足が悪くてねぇ‥ほら、このとおりだよ」
「あ、あ、あそこに見えてる『田菊』ですよ‥近いじゃないですか」
「あのね、わたしゃそんなに暇じゃないよ‥急いでるの、そこの薬屋に行く所なんだよ‥なんで足の悪いわたしが遠くまで行かなきゃならないの」
鈴木は、人にものを頼むなんてしたことがない、いつもめんどくさくなって、どうでもよくなって、乱暴に声が大きくなっていた。そんな鈴木は徐々に息が荒くなってきて、いらいらして、膝がちいさく震えがくるのが分かった。そしてついに。
「う、うるせー、ババー」
大声を浴びた。おばさんは、一瞬ひるんだが、ますます勢いづいて。
「誰があんたのためになんかに行くもんか、自分で行け、自分で‥」
おばちゃんは捨て台詞を吐くと、足を引きずりながらさっさとその場を離れた。鈴木はその後ろ姿に怒りをぶつけた。
「くそババー‥ばかやろう」
あきれ顔の星川が、またなだめた。
「鈴木よー‥もう少しだから、腹立つのは分かるけど、ちょっと耐えろよ、今夜しんじと決着つけるんだから」
「でもよーあんなババーに頭下げてよ‥くそー」
鈴木は、しぶしぶ、しわになったメモを伸ばすと、通りを歩いてくる人間を捜し始めた。 もう誰でも良かった、このメモを持って行ってくれればと思うようになっていた。しばらくすると若いボーとしたお兄ちゃんが歩いてきた。(こいつだ。 こいつだったら何でもいうことを聞きそうだ。 こいつにちょっと脅しをかけりゃ、すぐにやるだろう)そう思うと声をかけた。
「こ、こ、こんばんは‥」「はい」お兄ちゃんは無表情だった。
「よー、このメモをあそこの『田菊』っていう店に渡してくれ」
それを聴いたお兄ちゃんは相変わらず無表情だ、かえって鈴木の方が力が抜けていきそうになる。 どこかおかしいと思いながらお兄ちゃんの顔をのぞくと、お兄ちゃんはさっとメモをひったくると。
「渡したらいいんですね‥‥やりましょう‥かまいませんよ‥じゃ」
彼は、そそくさと「田菊」に向かって歩いていく。 鈴木は隣に立った星川に。
「うまくやったじゃん、やればできるじゃねーか」
二人は、田菊に近づいていくお兄ちゃんの後ろ姿を見ながら、準備に取りかかった。 もう少しだ狭い座席で、ユキヤの指を落とした包丁を隠し持って、バットを右手に待つといよいよと言うこともあって、鈴木は息づかいが荒くなってきて体が絶え間なく震える。 全身から汗が吹き出す。 バットを持つ手がごりごりというユキヤの指を切り落としたときの感触を思い出して、さらに小刻みにふるえる。
メモを持ったお兄ちゃんは、ちょっと精神を病んでいる。 外出は家族から放浪癖があるので止められ、何でも「はい」というように訓練されている。本当はこんな時間の外出は許されていない。 そんなお兄ちゃんは、街で声をかけられるのも滅多にない。 彼は鈴木に言われたとおり、メモを「田菊」の前に積まれた空のビールケースの中に押し込んだ。
鈴木達はお兄ちゃんが「田菊」の近くで立ち止まって何かをしているのを確かめると安心した。 暗がりのためによく見えないのだ。 お兄ちゃんが店にかかる暖簾に頭をくぐすしぐさを確認できるだけだった。 メモが渡ったものと思いこんでしまった。 二人は、さらにやる気を高めはじめ、手足を動かして準備に入った。
*
ヒロとP介はしんじへ激励と様子見をかねて顔を出すことにして、ネオンや赤提灯がちらちらと灯り始めたころ、夕食も兼ねて例の小料理屋へ向かっていた。
と突然通りに止められた工事の車の中から「ばかやろう‥」と物騒な声が聞こえてきた。 P介はとっさに立ち止まり薄暗がりの中で前方を見ると、数歩前を歩くヒロの腕を突然つかむとそのまま電柱の陰に連れて行った。
「鈴木だぞ」
ヒロは目をこらして見つめた。
「どうするよ、しんじに知らせなきゃ」
「ここで待とう、いい考えがうかばねぇ」
ヒロは、鈴木達の向こうに見える「田菊」の明かりを見つめた。
* 出 前
「田菊」のカウンターで、「歌声のハワイアンさんからの注文の出前、特上、二人前あがったよ」親方の声がした。 しんじは、寿司の注文を配達用の桶に移すと、配達先がスナック「歌声えのハワイアン」であることを確かめて「行ってきます」桶を持って店を出た。
準備に忙しい鈴木と星川の車の側を、さっきの婆さんが嫌な顔をして足を引きずって通り過ぎた。 鈴木達はその一瞬に「田菊」から白衣のしんじが出てきたのを確認した。 鈴木は顔を上げて「田菊」の方を見つめていた座席から、車を降りた。 星川も続いて車を降りた。星川はどうも時間が早いと思っていた
「鈴木、まだだぞ」と言うが早いか鈴木は、スナック「ノックターン」に近づいてくるしんじに向かって、目をつり上げ、バットを振りかざして、隠している包丁を強く握りしめた。
もうすぐだと秒刻みで鈴木の筋肉は爆発寸前までふくれあがる。 ところがしんじは数十メートル手前のスナックの前で突然止まった。
鈴木の筋肉は一瞬の迷いを経て、待ちきれずに爆発した
しんじはバットを振り上げて走り来る得体の知れない奴をとらえると身構えた。 星川は鈴木の背中に「それじゃ、かなわねぇー‥やめろー」と叫びながらも鈴木の後を追った。
しんじと鈴木の距離が五メートルになったとき、鈴木はバットを振り上げながら、勢いのまましんじに迫った。 しんじはバットが振り下ろされる軌道を確かめると右によけながら、持っていた桶を鈴木の顔に向かって突き出した。バットが空をきり、たたらを踏んだ鈴木の顔面に桶がめり込んで、寿司のねたが吹き飛んだ。 桶の棒が鈴木の顔面を突き刺さした。顔面から血を滴らせながら。
「よー、しんじ‥今夜血祭りに上げてやるよ、ユキヤと同じようにな‥うへぇうへぇ」
「やめろ‥鈴木、ユキヤの指はかえってこねぇ‥もーすんだろうが」
「うるせー‥うへぇうへぇ」
顔面を出血で真っ赤に染めて、不気味な笑いをたたえている。 しんじは折れた桶の棒を持ったまま、血だらけの悪魔のような鈴木に対峙した。 後ろから星川が走って来るのが見えた。 こいつを倒しても星川がくる。しんじの背筋が凍った。 鈴木はその動きを見逃さず、バットを投げつけてきた。 しんじはその回転してくるバットを桶の棒で受け止めると、回転するバットの根本が桶の棒を押さえる手の甲をしたたかに叩いた。
間髪入れずに鈴木が包丁を構えて飛び込んできた。 腹の真ん中を左から突かれる感触があった。 しんじは鈴木の背中に、しびれる手に力を込めて思い切り桶の棒を振り下ろした。 すると鈴木が息をする音なのか笑い声なのか、妙な音を立てて後ろに崩れ落ちた。 尻餅をついた鈴木は血だらけの顔をしんじに向けて。
「どうだ‥しんじ、しんじ‥痛てぇーか、泣けよ、しんじ」
しんじは、一瞬ショック状態で、言葉がでなかったが、痛みはなかった。星川が後ろからチェーンを振り回しはじめた。 体勢を立て直すとしんじは星川に身構えた。 星川が叫んだ。
「鈴木、よく見ろ、刺さってねぇーよ‥折れてるぞ」
鈴木の包丁は無惨にも、途中で折れて道に転がっていた。 言われて気がついた鈴木が。 振り絞るような声で。
「なぜだよ、なぜなんだよ・・」
鈴木は、折れた包丁をまた握りしめて起き上がると、体を揺らしながら前屈みになってしんじに迫った。 星川がしんじを顎で差しながら。
「奴の腹には何か仕込まれているぜー」
鈴木が折れた包丁をまたしんじに向かって突き出した。 しんじは、折れた桶の棒で前屈みになる鈴木の右の頬をしたたか叩き上げた。 鈴木はその場で口から血を吹き飛ばしながら仰向けに倒れた。 倒れゆく鈴木を目で追っていた星川が、しんじに対峙すると、隙をうかがって口数が少なくなった、しんじも棒を握り直すと身構えた。
その時「田菊」の方から二人の背広の影が飛び出してきた。 その瞬間、星川はチェーンをしんじの膝のあたり目がけて飛ばした。 チェーンは蛇のようにうねりながら、しんじに向かって飛んできた。 しんじの膝に巻き付くとしんじを道に倒した。 どうにか腹ばいに倒れたしんじは膝にチェーンが絡まったままの姿勢で次の攻撃に身構えると、星川を見た。 しかし星川は背中を見せて、車に向かって走り出していた。
ヒロとP介も走り出した。 走り出そうとした星川の車の閉まろうとするドアを押さえつけたP介が星川の車に引きずられている。 ヒロはしんじの足に巻き付いたチェーンを外しにかかった。
「うーっ」と吐く息なのか激痛に耐えかねる声なのか、異様な状況で顔面から血を滴らせた鈴木が、道でのたうち回っている。 直ぐに刑事が走り寄って、しんじを抱き起こすと、ヒロとチェーンを外しにかかった。
もう一人の刑事が鈴木に近づこうとした時、ドア枠を握ったP介を引きずりながら車はタイヤをきしませた。 車のライトがしんじのいる方に突っ込んできた。 星川の乗ったライトバンだ。 ライトバンはP介を振り払い間一髪でしんじをかすめ、通り過ぎると同時に鈴木を思い切り轢き、跳ね飛ばした。 車はさらにスピードを上げて走り去った。 鈴木の体は、道の上で跳ね上がりそれから一回転してアスファルトに転がった。
しんじは刑事の腕を振り切って、鈴木にかけよりすがりついていた。
「鈴木、鈴木、目を開けろ‥鈴木‥大丈夫か」
ヒロとP介も鈴木の顔のぞき込んだ。目を静かに開けた鈴木は、しんじを見て笑ったように見えた。やがて、夜の街は高らかなサイレンとともに赤い回転灯に照らされて血の色を一層濃くした。その後、小さな人だかりから鈴木としんじと刑事を乗せて救急車はどこかに走り去った。
*
事件が起きて数日後、しんじとP介とヒロは、先日の赤提灯の居酒屋で顔をつき合わせていた。
しんじは、事件を振り返って、しみじみ言った。
「あの夜、もし刑事やお前らが来なくてあのままだったら、おれは死んでたろうな‥」
P介とヒロはある域を超えた死闘に、鈴木の恨みの深さと星川の不気味さを感じた。
「しんじ、しかし腹は大丈夫だったのか‥」
「あー、刺されたときは、やられたと思ったよ、でもよ奴の包丁が錆びてぼろぼろだったのが良かったのか、腹に新聞紙巻いてたので助かったのか‥よく分かんねーけどな。」
「なに、新聞紙巻いてたのか」
「ああ・・奴に狙われてるって分かってたから、毎日さらしの間に厚めに新聞紙を巻くようにしてたんだ‥ユキヤのこと考えたら、いずれ刃物持って来るだろうなって思っていたからな」
「すげーなー‥」
「それより、手の方が腫れてな‥包丁が持てなくて困っているのよ」
「鈴木はどうなってのよ」
「鈴木は、救急車で近くの病院に運ばれて、車に轢かれた腿が両足骨折でおれが打ち込んだ桶の棒で顔面を七針縫うことになって、それに全身打撲でまだ警察付きで入院中‥いずれ田舎の警察へ移して取り調べだってよ」
「星川の方はどうなったのよ」
「警察の話だと、奴は本当は中国籍らしいから、たぶん日本にいる中国人にかくまわれているんじゃないかってな。もし本国に戻ったら捕まえようがないって言ってたよ」
「奴は逃げたんだ、すげーなー」
しんじは、現時点で警察から聞いた鈴木の様子をかいつまんで話をした。
「奴は、中学時代のことで一方的に恨みをもったようだ、中には一概に鈴木に対してあまりにもひどい仕打ちもあったようだ。しかしだからといって放火するのは大きな罪だ。 放火は、星川に放火の仕方を教えられながら、田舎の恨みのある友達の家を一人一人時間をかけて放火して恨みをはらしたらしい。 ほとんどの放火は、鈴木と星川がここ数年、冬に実行して、最後の放火を終えたところで、車の事故を起こしてしまったらしい」
「そして、星川は鈴木にとって、自分のことを分かってくれるただ一人の信頼できる兄貴分だったようだ。 しかしあの夜、その信頼できる兄貴にひかれた」
そこまで言うとしんじは、昔を思い出すような遠い目をして、ふーとため息をつくと、吐き出すように次の言葉を押し出した。
「あいつはかわいそうな奴で‥どこにも行き場が無くて‥必死でおれたちの仲間に入ろうとして‥それでも嫌われてな‥あの頃もっとおれがかわいがってやれればなぁ」
それを聞いたヒロが、ぐっと胸をなで下ろすように。
「無理だよ、無理だと思うよ、だってまだあの当時は中学生だぞ‥みんな、無意識にも必死で周りに好かれようとか、悪く思われないようにしようとか、はじかれないようにしようとか、精一杯突っ張っていようとか、そんな中学生なりにぎりぎりで生きていた頃のことだったんだから‥」
「それもそうだよな、まだ中学生だったもんな‥」
「だからって、あの頃の恨みに、指を切り落とすなんて‥」
しんじがしみじみと言い出した。
「おい‥あれからおれたち、何が変わった?」
じっとしていたP介が思い出したように言い始めた。
「忘れることを加速させたとか‥」
「ゆるせる気持ちを数センチ広げたとか‥」
ヒロがつづけた。
「ちっちゃかったおれたちが、良いとも悪いともいえないけど、ちょっとだけくさい大人になったとか‥」
「鈴木って・・言い方を変えると、奴の中では時間はあの時のままだったんだ。いつまでもかわらねえ骨董品のような奴なのかもなぁ」
三人は、しばらく動けなかった、その夜の酒はけっこう飲んだが、なぜか酔えなかった。
それぞれの雲の下で 1 見返お吉 @h-hiroaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。それぞれの雲の下で 1の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます