第5話 踏みにじられて
貯金箱 (葉月と森)
最近朝晩冷える、早めに出したこたつに入った。温かくなって、ついうとうとして、だらしなく開いた口からよだれをこぼして、背もたれにしていたベットから崩れ落ちかけたとき、部屋のドアが強くノックされた。 ヒロはぼうーっとする頭を振り目を覚ました。 テレビがつきっぱなしで、時計を見ると九時を回っている。 誰かと思ってドアを開けると、森と見知らぬ女性が立っていた。
「夜分遅くわりぃ」
「うーん、そんなこと無いよ・・どうしたの?」
「この人、篠原葉月さん」
森のかげに、顔の半分を隠した肩ぐらいでカットした髪を、右手でかき上げた葉月さんがいた。
「初めまして」
「うう、こちらこそ・・とりあえず汚いところですが中へどうぞ」
招き入れると、こたつに座った。 ヒロは森が話し出すのじっと待った。 二人はお互いにちらりと見てから、ゆっくりと森が話し始めた。
「実はさぁ、ちょっと前に彼女から電話をもらってね・・ヒロには前に話したことがあるけど、有川が一緒に暮らしている人がいるって言ったけど、彼女がその人なんだよ」
森はとても言いにくそうで、いつもの彼の話し方ではなかった。 でもヒロは決してスマートではないが、誠実に話す森が嫌いではない。
*
森のゆっくりと話はじめた。
「八時頃に彼女のアパートに、久しぶりに有川が転がり込んで来たようなんだ。 彼が入ってきてまもなく、やくざのような男が続けて二人が入ってきて、いきなり有川を殴り倒した。 そこで彼女はびっくりして『やめてください』と叫んだけど、彼らは無視して、有川を部屋から引きずり出したらしい」
森はそこまで話して、下を向く葉月の顔を見て続けた。
「そして部屋の外から、二・三回、殴るのか蹴るのか分からないけど鈍い音がして、
『いつまで生徒会長ずらしてんだよ・・こら、金出せよ』
と怖い声がして、次に有川の震える声が聞こえて、必死で威厳を保とうとしているような声で。
『鈴木君やめなさい・・君たちにはそれなりに報酬を払ったじゃないか』
『うるせーよ、おれたちに犯罪を押しつけて自分は知らん顔か』
次の瞬間、また鈍い音がして蹴られたか、殴られたかしたんだと思う。
『あー、選挙だ・・ゴミを焼けだ・・よくもいい加減なことばかり命令してくれたよなぁー、きたねーよ』
『報酬が足りないんだったら、社長に言って上乗せするから・・』
『あー、足りないねー、もっと出せよ』
『鈴木君、僕を殴ったら、社長に話せないじゃないか』
『あー、そうだ、その通りだよ・・でも顔じゃねえからさ・・』
この会話をアパートの中で聞いていた彼女は、有川が脅されていることに気づき、急いで生活に必要なめぼしいものをバックに放り込むと、こっそりアパートの裏窓から出て僕の所に電話をしてきたわけさ、それでさ、彼女のアパートは東西線の落合にあるわけで、そこからここが歩くと近いのでね・・・・」
*
ヒロはこの展開に、衝撃を受け、しばらく声が出なかった。
「あー‥と・と・とりあえず分かったよ、大変でしたね。 あのーそれでやくざの様な人って、どんな人たちでしたか」
彼女は、口に手を当てるとじっと息を止めるような仕草をして、小さく息を吐くと話し始めた。
「鼻に絆創膏を張っていました。 そう一人は絆創膏を張ってたんです。もう一人は目の細い人でした、あと、あとは・・思い出せません・・」
森君が助け船を出して。
「あまりのショックで、今すぐには思い出せないよーでもよ・・有川が鈴木と呼んだんだから奴だよ」
ヒロも相づちを打った。
「ぜったいそうだよ、鈴木と星川って奴だよ」
「お前、なんでもう一人が星川って分かるわけ?」
「まあ、詳しい話は後にして、彼女をどうするかだよ」
二人の話を聞いていた葉月が怪訝そうな顔をして。
「あなたたちはどうして、あの二人を知っているの? どんな人たちなの?」
「おれたちは、たまたま知ってしまったわけで・・奴等は暴走族だね・・まあ長くなるので詳しい話は森に聞いてください・・さあ葉月さんどうする? 誰か近くに頼れる人がいますか」
彼女はゆっくり目を閉じて首を振る。
「まず、とりあえず葉月さんのアパートにもどりましょう」
ヒロのこの言葉に森があわてて。
「ヒロ、お前まだ奴等がいたらどうするのさ」
「そうしたらまたここに戻ってきて明日行きましょう。 部屋がどうなっているのか心配ですからね」
葉月が頷いた。
三人は、ヒロのアパートからそれほど離れていない西武線の落合にある葉月のアパートに向かった。 程なく近辺に着いた。 場所を確認してまず森がゆっくり近づいた。 周辺の路上に奴らの車はない。 アパートの窓が見える。 明かりがついている・・有川がいるんじゃないかと疑った。 部屋のすぐ前で聞き耳をたてる。 じっとして中の様子を窺ったが人のいる気配はない。 葉月に入るように進めると、もう一度周囲を確かめた。
葉月は部屋に入ると、小さな悲鳴をあげた。 引き出しや小物入れがひっくり返され、すごい散らかりようだった。 ピンクのカーテンだけが女性の部屋であることをうかがわせる唯一のものであるかのように静かに揺れていた。
葉月はひととおり部屋を見渡すと膝から崩れるように座り込んだ。 涙をいっぱいためて、膝の前に割れた豚の貯金箱のかけらが散乱していた。 森が後ろから葉月の華奢な肩にそっと手をおいた。
「葉月・・二・三日どこかに・・・・」
森に振り向いた葉月は、流れ落ちる涙で頬をぬらしながら。
「森君、わたしを泊めてくれる‥」
「もちろん・・・・俺が面倒見る」
森の振り絞るような声だった。 彼女は振り向いて森の腕にしがみつき倒れ込んだ。 彼はこうなることへの覚悟をもうずっと前から持っていたのだろう。 ヒロにはこの場面で何も言うことはなかった。 ただ二人に背を向けてつぶやいた。 (森よ、似合わないよ・・)。
ヒロは葉月に、このタイミングで触れてはいけないことのように思えたが、でも、はっきりさせておかなければならない気がして、二人の後ろから声をかけた。
「有川は今どこにいるんだろうか?」
二人が入り口近くにいたヒロの方を振り向いた。そして、葉月は思ったよりはっきりとした声で。
「あの人は、大塚にある自分の部屋に行ったと思います」
「・・この部屋をめちゃくちゃにしたのは彼よ・・これが彼よ」
彼女は割れた豚の貯金箱を両手に握りしめていた。
「有川は、また君のところに来る可能性があるんだよね?」
「来るでしょうね・・にたにたしながら、愚かないい訳を吹きながら」
ヒロはもうそれ以上聞く必要はなかった。
「とりあえず有川が戻ってくる前に、当面必要な物と絶対の持って行かなければならない物を何かにまとめましょう」
彼女の荷物は保険証や大事な手紙など、一時間もしないうちに大きめのバックにまとまった。最後に彼女の黄緑の歯ブラシをバックに入れた。時計は十一時をまわっていた。
高田馬場駅で二人を見送った、寒さの増した外気がさらに心も体も冷やし芯から寒さを感じる夜だった。 彼らは森の東中野のアパートに行くことになる。 森がヒロに「明日また連絡する」と言いながら片手をあげて、葉月をいたわるようにして改札をくぐる姿は、熱く、強く生きている姿を浮き彫りにしているように見えた。
*
次の日の朝、電話口の向こうで勢いのある森の声を聞いた。
「今日彼女のアパート引き払うので手伝って欲しい」
「ああ、分かったP介とよっちゃんにも連絡して手伝ってもらうよ」
「よろしく頼む。 昨夜、彼女と話したよ。有川は自分の都合のいい時だけ彼女のアパートに来ていたみたいだな、彼女は奴にかなりの金を吸い取られていたみたいだよ。 だから、もう彼と縁を切りたいと思っていたみたいで、昨夜のあの豚の貯金箱を奴が割ったことが最後の彼女の気持ちを決定づけたようだよ。 貯金箱にどんな意味があったのかは分からないけどな。 ・・そして、彼女は遅れるけど、大学へ行って夢をかなえたいと言っていたよ」
「自分の置かれている状況の中で精一杯努力している人をいいように弄んで・・なんて野郎だ・・許せん」
「そう、許せないな、日暮里の△△さんのところに出入りしているようだけど、鈴木達に命令した選挙妨害や放火なんかはものすごい犯罪だよな・・おれは彼女に早く分かれることを進めたし、できれば俺が応援するって言ったよ」
ヒロは、森の葉月への好意はこんな状況だからじゃない、決して同情だけで決意している訳じゃない、もともと彼女のことがずーっと好きだったんだと確信している。
「じゃ、十時に彼女のアパートに行くよ」
「よろしく、じゃ十時に」
*
彼女のアパートは、もともと荷物は少なかったが、もう昼頃にはほぼかたずけ終わった。 棚の隙間から化学の入試問題集が出てきた。 彼女はその問題集を大事に袋に入れると段ボールの中にしまった。
彼女の運転するレンタルしたライトバンは、森とわずかな彼女の荷物を積んで、森のアパートに向かった。
残されたおれたち三人は、高田馬場の駅前で食堂に入った、やけに辛い中華料理を食べた。 ヒロはここに至る森と葉月の話を二人にした。
二人とも、有川への怒りと葉月さんへの同情を隠さなかった。 そしてP介が。
「直ぐに転居してよかった、これでまた有川に感づかれるような事になったら大変だからな・・しかし、有川ってこんなに悪い奴になりさがったか」
数日後、森から連絡があった。あれから特に有川に感づかれている気配もなくどうにか平穏にもどり、葉月さんもとりあえず仕事を辞め、明るさが戻って楽しい日々を過ごしていると言うことだった。ヒロはいまだに疑問に思っていることを聞いた。
「お前さ、葉月さんに泊めてと言われて、間髪入れずすぐに返事してたよなぁ。 あまりに早かったんだけどどうして? それから、豚の貯金箱の意味って何なの。 それから・・」
「お前まだあんのかよー」
「うん・・・・なんか野暮な質問みたいだな・・やめるよ・・いつか笑って言える時がきたら教えてくれ」
落ちゆく者
有川が葉月に部屋に転がり込み、鈴木たちから殴られたあの夜。
殴られながら有川は、金を渡すからと、なまくらな返事を繰り返して、彼女に金をせびろうとした。 だが、部屋に戻っても彼女は居ない、金を探して部屋のあらゆる所を引っかきまわした。 しかし、金目の物はなかった。 最後に豚の貯金箱をぶちこわして中にあった十万円近い小銭をかき集めて彼らに進呈した。 しかし、彼らは今までの経緯から有川はもっと金を持っているはずだと踏んで奴を拉致して、奴のアパートへ向かった。
「この金で、もう許してくれよ」
「何言ってるんだ有川さん。お前が女から奪った百玉をかき集めたこんなはした金。 お前がこれしか持っていないわけがないぜ・・これは女の金だ、お前の金が欲しいんだよおれたちは」
「俺は持ってないよ」
「嘘をつけ馬鹿野郎が、お前があの時、俺らに渡したまとまった金はどうしたんだ・・こらっ」
「あれは事務所から受け取った金で、俺のじゃないから、必要経費だったんだよ」
「うんじゃ、また必要経費とやらをくれよ」
「事務所に行かなきゃ無いよ」
「じゃ・・このまま事務所にいこうぜ」
「事務所には人がいるよ、絶対出せるわけないよ」
「やれよ、俺らは金が必要なんだよ」
三人の載った車は日暮里の△△事務所に着いた。後部座席に座っている有川に星川が凍るような声で囁いた。
「有川、取ってこいよ・・行ってこいよ、逃げるんじゃないぞ、逃げたらあの選挙妨害やゴミ集積所の放火を警察にばらすからな・・俺たちは刑務所に入るくらい、なんてこと無いからさ」
有川はどこか隙があったら逃走しようと狙っていたのだが、この冷たい凍るような言葉に取ってくるしか生き延びる道はないと意識せざる終えなかった。 事務所の金庫には△△さんがいつも何かあったらと非常時のために五十万円近い金が置いてある。
有川は車のドアを開けると事務所に向かってゆっくりと歩き出した。 事務所を見上げると明かりが見える。 まずい事務所に誰かが残っている。 まず中に入ってから考えよう。 さっき蹴られた脇腹に鈍痛が走る、痛みをかばうように体を折り曲げるて階段を登りはじめた。
十時をまわっているのに事務所には、まだ後輩の佐藤君が残っていた。 ドアを開けると勤務時間が過ぎているのに元気な声が返ってきた。
「あー有川さん。お疲れ様です・・何か忘れ物ですか?」
「ああ、ちょっと今度の企画で気になった事があったから、確認しにね」
「僕、もう帰ろうかと思っていたところだったんですよ。 どうも最後の詰めがしっくりいかなくて、さっき終わったばかりなんで」
(よかった) いらぬ策をこうじなくていい、まあラッキーと思うしかない。
「ご苦労さん、もう帰っていいよ・・僕の方で戸締まりはしておくから」
「ありがとうございます。 それじゃお先に失礼します」
佐藤はほっとしたような表情をみせて、てきぱきと帰り支度をすると、事務所を出て行った。 有川は、彼の階段を降りる音がしなくなるの待った。 そして隣の応接室に入った。
ソファーの後ろの壁際に古い金庫がある。 ダイヤルナンバーは金庫の底に吸い付いているマグネットに書いてある。 以前たまたま応接室の前を通りかかってマグネットを隠そうとしている会計担当の後ろ姿を偶然にも見てしまったのだ。 あれから隠し場所が変わっていなければ金庫を開けることができる。
有川は早速金庫の底に指を這わせた。 堅くて平たい物に触れた。 爪で浮かせて引きずり出すと、三種類の数字と右・左などの文字が記されている。
有川は表示通りにダイヤルを右へ回し、左へ回した。 そして、手のひらをこすり合わせると、最後に鉄のノブを回した。 ガシャンと重い金属音がして扉が開いた。 中には書類や履歴書、通帳などの他に、五・六十万円が入った封筒があった。 有川は封筒を持ち上げて中を確認すると、丁寧に十万円ずつに分けられた一万円札が五束とバラで六枚あった。
札を目の前にして有川はこれからのことを計算した。 週に二日だけ経理の責任者が来る。奴が来るのは明後日だ。
(三日在る、明後日の朝までに金を元に戻しておけば) 何ということもない。 すると今拝借できるのは二十万円くらいだろうか。 そうだ二十万円くらいなら葉月が実家に送るために貯金している通帳にある。 彼女にいつものようにせびれば何とかなる。 足りなかったら友達十人に二万円ずつ借りればいい。 有川は安易な計算をして二束をかすめ取った。 そして残りの金を封筒に入れ直して金庫にもどし、扉を閉めた。 遠くから階段を登ってくる音がした。 急いで応接室を出ると事務室のデスクに近くの書類を手にとって腰掛けた。入ってきたのは、さっき出て行ったばかりの佐藤君だった。
「佐藤君どうしたんだ」
「駅に向かったら雨が降ってきて」
「嫌な雨だね」
「いつも傘を置いているので、取りに戻ってきました」
佐藤はデスクの下から傘を取ると。
「今度は本当にお疲れ様です。おさきします」
そう言うと、あっという間に事務所を出て行った。 一人になった有川は、どっと汗をかき我に返った。 急いで戸締まりをすると表に出た。 鈴木の待つ車に近づくとドアが開いた。
「遅かったじゃねぇか・・出入りがあったようだが、漏らしちゃいねぇだろうな」
「心配ないよ鈴木君、ここに二十万ある、さっきのじゃらせんと合わせると、三十万近くになるはずだ。今の俺にできることはこれぐらいだよ。まあ、あと五年もすれば百万円くらいは自由にできるようになっているよ。」
有川は金が用意できたことによって、以前の人を食ったような強気の態度に変わった。鈴木は星川と目で合図すると、有川から金を乱暴に掴み取ると車のドアを閉めた。車の窓ガラスが開いて、中から鈴木が手が伸びてきて有川の顔に平手が飛んだ。
「有川、ほざいてろ・・馬鹿が、百万手に入れる前にお前はおしまいだよ」
マフラーから地鳴りのするような音を出したと思ったら、車は勢いよく出て行った。
乱反射する車の尾灯を追う有川の額に雨の滴が流れ落ちた。
*
有川は次の日、事務所に出勤した。 昨夜顔を合わせた佐藤が挨拶してきた。 有川はろくに挨拶も返えさず、早速電話を取り上げると友達のダイヤルを回した。
「おはよう、有川だけど・・しばらくぶりだね、今日会えないかなぁ」
「悪い‥有川、今から大学行かなきゃならないんで‥ごめん‥また」
こんな調子で、やっと五人目で会う約束ができた。 その後も十人に電話を入れたが、忙しいとか、留守とかで思うように繋がらなかった。 これで金を借りられる友達は少なくなった。
やはり葉月をしゃぶるしかなさそうだな。 昼過ぎに、外回りという口実をつけて外出した。 池袋の喫茶店で友達に会うと早速、金の無心をしたが、結局借りることができたのは一万円だった。 時計をみると針は三時をさしていた。
昨夜、葉月の部屋をめちゃくちゃにした経緯があるから
(今日はちょっと早く彼女のアパートに行って、彼女が会社から帰ってくる前に、後片付けのふりをしたり、機嫌取りに夕食でも作ってやるか)
どこまでも勝手で都合のいい筋書きで有川は、落合の葉月のアパートに向かった。
いつもの調子で合い鍵を出すと鼻歌交じりでドアを開けた。 入って直ぐに在るはずの葉月のサンダルがない。 汚れた壁を隠すために貼ってあった常夏のポスターがはがされ、汚れた部分がむき出しになっていた。 (なんだ・・どうしたんだ)
かつて雑多に鍋やフライパン、お玉が並んでいたところを見ると、何も無く、ただ有川の飯椀とマグカップが寂しく並んでおかれていた。 マグカップに有川の箸と歯ブラシが突き立っていた。 住人からはじかれ、取り残された数少ない品は、葉月の中にある有川の存在のはかなさを表していた。
いつもは人を食ったような有川だが、信じて疑わなかったものに、裏切られたショックに大きな衝撃を受けていた。 (葉月がこの俺から離れるわけがない・・)有川は無意識に心の中で叫んでいた。 有川は焦った、しかし有川の心の中を占めいたのは、手を着けた事務所の金のことだった。 有川は葉月の行きそうな友達数件に電話を入れたが。 なにも収穫は無かった。
有川は、森にも葉月の所在を尋ねた。 有川はまだ不確実な未来を夢見ていて、今の信じがたい現実が、これからはじまる未来であることを受け入れられなかった。
二日後、会計担当は「何だか金が足りない・・」の一報を社長の△△さんに報告した。
その後会計担当はここ数日の最終の退社者や、朝の様子などを調べた。
午後、有川は近くの喫茶店で△△さんの前に座っていた。 有川は金を埋め合わせようと考えたが、埋め合わせることができなくなってからは、開き直り選挙や放火のことは△△さんも知っていることと高を括っていた。
「有川君、何があった?」
「ええ・・以前小細工で頼んだ奴らから脅されました」
「それで金を・・」
「はい」
「金庫は誰が開けた」
「以前見ていましたから・・」
△△さんは持っていた煙草の灰を落とすと眉間にしわを寄せた。
「・・・・有川君、君にはこれからもまだまだ手伝ってもらわなければならないと思っている。 この件を早く忘れるためにも一時姿を消してくれ・・福岡の友人のところに行ってもらうか」
有川はもう少し金を積んでことの処理をするものと思いこんでいただけに、都払いとは露程も考えていなかった。
「ええっ」
「明日出発してくれ、福岡には連絡を入れておく。 詳しくはこの名刺を見てくれ、中に入れておくから」
押し出された封筒を開けると。十万円と福岡の紹介者の名刺が見えた。しばらく声が出なかった。 暗い雨に打たれ乱反射する鈴木達の車が浮かんできた、また奴らは来る。
初めて心を支配し始めた何かが、有川の心に針のような痛みを与える、心臓をゆっくりと絞り上げるような吐き気は、何かにすがりたい叫びに変わっていく。
「分かりました・・行ってきます」
有川は (今、葉月に会いたい)と思った。 山の頂から崩れ落ち、苦しんだ高校生活、上京してからも晴れ晴れしたことのない日々、そしてこの自らの為体(ていたらく)に胸が押しつぶされる思いを抱いていた。
次の日、有川は大塚駅にいた。 これから九州に向かう、行って何をする。 何をすればいいんだ。 漠然とした不安に混乱していた。 電車がホームに滑り込んできた。 ボーとした頭で電車に乗った、池袋・目白を過ぎ、高田馬場のアナウンスが聞こえてきた。 葉月と何度この駅で会ったろうか。 この街を何回通っただろうか。
憔悴している彼女を励ましていたころは、嘘でも人のために何かをしているという実感があった。 あの葉月の笑い顔が俺の心を包んでくれた。 幸せだった。
電車が高田馬場に止まった。 ドアが開き乗り降りの人の動きがあった。 発車の笛が響くと同時に、ホームの向こう側に外回りの電車がゆっくりと停車しドアが開いた、ドアの側に肩までの髪を揺らして笑顔の葉月がいた、誰かと話している。 笑い顔が見える「葉月・・っ」有川は目の前にあるドアの窓ガラスを思い切り叩いて叫んだ。 有川の乗る電車が速度を増してホームから離れていく、葉月から離れていく・・彼女一人だけがなぜか真っ白な明かりの中に浮き上がって見える。
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