第2話  汚れた栄光





       汚れた栄光  夏




木漏れ日が、アスファルトに深く影を描きはじめた頃、ヒロは神保町の人でごった返す雑踏の中にいた。数冊の古本の入った鞄を抱えて大きな交差点を渡ろうとしていた。 通りの向こう側を見ると、どうも自分に手振ってる奴がいる。 奴はオーバーオールのジーンズと白いTシャツに身を包み、間の抜けた感じで、サングラスを鼻にのせて顔をかくしている。

 手のひらを反るように外側に三十五度ほど折り曲げて、腰をちょっと左に傾かせ、ポーズを作って分けの分からないアピールをしてくる。

 あの変な動きはしんちゃんだ、男女の識別が自分から難しくしている奴で、一緒にいることをはばかられる気持ちになる奴だ。ましてこんな場所では絶対会いたくない。 ヒロは手を振られている相手が、自分であることを周囲に悟られないように渋い顔をつくった。 無視を決め込んだが、まだ手を振ってくる。 信号が青になり、おれたちは交差点の真ん中で、それも至近距離ですれ違い、そのまま通り過ぎて行くはずだったが。 ウィルスと抗体が出会うかのように絶妙のタイミングで出合ってしまった。

 しんちゃんに誘われて喫茶店に入った。 しんちゃんはちょっと斜に構えて珈琲フロートを見つめて、ストローをフロートの上で小さく回すとグラスに滑り込ませた。

 奴と向かい合っていると「しゃっきとしろ」って怒鳴りたくなる。 絶えずいらいらしながらも我慢したが奴を見ていると急速にストレスがマックスに近づいていく。

 そんな気持ちをさらに我慢しながら、奴の話を聞いている。 奴は根掘り葉掘り今どんな生活をしているのか、しつこく聞いてくる。 そして、また珈琲フロートを見つめて、ストローを小さく回すとグラスの底に滑り込ませる。

「それよりお前・・その動きどうにかなんねぇ」

 目を上げてきっとにらむと「ふん」と鼻息荒く切り捨てる。

「お前、Iと仲いいんだって」

 突然の質問に、しんちゃんは、目を大きく見開いてびっくりした顔をした。

「ううん・・ちょっと前によっちゃんからの電話でIのこと聞かれたよ。なんかあるの」

「IだけじゃなくてK・G・Hのことも連絡取りたがっている奴がいるんだよ」

「わたし、中二の時は一組よ、G・Hって二組よ・・だけどさーあの頃の体育って男女別れてやったわよね、一・二組の男子だけ、女だけよ・・いやだったわー」

「ふーん」

「ねえーちょちょちょっと、誰、誰、誰が連絡取りたがっているの」

 また珈琲フロートを見つめて、ストローを回すとグラスに滑り込ませる。

「もう、かなり前のことだったから忘れたよ・・それよりお前、本当にその動きどうにかなんねぇ」

 また、さっきにも増してきつい目をして「ふん」と鼻息荒く切り捨てる。 そしてごくりと珈琲フロートを飲み込むと、気を取り直して話し出した。

「今度さ・・東京に出てきている何人かで集まって会を開く計画があるだ」

どうもしんちゃんは、ヒロが寂しい生活をしていると思いこんで、飲み会に誘おうとしてくれていたらしい。 ヒロはそんなしんちゃんの気持ちに応えることもなく、

「おれ、元気にしてっから・・まあ、みんなによろしく・・と言っといてくれ」

 ヒロは断った。しかし、さらに続く、しんちゃんの再三の誘いをヒロは断り続けたが、最後にはそのしつこさに負けて別れ際に電話番号を教えてしまった。



           原宿発


 路上で丸眼鏡をかけ、ロン毛の自称ジョンレノンが、器用に針金を曲げてネイムブローチを作って売っている。

 昨日から、田舎の雅人が東京に二泊三日で研修も兼ねて遊びに来ていた。 今日は雅人のリクエストでP介とよっちゃんとヒロの四人で原宿をぶらぶらすることになった。

 四人は、表参道を流れに身を任せて歩いていた。 肩と肩が触れあうくらいに混んでいる。

表通りを外れて裏通り(現在の竹下通り)に入ると、ちょっと昔の有名人が好んで住んでいたという古いアパートが建ち並んでいる。

 ヒロたちは表通りのガードレールに腰を下ろした。 ごった返す人通りの中で、グラビアから抜け出てきたようなひときわ目立つ女の娘が、長い髪を風よりも軽くしなやかに揺らして歩いている。

「ちょっと、あの娘いかすんじゃない」

 よっちゃんの声につられ三人が彼女を見つめる。 と同時に、どこから現れたのかわからない、痩せた黒服のハイエナが荒い鼻息をならして女の子に突撃していった。

「あー、あのサングラスをかけたやせっぽちのやろう・・あっ、声かけやがった」

「ナンパかなぁー」

 P介がすかさず

「あれは、スカウトだね」

 P介がじーっと行き先を見て、確かめた。

女の子はハイエナに二言三言いって、前をしっかりと向いて緩やかな坂を下っていった。美しい人だった。後ろ姿を見送ったおれたちの目は口を開けてうっとりとしていた。

 ハイエナは悔しそうに歯茎をむき出しにしてオーバーなアクションをしたが、次の瞬間には、人混みに隠れて、また次の餌物を物色しはじめた。今度はP介が独特の雰囲気をもった 娘を見つけた。

「おいっ、さっきの娘とすれ違った娘もすごいねー」

 よっちゃんがいち早く反応した。雅人とヒロもすかさず探した。

「またまた雑誌から抜け出してきたような子だ」

 口をついて声が出てしまった。雅人は口をぽかんと開けたままだ。

 片手をポケットにつっこみ、腰を押さえるようにして坂道を登ってくる。 無造作にとめたポニーテールときつめの目じりがエキゾチックな感じを醸し出している。

 また、すかさずハイエナがよだれを垂らさんばかりの顔で突撃していった。

「あー、また声かけやがった、どうせ今度もだめよ」

 また、女の子と二言三言いっていたが、次の瞬間手を振ると、ビルの影からカメラをもったハイエナの仲間が走ってやってきた。 通り沿いの木漏れ日が輝く木陰に移動すると、周りの人に声をかけて、撮影空間を確保してポーズをとった女の子に向けて何回かシャッターを切った。 今度は数件向こうのしゃれたカフェの入り口で銀板をキラキラさせながら何枚かシャッターを切った。

 おれたちは、ハイエナスカウトの一連の行動に見入ってしまった。 こんな風にして撮影された写真が、ストリートファションとして雑誌のグラビアを飾り、全国の本屋に並ぶ、そして我らの田舎の小さな書店の軒先にも並ぶ。

 ストリートファッションの雑誌が、こうしていとも簡単に撮影された一枚なんだと思うと・・雅人がすかさずつぶやいた。

「やはり、これが東京なんだーこれが原宿なんだなぁ」

 雑誌の発売日の次の日には、この道を似たようなファションの娘が現れる。発売される雑誌は、撮影された子と似た姿で歩く娘を大量につくりだす。 雑誌が売れて、服が売れて、靴が売れて、バックが売れて、ハイエナも儲かって、すてきな喫茶店にもお客が押し寄せて、原宿発の連鎖反応が起きる。

 はじめはどうであっても流行をつくりだせば、連鎖にスイッチが入る。 これが全国で起きると考えると、この街の持つ見えない価値にため息が出た。


     *


 原宿駅近くにある橋には多くの若者が集まり、揃いの派手な上着を着て、ポップな曲を最大ボリュームで流して踊っている。

 観客の目当ては踊りのパフォーマンスと、もうすぐ始まる暴走族のデモンストレーションだ。 何台も連なるバイクは表参道を道いっぱいに広がり派手なクラクションを響かせて蛇行する。 雅人は田舎のテレビでもよくやるらしく。

「一度、原宿の暴走族のパフォーマンスを直に見たいと思っていたんだよな」

 そう言って音の近づいてきたメイン通りに熱い視線を向けていた。 バリバリとした破裂音が近づいて暴走族が表れた。 リーゼントにはちまき、改造したマフラーを唸らせ、鈴なりになった歩道橋の真下を、観客の気を引くように、背もたれや風貌をつけたりとやたら改造したバイクに、やくざと右翼と特攻隊をあわせたような出で立ちで個性を引き立たせる。

 衆目を集めるために悲しい努力をいとわない。 蛇行を繰り返し精一杯パフォーマンスをする。 彼らはこの日のためにいろんなことに耐えて、そしてこの週末のこの場でそのエネルギーを瞬間的に爆発させる。

 多様なパフォーマンスと観衆の現象は生産的な分別ある大人には理解しがたいだろう。 仮に偉い学者が論理的な理由を探せば探すだけ、彼らの本質からは離れていくような気がする。

 渋谷に向かって坂道を下っていくと、NHKのビルが見えてきた。さらに下っていくと、族の車だろうか大きな音を響かせて通り過ぎた。すると雅人が思い出したように言いはじめた。

「思い出したーお前達は受験勉強してた頃だから言わなかったけど。 年末年始にびっくりしたのよ‥何たってあの鈴木がさあ」

「誰よ、鈴木って?」

「ほら、中学ん時、不良で・・それこそクラスのみんなから十円ずつ巻き上げたりしてた奴よ・・まあ、上からの指図でやっていてほとんど使いっ走りのようだったからほとんど目立たなかったけど、実は不良グループの一人よ」

「あー思い出した、目のぎょろっとした奴な、中学卒業してこっちの方に就職しただろう」

「顔はおぼろげに覚えているけど」

「その鈴木がさ、この年の暮れに田舎の表通りを、女の子に声かけながら派手な車で流してんのよ」

「あいつ免許あんのかよ・・それに車買うくらい金あんのか」

「いやいやいや・・奴が乗ってたのはシャコタンの車よ、さっきの族が乗っていたのと同じよ」

「えー、うそだろう」

「そんなのわかんねぇーけど、同級生の女の子にも声かけてたぜ」

「誰も乗んねーから、おれ二・三百メートル乗ってやったよ、そしたら後ろの座席に大宮だか浦和だったかのちょっと怖い、奴の先輩ってのが乗っててな、目は細いし、リーゼントでばっちり決めてるし、おれ怖くなってすぐ降りたよ。 でも、奴、得意げだったなあー」

「はじめて聞くな」

「忘れてたよ、お前ら受験で忙しかったからな」

「雅人・・ところで放火のことで思い出したことないか?」

「あーっ、あったあった、晦日に近い三十日の夜な、T家の物置が焼けたらしいぞ。 Tのじいさんがいち早く見つけて直ぐに消したから大事にならずに済んだって話だ」

「Tって、あの秀才だろう」

「そうそう、おれたちとは違うできる高校にいった奴よ」

「Tって中学で何組よ?」

「三年は五組だったかな」

「二年は?」

「うーん、二年は二組だったかな」

 P介とヒロは、放火のパズルを思い浮かべて顔を見合わせた。雅人は何も気づかずに話を続けた。

「Tってさ、ずーっと学級委員長だぜ・・正義感強いしさ」

「あーそうそう、三年の時S達不良が悪さした時、Tがさー、すげぇー勢いで注意したのよ」

「あんな奴等に文句言えるなんてすげぇーよなー、そこにいた不良もみんなびっくりして何も言い返せなかったもんなぁ」

 雅人の話はP介とヒロの想像力を大いに刺激した。 そして、その後雅人は秋葉原とアメ横によって、そこで大きなバックを買って、また上京してくるって別れの言葉を残して田舎に帰っていった。



          二十四色のクレパス  八月


 八月のはじめの金曜日、ヒロは下落合の眺めの良い丘から高田馬場へとゆっくり坂道を下った。瀟洒(しようしや)な住宅街を抜けて大きな通りを横切ると、密集した高田馬場に出る。

 二日前「金曜日に高田馬場でみんなで会うことになったので、お前も来ないか」同級生から誘いがあった。 人数あわせのようなちょっと強引な誘いだったが、『夏ちゃんも来る』という一言で、待ち合わせの時間と場所を聞いてしまった。 ゆっくりと目白を降りてきた。

 高田馬場の駅前のロータリーの人の波にのまれて歩いていると、いきなり前の男が立ち止まった。 ヒロは思わず男の背中にぶつかった。

「あーすみません」

 振り向いた男は眉を八の字にして(いいよ、いいよ)という素振りをしながら、ヒロの顔をじっと見ている。そして指さすと。

「もしかしたら、ヒロじゃないか」

 突然の思いも寄らない言葉に、記憶の脳細胞がフル回転する。

「平川だよ・・ほら同じクラスだった」

 一気に脳に電光が到達すると記憶のファイルから、ぽろぽろとあの時の記憶がこぼれ落ちてきた。

「あー、平川」

 人混みに押されながら、ヒロと平川はビルの壁際に寄った。改めて見直すと、上下白いつなぎを着て書類の入った袋を抱えている。

「お前、学生?」

「そうだけど・・お前は?」

「今、自動車屋。おれ中卒で就職したじゃん・・うーん・・おい、ちょっと話がしたいな」

 中学一年の時、隣の机でいつも納豆がびっしり埋まった弁当を持ってきて、すごい臭いをただよわせていたことを思い出した。

「うん・・おれ今から会があってさ・・」

「おれも今仕事中だから、また時間があるときにゆっく会おうや、おれの工場この先のW大側にあるんだ・・そのうち電話するよ」

 電話番号を交換してその場で別れた。 彼は会社の名前の入りの封筒を抱えて改札の人混みに消えていった。


                  *


 会場の居酒屋に行ってみると、二十人くらいの集まりだった。 よく見るとみんなまだまだ田舎くささの残る高校時代と大して変わりがない。

 座席は偏差値順にそれぞれが固まって座っている。ヒロは来るはずのP介とよっちゃんを探しながら、当然のように末席の方へ誘われた。席に着くなり居心地が悪くなって(やはり来ない方がよかったかな)と後悔しはじめた。

 集まった中でもひときわ目立っているいる奴がいた。有川だ。

 さかのぼること遠い昔、中学時代の同級生だ。当時、彼は成績上位者で県内トップクラスの高校に進学した。彼は中学時代には生徒会の偉い役職に着いていて、みんなからの人望も厚かった。

 しかし(何でこいつがいるんだ?・・誰が呼んだんだ。)

 分かった。(偏差値の高い奴らの仕業だ。末席にいるおれは人数あわせで場違いだ。この場にはふさわしいのはまさしく彼の方かも知れない?)と思うと、開き直るしかなかった。

 気がつくと有川と同じ高校に進学した謙虚で地味で賢い森君が、ヒロの隣に座っていた。何だか慰められたような気持ちになった。 そうしているうちにグラスをもって立ちあがった有川が。

「今日は古里を思い出しながら、お互いにこの広い東京で頑張っていこうという気持ちを共に持って盛り上げる会になればと思います・・・・」

 元生徒会執行部の有川達樹。みんなから担がれて挨拶が始まって、奴の乾杯の声が響きわたった。

 女の子達は、有川や優秀でスタイル良しの奴らに群がっていた。

 ヒロなんかは(何であんたがここに居るの?)といった視線に射抜かれながらも、女どもの一方的な話に強制的に相づちを打たされていた。賢いけど小太りでずんぐりして話し下手の森君も、ほとんどヒロと同じ境遇に陥っていた。さらに忘れてしまったような、女形のしんちゃんも同じ運命のようだった。

 ちょっとふてくされた、はじかれ三人組は意外と話が弾み、奴らとは別世界の話題で盛り上がった。森君は幼い頃から博士のような奴で、大学では電子工学とかの勉強しているらしかった。しんちゃんもデザインの勉強をしながら、いつかフランスに行くことを夢見てフランス語の学校にも通っていると言っていた。

 そんな時、遅れてP介とよっちゃんが店に入ってきた。ひときわ会が沸き上がって、彼らもヒロの近くに座った。P介のグラスにビールを注ぎながら。

「どうしたの?」

 よっちゃんが腰のところでドアノブを持つような仕草をした。

「パチンコよー・・すげー出てよ、この会の始まりの時間なんかどうでもよくなってなぁ」

「やるなー・・いくら儲かったのよ」

「六千円くらいかな・・」

「すっげぇー」

 向こうの席に座っているお嬢様達から、さらに軽蔑のビームを浴びた。この圧力に屈することもなくヒロは、この会のささやかなお目当ての夏ちゃんを探した。 今日も変わらず小さなほくろをほっぺたにくっつけてにこにこ笑っていた。 みんなが席を立って話し始めたタイミングで、ヒロもやっと夏ちゃんの側に近づくことができた。 近況をお互い語り合い楽しく笑いあっていた。 いよいよ電話番号きこうかと思いはじめた頃、隣のテーブルから有川の声が響き、ヒロとほくろちゃんの会話はぶちこわされた。 そして、奴の奴の演説が始まった。

「自分は有名私立大学に合格していたのだが、入学金を納める前日に友達と銀座に飲みに行った。 そして持っていた入学金の半分以上を一夜にして使ってしまった。 当然入学金を払えず、今は浪人中で、プロの音楽関係や外国製品をあつかったりしながら、雑誌へのもの書きもやったりしている」

 むっとする間もなく彼は、いかに自分が豪快ですごいことをしているかを巧みな話術でみんなの心を引きつけた。

 開いた口がふさがらない状況ながらも腹だけは立った。 気を入れ直して奴を見上げると、それまで気づかなかったが、貧乏学生には珍しい、パナマハットをかぶり、白く薄いスカーフを首に巻いて、夜の店のボーイのような三つ揃いのスーツを着ていた。

 彼は天性のペテン師なのかも知れない。 話をするときすっと相手の心のつぼを押さえる。

 たとえ出任せであろうが、嘘であろうが、聞いてる方は信じさせられる。 特にも自分に自信が無い者ほど信じる。 人はさらに自分に害がおよばないことが分かると、その嘘のイメージを勝手に広げていく。

 ヒロは有川が銀座の高級クラブで、ピンクや紫のシルクのキラキラドレスに包まれた美しいお姉様方に囲まれて、高そうな酒をうまそうに飲んで談笑している姿が目に浮かんだ。

 何十万というお金を一気に使い切る。銀座で豪遊する。普通はできない、彼だからできる。「音楽関係」・「外国製品」・「もの書き」・この言葉の響きのどれもが有川を際立たせ、そこにいた田舎もん達を引きつける。

 目前にいるカモノハシに似た有川の瓜実顔を見ながら、さっきの話しを思い描いていると、有川の顔が、どうも二枚目に見えてきた。 なんか不思議な魔術をかけられたように抵抗も無く、彼のいうことを信じてしまう。 彼は人を引きつけ、人の感覚を麻痺させる何か不思議な話術を会得しているか、巻かれた俺たちの方に修行が足りないのに違いない。

 そして、話を聞いていた夏ちゃんも、そこにいた数人もさっきの話を信じ、浅はかにも尊敬の目を向けていた。

 そんな気持ちになっていた時、ふと向かいの席に居た森君がこっちを見て、さかんに手招きをする。夏ちゃんを見たら、ほっぺを桜色に染めて焼き鳥の串をくわえていた。

 有川は別の席でも、またさっきの演説をしていた。 聴いた何人かは驚きの目をして「執行部はやはりやることが違う」と持ち上げると賞賛する。

 やっと欲求不満の会も終わり店を出た。 高田馬場の駅に向かってみんなで歩いているうちに、酔いが回ってしまった。すでに女の子達やP介やよっちゃんの姿は消えていた。

 ヒロと森君は小腹が空いてラーメン屋を目指した。 後ろからしんちゃんもふらふらついてきた。 三人で小さなラーメン屋に入って、餃子とビールで、酔いに任せて欲求不満をぶちまけた。

 ヒロはビールを飲み干すと博士に。

「お前、さっきの会で何度も合図を送ってきたけど、何かあったのか」

「眉唾(まゆつば)・・眉唾って伝えたかったのさ」

 彼は、執行部の話がみんなウソだと言いたかったようだった。 忘れていたけど彼は何せ執行部と同じ高校だから、いろいろ知っていたんだわさ。 酔った頭でも考えるとそうなる。

「そうだよ‥入学金をそんな何十万円も捨てるように飲むわけ無いよなぁ」

 と三人で相づちを打って、うなずいた。 なんだか騙されたことが分かって、騙された自分にものすごく腹が立ってきた。 思わず遠吠えのように声を張り上げていた。

「クソッ、だましやがってー」

 店に居た客がびっくりしてこちらを見た。 しんちゃんが取り繕って皆様にぺこぺこしていた。ラーメンを食べ始めて森君が箸を止めた。

「最近さ、奴のいい噂は聞かないんだよね・・まあ聞いた話だけど、執行部の奴、女の子と一緒に暮らしてるらしいーぞ、しかも、その女の子のひものような生活をしているっていう話だ」

「ふーん、ずいぶんおれたちみたいな真面目な学生とは違って、ぶっ飛んだ生活してるんだ」

 店を出ると、三人はヒロのアパートを目指して歩き始めた。

 坂を上りながら博士が、体に不釣り合いなか細い声で口ずさんだ。

『♪~二人で行った 横町の風呂屋・・・・♫~三畳一間の 小さな~・♬・~・』(かぐや姫の「神田川」)

 夜の静寂に溶け込むような歌だ。なぜか歌のイメージの端っこに有川のにやけた顔が表れると、心地よい世界に描かれる、切り抜かれる甘く切ない二人が汚されていく。

『♪~二人で行った 横町の・・・・♬・~・』

 博士の声だけが夜のしじまに細い線のように響いてきた。



             ダニアル


 面(ツラ)の皮は、悪いことをする度に厚くなる、業の数だろうか。

 あの会も忘れかけた次の週、今日も朝から気温が急上昇、じっとしていても額から汗が噴き出してくる。 ヒロはそんな中、安物のサングラスをかけ、つばの長い帽子をかぶり、駅に向かって目白通りを足早に歩いていた。顔に熱風が襲いかかる。交差点を渡り終えると、どこから表れたのか背広姿で四十歳くらいの、けっこう体格のいいおじさんにフレンドリーに声をかけられた。

「お兄さん、お兄さん。忙しいところだろうけど・・ちょっと話いいかな」

 こんな背広を着た中年のおじさんから声をかけられることなんてないから、びっくりして一瞬声も出せない。

「・・・・・・」

 言われるがままに、背中を押されて交差点のはずれの路地に移動した。 そこには、もう一人の背広を着た細身の若い男がいて、黒いバックを提げて近寄ってきた。 するとまたおじさんが。

「ちょっとこれを見て欲しいんだけど」

 そういって、黒い鞄から出してきたものは、石けん二つ分ほどの大きさの照りのある紺色の箱だった。 さらに箱の中からプラスチックのケースが出てきて、男はケースの端を持ち上げて中身をちらりと見せた。

「何だか分かったかな」

 優しい声が、さらにもったいぶったような甘さを増す。

「・・いえー」

 もう一度、今度は大きく開いた。全体が紺色の高級そうな塗り物で覆われ、全体を金で縁取られたライターが見えた。 大事そうにまたふたを閉じると、男はケースに金文字で書いてある飾り文字を指さして、これ見よがしに誇示してきた。

「えーと、うーんダ、ダ、ダニエルですか」

「いやいや・・・・よく見て読んで」

「もしかして、ダニュアルと読むんですか?」

 男の目の色が変わってきた。あきれてしまったのか。

「まあ、・・いいか・・このライターは、普通に買えば七万から八万円くらいするですよ、舶来品なのね。そこでこれ、ちょっとした手違いで余っちゃたわけ。 それで半額でいいから買う人いないかなって、まあ特別の人を探していたわけ・・君がその特別な人なわけで・・君、どうかな」

「ああそうですか、ご親切にありがとうございます。 でもおれ、煙草吸わないんですよ・・・・うん、うん、そんじゃ、友達が吸いますから聞いてみますか」

 それを聞いたとたんに、おじさんの顔の片方の眉が徐々につり上がり、ひどい形相に変わって、背広のお兄さんがあわてて品物を乱暴に鞄にもどすと、おじさんの肩を押して逃げるようにその場から離れていった。 ヒロは何が起きたのか分からずに、その後ろ姿を見つめていると、背広のお兄さんが走って戻ってきて怖い顔をしてドスをきかせた声で言った。

「おいっ、さっき見たこと、今聞いたこと、おれらと出会ったことも忘れろ・・いいな」

さらにびっくりして動けなくなったヒロは、走り去っていくお兄さんの後ろ姿を見ていた。

 彼らは、三〇メートルほど離れたところに止まっていたシルバーの車に向かって走り去った。その時、車のリアウィンドーからこちらを見ているもう一人の男がいた。 (あの風貌は見覚えがある・・有川だ。 瓜実顔がこっちを見ている、確かに有川だ。 しばらく呆然としていた。

 しかし徐々に、やはり怖い人に絡まれ、何かよく分からないけど、もう少しで危ない状況だったことに意識がもどる。直ぐにその場から離れ、急いで多くの人が行き交う繁華街に出た。胸の鼓動は未だにドクンドクンと高ぶったままだった。 (なんで有川がいるんだ?)

 駅の改札をくぐり、ホームに出ても追ってくるんじゃないかという恐怖は続き、やたらと周りをきょろきょろ確かめた。 電車が入ってきて逃げ込むように乗り込むと、全身から汗がふき出し、つり革を持つ手がぬるりとして滑った。 こんな時には、周りにいる物言わぬ他人でも、包まれているだけで妙に安心する気持ちがしてくる。

 その足でそのままP介のアパートへ向かった。 もう少しで怖い目に合いそうだったことや、さっきの有川の姿を誰かに聞いて欲しくてたまらなかった。・・・・高田馬場の会で奴が言っていた外国製品ってこれのことだったのかな?)

 P介は部屋にいた。 相変わらずジャズを聴いて煙草をくゆらしていた。ヒロは部屋に飛び込むと堰を切ったように話し出した。

「P介、えーと、ダ、ダニエル、ダニュアルとかいうとライターってあるの?」

一瞬、怪訝そうな顔をしたが。

「それ、ダンヒルじゃねーの・・それがどうしたのよ」

 ヒロは、ついさっき目白で遭遇した事件の話をした。

「お前なーそれって、危なかったよ、そのライターってたぶん偽物だよ・・詐欺に遭うとこだったんじゃねーの、危ないねー買わされなくて良かったよ」

「偽物かよー」

 P介はあきれた眼差しでヒロを見ながら。

「そんなところで売ってるわけないじゃんか、しかし、よくそんな読み方したな‥知らないということは、時に人を助けるものなのかもなぁ」

 P介のあきれ果てた言葉にもめげず、ヒロはさらなる疑問を言った。

「それからさ、その悪い奴らの仲間に有川がいたのさー」

「たぶんだけど、奴等の乗っていた車の後ろの座席から見ていた男は有川だったように思うんだけどなぁ」

「まさかー、東京だぞ、日本の首都だぞ、似たような奴はいっぱいいるよ‥見間違いだよ見間違い」

 P介から見間違いだと言われると、やはり見間違いだったようにも思えてくる。

「それと、森君から有川の悪い噂を聞いたよ。ほら森君って有川と同じ高校にいったからね」

「有川をしばらくぶりで見たけど・・奴、見栄っ張りだよなぁ」

「ほら、彼は口がうまいから、嘘も本当のことのようになって、信じちゃうのさ」

「あまり人を悪く言わない森君がそのように言うようじゃ、有川も、もうダメかもな」






              西部の講釈


 目白で有川に似た奴に会った数日後、ヒロは御茶ノ水にいた。ステレオのパーツを扱う店を覗き見て、帰りにしばらくぶりで大学に立ち寄った。四月に入学してまもなく、丸め込まれて入った大学のサークル室を覗いてみた。

 サークルのドア越しに、ヒロを陥れた張本人の西部のくだらない演説の声が響いてくる。

 ドアを開けると、奴の声が高くなり「秋葉原で中古のスピーカーをあさっていたら、偶然にもJBLの38センチのフルレンジのユニットを手に入れた」とのことで、異国の高原で山羊の糞でも見つけたような顔して自慢していた。

 ※(ユニット:スピーカーのむき出しのラッパ状の部分が38センチあり、その本体のみ単体で低音から高音までカバーする)


 誰かが。

「そんなでかいユニットどうすんのよ」

「まあみてな、俺の頭にぴっかりこんって、ひらめきが浮かんできたのさ」

「俺の部屋で、JBLが醸し出す、迫力と悠久の深さをもった壮大なスケールの世界が広がるんだよ」

 また誰かが。

「もちろん目を閉じてなぁー・・壮大なスケールの中に、吊るしたパンツとか、飲み残しの一升瓶は似合わないでしょ」

「うるさい・・俺の身体がピンクフロイドの曲に包まれて宙に浮くかもしれない・・まあ、できたら知らせるから楽しみにまっとれ」

 西部は久しぶりに顔出したヒロに気づくと、奴は目を輝かせて寄って来てヒロの肩をたたいて地下のサークル室から表に出た。中庭の明るさに目が真っ白になった。

「よー、ひさしぶりじゃないか」

 相変わらずニキビの中に顔があるようなジャガイモのような顔だった。

「やー、ひさしぶり、その辺で飯でも食うか」

 引きずられるように校門を出た。


       *


 彼との出会いは、四月のサークルの勧誘の時に起こった。 西部がしつこい勧誘を逃れるために思わず付いたその場しのぎの嘘からはじまった。 その場しのぎで奴は。

「今向こうから来る友達が、何かサークルに入りたいと希望していまして、どうかその友達を入れてください」と、ありもしないことを口走ってしまったらしい。 そしてその時、偶然にもその前を通りかかったのがヒロで運の尽きだ。

 西部はまるで旧知のように「よおっ待ってたぞ‥ほらみんなお前を待ってたんだ」

 この言葉に、にんまりとする数人の先輩。 ヒロは何が起こったのか分からずに先輩に囲まれた。 そして田舎者は自己主張することもできずに、すでに入会が決まったような状況になってしまった。

 西部はその一週間後、責任を感じたのか入会してきた。 あとで事のいきさつを聞いてヒロは怒りが沸騰したが、どうもひたすらあやまる西部の不動産屋の親父のようなとぼけた人柄に怒りの出鼻をくじかれた。 そうこうしているうちにどうでもよくなってしまっていた。

そんなことがあって数ヶ月ぶりに出合った。 今じゃ西部がサークル室のど真ん中で演説をうつまでになっていた。 二人で大学の門を出ると、少し早いが近くの安いレストランや居酒屋が軒を連ねている通りへ出た。 そして、中から賑やかな客の声が聞こえる提灯の下がった店の暖簾をくぐった。

 彼は一浪していたので、ヒロから見ると実にいろいろなことを知っていた。 一本のビールが空になる頃、ヒロは最近あったダニエル事件を話した。 西部は詳細を聞きながら、訳知り顔で。

「それ、詐欺だよ。 お前危なかったな・・煙草吸わなくて良かったなあ、お前が煙草吸ってたら引っかかっていただろうな。 それにブランドに疎いってことも、お前を救ったんだよ」

 何か馬鹿にされているような気持ちになりながら。

「なに・・ブランド知らないとだめか」

「だから、もしお前がライターに興味があったりしたら、それダニエルじゃなく、ダンヒルって読んでいたと思うよ」

 彼は煙草に火をつけると、そのライターを目の前に持ってきて。

「煙草を吸わない君には、分からないだろうけど、これはジッポーっていうライターで、ダンヒルにはとうていおよばないけどは、マニアにはちょっと人気のライターなのよ」

「お前が出合ったときのように、道ばたで悪い奴は、君を呼び止めてまずこれを見せるわけよ・・すると君はそのライターに刻んである角張った文字を読ませられるわけよ。角張った刻印は『Z』が飾り文字の『S』に変わって『SIPPO』と書いてあるわけ、それを君は思いこみで『ZIPPO』と誤読してしまうわけよ、すると、そのおっさんは『そうだよ・・、今ちょっと仕入れをしたら、二個ばかり間違って多く仕入れてしまったので、余っているからこれ原価の半額でいいよ』といって、つまり偽物をつかませて徳をした気持ちにさせてしまう分けよ」

「そして欲の皮の張った君は、さらに儲けようと思って、ほくほく顔で買ったばかりの『SIPPO』をもって質屋に駆け込むと、質屋の親父が、また馬鹿が来たかという顔で『はいジッポーのまがい品シッポーですね・・百円です』って声高らかに叫ぶわけ、その時、初めて自分がシッポーをジッポーと思いこんでしまったことに気づく分けよ」

 彼は、煙草の煙をゆっくりと、ヒロの頭の上の方に吐き出した。

「なるほど・・そうだったのか」

 ヒロは、その手口に唖然としてしまった。 この話はどうもリアルすぎて、たぶん調子者の西部自身が実際に引っかかった詐欺だったんじゃないかと思った。 彼は勢い焼き鳥を注文すると得意げにビールをがぶりと飲んだ。

 さらに調子に乗ってきた彼は次の講義に入った。

 彼が東京に出てきてから出会った体験について話し出した。

「東京では、まだまだ、騙して金を巻き上げる奴がいるから気をつけろよ」

「他にどんな奴がいるのよ?」

 口の中に焼き鳥をいっぱい詰め込んで話に食いついた。 西部は鼻息を「ふうん」って勢いよく吐くと、さも大事な秘密を話すようにもったいをつけながら。

「去年の秋に友達から急に電話が来てさ・・今から会えないかって言ってきたのよ・・そんでもって、夕方会うことにしたのさ」

 彼は、今度はレバー焼きをがぶりとうまそうにほおばると、ビールを立て続けに二口飲んでレバーを流し込んだ。

「喫茶店でそいつと会うと、奴がいきなり俺に『消火器を買ってくれ』って言うんだ。 即座に俺は断ったんだけど、高校からの友だちだし、唐突にこんなこと言うような奴じゃないんで『どうしたんだ?』って聞いてみたのさ‥そしたら、二・三日前に、新宿を歩いていたら、かわいい子から『お話聞いてくれませんか』って声をかけられて、そいつもてないから、きれいな子につられて近くのビルに入ってしまったらしいのよ。 すると・・」

 西部は、ここでいったん煙草に火をつけて、ビールを一口飲むと、鼻から白い煙をうまそうにはいた。

「ビルにはいると」

「ビルにはいると? どうなった」

「同じようにして連れてこられた学生風の若い男が何人もいて、その周りを関係者みたいな奴が取り囲んで話をしていたらしい。 ・・彼もその子に勧められた席に腰を下ろすと、さっきのかわいい子は『じゃっ、また行ってきます』って周りの関係者に言って出て行ってしまった。 取り残された俺の友達がきょろきょろしていると、うさんくさい男が煙草をくゆらせながら近づいてきて・名前は?・学生?・どこに住んでいるの?・なんて妙に馴れ馴れしく勝手なことを聞いてきて、こんな説明をはじめたって言うんだ・・」

 西部は、切り身の焼き魚をほぐしながら、煙草をもみ消して、新しい煙草を取り出すとジッポーをカチンと開いてすかさず火をつけた。 また、煙をうまそうに吐き出しながら。

「まず、消火器を買わないかと言われて‥断ると、君が買ったこの消火器を誰かに売ったら、今度はその半分が君に入る。だから二人に売れば、君の払った金額は全額もどってくる‥これを三人に売ったら、今度は儲けがうまれる」

「そして、さらに追い打ちがかかって・・売った奴が、また誰かに売ったら、今度は四分の一が入ってくる」

 切り身の焼き魚を半分ほどぱくりとほおばると、絶対必要な煙草とビールで流し込む

「えー・・はじめは半分、その次の人たちからは四分の一、・・儲かるじゃん」

 と言ったとたんに、西部の冷たい声が走った。

「おいおい・・君も引っかかってしまったね」

 ビールのグラスを片手に持って、空中でもう一方に持つ箸を泳がせて・・。

「じゃ・・買わなきゃいいじゃん」

 彼は、にーと笑うと、ビールを一口飲んで、あたりめを二・三本かじりながら。

「それが、そこにはそういうわけにはいかない雰囲気があったって言うんだ・・そこにさっき自分を誘ったかわいい子が来て『ねえ・・買ってよ』って甘い声でねだるんだそうだ。

 そして、『これから一緒に仕事して、もっと仲良くなろうよ・・』とさらに甘い言葉を吐くんだそうだよ・・まあ、徐々に買わなきゃいけないような・・・・そして、また違う髪の長いかわいい子が来て・・色仕掛けのような、手を変え品を変え、そういう雰囲気をつくって説得にかかるらしい、そしてほぼ傾きかけたときに・・最後には買わないと何かやばくなりそうな・・

・・雰囲気までつくってしまう・・そんなこんなで友達は三万円でその消火器を買ったって言うんだ」

「そして、自分の間違いに気づきながらも、このまま損をしているわけにはいかなくなって、街を歩く見ず知らずの人に声かけようにも声かけられず。女なら声かけたらなびく男もいるかも知れないが、無粋な男じゃ誰も振り向かない・・そこでどうにもならなくなると結局、嫌でも親しい友達に声をかけることになるのさ、だから奴は俺に売りつけようとしたわけよ」

 煙草を思いっきり吸い込むと、吐いた煙が顔にかかる。ヒロは咳き込んだ。 そして思いっきりビールを飲んだ・・げぷっ。

「親が子から半分、さらに親は孫から四分の一・・ひ孫から八分の一・・この儲かりそうな響きが、落とし穴となって、かわいい子の色仕掛けが男のスケベ心をくすぐるのよー」

「お前、消火器、売れるか? ・・儲かるはずもない・・夢を食い物にする悪くどい詐欺さ・・これを巷では『ネズミ講』なんて言うんだよ」

「お前も最近、大きな駅を歩いていると声をかけられないか」

 もろキューに味噌をつけてカリッと音を鳴らしてかみ切った。続いてバリバリっと口の中で咀嚼した。

「池袋で女の子に『話を聞いて下さい』って言われたよ・・急いでいたから断ったけど・・・・」

 と語尾を濁してビールをごくりと飲んだ。

「お前、それについて行ったら、どうなっていたか・・今だったら想像できるだろう」

 グラスをおいて身を乗り出した。

 ヒロは感心した。人をだまして儲けようとする悪い奴がたくさんいる、西部に気づかれないように、昨日、池袋で声をかけてきた女の子はとてもかわいい顔だった。 東京で初めて女の子から声をかけられた、その時、戸惑いとうれしさを抱いたことは事実だ、断った後で直ぐに後悔して、またさっきの所に戻ったことは西部には黙っていた。

 隙だらけの毎日を送っているヒロにとっては、もう少しでついて行きそうになった。 間一髪の出来事だったように思えて胸をなで下ろした。 (危なかった)

 西部は得意げな顔をして。

「野暮な男どもは、普段女の子から声をかけられることもないから、いつも寂しさに包まれて孤独な都会の暮らしをおくっている。 だからいつも心のどこかで女性からの誘惑を期待している訳よ・・そんな田舎者の心の隙間に、すっぽりとこだまするように、色気のあるウグイスの鳴き声で『お話、しない』って声かけられてみろ」

 見透かされているようで、なんとも言えず、顔が真っ赤になった。

 西部の一度吐いた煙を口元で再度吸い込む姿は、煙草が実にうまそうだ、更にもったいつけて反芻しているようでたまらない。 (うまそうだ)

 焼き鳥の串で歯の間をしごきながら西部はビールを持ち上げて得意げな顔をしていた。


                 *


後で聞いた話だが、西部が完成させたスピーカーは、1メートル四方の板に38センチの穴を開けてJBLユニットを固定させたものを造り、その二つのユニット着き板を押し入れにはめ込み、押し入れ内には布団を山ずみにして吸音させる古典的な巨大スピーカーだったようだ。

 完成後、彼はなんのためらいもなく、一番はじめにレッドツッペリンを・・爆音でかけたらしい、すると即座に、隣りの部屋の奴が『大家に言うぞー』とか、『警察に電話するぞーっ』って周りからミサイルやら爆弾が飛んできて・・三分ともたなかったようだ。

 あのユニットは今は田舎の彼の部屋で眠っている。 そして彼曰く「まあ将来、大きな家がもてたら、そこで今度は押し入れじゃ無く、バックロードのものを作って低音から高音までカバーしたスピーカーで落ち着いた曲を聴きたいとのことだ・・まあ今はそれまでの夢となったらしい・・

 止められるまで回り続けたレッドツッペリンのレコード。 その数十小節の躍動は、鮮やかな光の線を描いて響き渡り、彼の未来を照らし出したはずだ。 彼の聴いた一瞬の爆音は、部屋の一升瓶も歯ブラシもパンツも揺り動かして、未来まで一直線に跳んだはずだ。


                 *


地下鉄丸ノ内線を降りると、相変わらず今日も、地下通路はごった返している。 ヒロはせわしげに人をかき分け進んだ。 芳林堂を目ざして地下道を出ようとすると、髪の長い、目の大きな女の子が声をかけてきた。 スリムのジーパンに濃紺のトレーナー、薄手のジャンパーがよく似合う。

「ちょっとお話聞いてくれますか?」

 とっさに、西部が言っていたやつがきたと思った。でも見るとかわいい。 もうこっちには免疫があるんだと思って、ちょっとぐらいならとスケベ心がむくむく沸いて誘いに乗った。

「あのー学生さんですか」

「あーはい」

「あのー、時間ありますか、ちょっとお茶を飲みながらでもいいですか」

「かまいませんよ」

 こちらです。と通りを隔てた古いビルに案内された。 二階に上がる、ここまでは西部の言うとおりだった。 窓の小さい薄暗い中会議室ほどの部屋はざわついていた。 テーブル席が二十席くらいあって結構人がいる。

 彼女が案内したテーブルに着くと「何か飲みますか」と聞かれた。 彼女は珈琲とコーラを持って現れた。 はじめはどこの大学生かとか、どこに住んでいるかとか、趣味は何かなど話していたが、徐々にネズミ講の話をはじめた。 彼女の顔をじーっと見て話を聞いていると、西部のレクチャアーと違うのは、販売するものが消火器じゃなくてパンク修理剤だった。

 話半分に聞きながら、システムを確かめながら、かわいい子の顔を眺めたりして楽しんでいた。 そして、何気なく奥の方を見回すと、見覚えのある顔にぶつかった。ダニエル詐欺の若い方の男だ。 悪趣味な柄の開襟シャツ着て横柄な態度で周りに何かを話している。

 ヒロは一生懸命に話すかわいい子との会話を切って、彼女に聞いた。

「あそこの派手なシャツの彼はお客さん?」

「あの人は、ここの上の方の人です」 (やはりそうだったか)

 奴がこんなところにいたのかと思うと、ここの集団がどんな集団か想像ができた。 ヒロは有川が出てこないか、彼女に乗せられた振りをして薄暗い部屋に目をこらした。 しばらくすると、奥のドアが開いてダニエル事件で声をかけてきたおじさんと見知らぬ金髪のリーゼントの男が姿を現した。 ヒロは思わず声を上げそうになった。またドアが開いて今度は有川が出てきたからだ。

 ヒロは彼らから逃れるように下を向いた。 奴等を見ていると詐欺の餌食にされそうになった怒りがこみ上げてきた。 そして、それまでひやかしで話を聞いていたが怒りの一つも彼女にぶつけたくなった。

「こんなことしてると辛くならないか」

 と話しかけてみた。 女の子の目は急に落ち込んだようになった。 一瞬うなだれるように下を向いた女の子だったが、次に顔あげたときには挑発的な目に変わっていた。

「あなた同業者?」

「いいや・・話を聞いて思うけど、三万円もだしてパンク修理剤なんて買う人なんかいないでしょう」

「パンク修理剤は、あくまでも実際使うのじゃなくて、取り引きするための名目だって言っているでしょう」

「そんな、実体のあるようでないものが売れるわけがないでしょうに、こんなことしてると友達なくすよ・・やめなよ」

 女の子は目をつり上げて、さらに挑戦的になってきた。ヒロは直ぐに女の子に「コーラごちそうさん」と言うと席を立った。 つり上げた魚が毒をもった食えない魚だとわかったらしく彼女は引き留めなかった。 ヒロはビルの外に出た。


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