それぞれの雲の下で 1

見返お吉

第1話   武の死から







          武の死から  春




三鷹駅の改札を出ると、空いっぱいに広がる透き通る青の中に、ブラシを走らせたような白が今にも溶けそうに漂っている。 新学期のあわただしい頃が過ぎ、強い春の日差しが、アスファルトにくっきりとした影を描き出し、桜が咲き終わったばかりだというのに、ここ数日初夏を思わせるような暖かさが続いている。

 商店街に踏み込むと、陽気に誘われて色とりどりの値札がちらばり、売り出しの段ボールの太文字看板が踊る。 ヒロは短い商店街の通りを抜けて、人の波がまばらになった果物屋の前で、赤いイチゴに流し目をおくる。 ネイビーブルーのトレーナーの袖をたくし上げ、スリムのジーンズをひねりあげると短い歩幅をせわしなく動かして歩く。

 住宅街の角を三度ほど曲がると真っ直ぐに伸びた日当たりのよい通りに出る。 さらに額に汗して、住宅街の中程まで来ると。 戸建てのように見えるアパートがある、道に面した全開の窓からはオレンジ色のカーテンが揺らいでいる。

 ヒロは額の汗を袖でぬぐうと音楽が流れている窓に首を突っ込む。 部屋の中心でP介が山盛りになった灰皿を前に、腕枕をしてテーブルに片足のせて横になっている。

 差し込む日差しは、乱反射してテーブルの上に複雑でぼやけた影をつくりだす。 吐き出した煙草の煙の中で、P介が微睡(まどろん)んだ顔で片手を挙げた。

「よー、あがってこいよ」

 アパートの共同玄関の扉を開けると、乱雑に並んだ靴の端っこに汚れたスニーカーを脱ぎ、玄関脇の部屋のドアを開けた。 P介が横になったまま。

「さっき、よちゃんから電話があって、駅に着いたってさ」

 ヒロは窓から通りを覗くと、相変わらず裾広がりのジーパンをきっちりと腰の上まで引き上げて、ポロシャツの袖をたくし上げたよっちゃんが急ぎ足で向かってくる。 窓から身を乗り出して手を振ると、両手を振りかえして走り始めた。

「来た来た・・なんでああまでジーパン上げるんだ・・」

「なんか、ああしないとぴりっとしなくて不安らしいんだってさ・・自己暗示みたいなもんさ」

 ほどなくして黒縁の眼鏡をトレーナーの端っこで拭きながら、よっちゃんが部屋に入ってきた。

「やーお待たせ」

 三人は、上京したばかりで寂しさもあってか磁石のように引き寄せられている。

 四月、東北の片田舎から出て来て以来、ヒロとP介とよっちゃんの三人が顔を合わせるのはこれで三度目だ。 P介が手渡した珈琲によっちゃんが口をつけながら言い出したくてしょうがないという勢いで。

「智恵子がさぁー、恭一とつき合っているの知ってるか?」

「なに・・あの智恵子って、信夫とつき合っていたんじゃなかったの・・本当か、女って移り気だなぁ」

「おれ、恭一と同じ予備校じゃん、帰りにさ、あいつら待ち合わせしていてさ、二人がべたべたしてる側を通ったら、智恵子が俺を見つけて口に手を当て『信夫君には内緒よ』だって」

「で・・信夫に教えたのか」

「とても、とても信夫には言えないよ、自分の彼女が、それこそ犬猿の仲の恭一とつき合っているなんて言ったら・・どうなる」

P介が、ラジオから流れるFENのボリュームを下げて。

「言わない方がいいよ・・信夫って地元の国立だったよな・・離れてるもんな、恭一に分があるね」

「そういうもんかねぇ・・女の子ってつれないもんだね」

「よっちゃん・・『見ざる。言わざる』に、こしたことないよ。関わったら怪我するぞ」

「男女のいざこざは、当事者しか分からんもんだと、昔から言うじゃん」

「そうそう『最後は馬に蹴られてしまうんだ』からな・・」

 三人のうわさ話はまだまだ続く。と突然、廊下にあるアパートのピンク電話が鳴った。P介が廊下に出ると「もしもし・・○○荘です・・」電話に応える声が聞こえてくる。

 その間もよっちゃんは、恭一が智恵子とどうしてつき合うことになったのかを話していた。

 電話を切って部屋に入ってきたP介は、血の気が引いて青白い顔をしていた。

「おい、何かあったのか」

「うん・・武が・・武が死んだ。・・昨日。死んだ・・バイク事故だったようだ」

 ヒロとよっちゃんは言葉が出ない、話そうにも声が出ない。 詰まらせながらヒロが。

「誰からだった・・」

「伸子からだよ・・」

「ほんと・・」

 P介はヒロを見て首を縦に振った。 目をそらしたヒロはP介が冗談を言っているようで、笑っている武の顔が浮かんできた。 背中に一球入魂てかいたユニホームを着てキラキラ光る汗のつぶつぶを額に浮かべている奴の姿が鮮明に浮かんだ・・。しばらくは、P介の言葉が、ただ訳が分からなく頭の端から端まで漂っていて飲み込めないでいた。


 卒業式を終えたばかりの三月、春のぬくもりで覆われた田舎町、武のバイクの後ろにまたがりP介の家に向かった。 P介の家の縁側に三人で腰掛けて東京への夢を語り合った。 そして上京・・。


 ・・知らぬ間にヒロの目尻から溢れ出た涙はゆっくりと頬を流れ落ちた・・武の声が頭の中で響き渡り、徐々に大きくなっていく・・。

「そんな、そんな・・東京行ったらお互い彼女つくって、美しい青春を夢見ていたのに・・大声で話したのはつい2ヶ月前だぜ」

 よっちゃんは、眼鏡の奥を潤ませながら凍り付いていた。 P介が何かを言わなきゃとぎこちなく話し出した・・。

「信子が東京にいるみんなに連絡回しているところだってさ・・」

 それから三人は、突然の知らせにどうしたらいいのか全く分からないまま、急に空洞のようになって、P介の部屋ごと、どこかの暗い穴に落ちたような思いがふくれ、そんな気持ちの時を過ごした。


    *


 一週間後、P介から連絡があった、武の葬儀は実家の寺で滞りなく終わったと言うことだった。 そして、地元で出席した連中から、仲のいい友だちで六月のはじめの土曜日、追悼の会をするからできれば、田舎に帰ってきて欲しいと言うことだった。

 三人は新宿の喫茶店トップスで神妙な顔をつき合わせていた。 それまで武の死をそれぞれが何とか心の中で整理して、追悼の会には三人で行こうと話していた。 コーヒーカップを持ち上げるとよっちゃんが、申し訳なさそうに、追悼の日、予備校の模試とぶつかって行けないと言い出した。 P介が優しくよっちゃんを見つめて。

「しょうがないよ、お前はその日のために勉強してるんだし、武もたぶんそうしてくれることを喜んでくれるよ」と

 武の事故はバイクによるスピードの出し過ぎによる事故だと聞いた。 今年の春、彼も同じように上京して、都内の大学に進んだ。 彼は高校時代からバイクが好きだった。 彼は上京してからもバイクに乗っていたらしい。 首都高速での事故だった。

 遺体は連絡を受けた家族が事故後直ぐに田舎に引き取っていって、葬儀を済ませたらしい。ヒロとP介は彼とのお別れの会に出て、よっちゃんの分も墓前に花を手向けようということにした。

 そのうちにP介が、以前から迷っていることを話し出した。

 P介はM大に入学して以来、どうしても以前から第一志望だったW大学への入学をあきらめ切れないでいる。だからかなり前から休学再受験を考えいることを漏らしていた。

 P介にとっては失敗したW大の受験を思い出して、あの問題は分かっていたのにミスしてしまった、あれが失敗の原因で再度挑戦すれば必ずうまくいくような気がする。 今になって後悔しても仕切れない気持ちを、M大入学後二ヶ月過ぎた今も大事に持っていて、吹っ切ろうとしても沸々とわき上がってきてどうしようもなくなるらしい。

 W大のその伝統や校風そのすべてにとてつもない憧れを抱いている。 そしてついに真剣に休学して再受験しようというところまできたらしい。

 その話をヒロは聞かされる度に自分に置き換えて見て、まぐれで入ったような今の大学だから、別の大学を再受験する気持ちは毛頭ない。 ただヒロの気持ちに芽生えているのは、もし休学したらもう一年長く東京にいれて、自分の求めているものを見つけれるような、まず身勝手でいい加減な希望のようなものだった。

 P介もなかなか一人では踏ん切りがつかないらしく、どうにか誰かを巻き込みたいらしい。

「おいヒロ、一緒にもう一度挑戦してみねぇーか」

 ヒロの心は、迷いと言うよりも如何に自分の邪(よこしま)な欲望を果たすかという、邪悪な気持ちに支配されていた。

「おれは、今の大学で十分満足だけど・・失敗しても一年長くこの東京にいれると考えると、それもそれでいいかなって思えたりしてな」

 P介が身を乗り出して、希望の光を得た眼差しでヒロを見た。

「よっちゃんも一浪だし、みんなそろって卒業の日を迎えようぜ」

「・・・・・・」

「よし、決まりだ・・みんなで頑張ろう」

「うーん・・まずは親父だな・・どう説得するかだな」

「そうだな、おれんところも同じだな」

「今度、武のお別れ会で田舎に戻るだろう、そん時だな」

「よし、いっちょ、やってみっか」

 「休学」「再受験」失敗しても、安全を確保、ヒロもP介も自分に一抹の罪悪感が沸き上がってくる。東京にもう一年長く住めることが、何か大きな意義のあるような気がして、勝手な理由を生み出して、無理矢理自分を再受験のラインに押し込めた。

 ヒロとP介は、お別れ会の二日前に田舎に帰ることにした。



 田舎に帰る日、ヒロとP介は上野で待ち合わせた。 上野発の東北本線か常磐線を経由した青森行きの夜行列車に乗る。 金があれば昼の特急に乗るのだが。

 まずは、長旅に備えて、必要なものを購入して乗車する。 もちろん本とか新聞とか、時間をつぶせるものを持って乗る。 立ち蕎麦かカレーぐらいは、腹におさめる。

 上野の駅周辺には、安く酒を飲ませる店が多くある、アメ横の入り組んだガード下はいつも盛況だ。 出発間近かまで、そこで一杯引っかけて列車に飛び乗ると、故郷まで一直線、いい夢を見てぐっすり眠りにつく。

 ホームに静止する急行列車は飾り気がない、今にも闇に溶けそうな暗い車両を並べている。この列車には、どこか心を引きずり、郷愁にほだされた顔をしている人々が集まる。

 ホームの壁際では、車座になって宴会を開いている人たちもいる。 飲んで歌って、泣いてわめいている。

 ヒロとP介はすでに列車の乗り込んだ。 宴会は佳境を迎え、別れを惜しむ歌をよく歌う、見送り来た人がいるのかとかと思ってホームの宴を見ていると、最後には全員乗車してきた。 思わず噴きだした。 彼らは誰と別れを惜しんでいたんだろうか?

 駅をゆっくりと離れ走り出した列車は、闇にとけ込んでいく。


     *


 明け方、明るくなった空気にまどろむ頃、周りからなまりのある声が響いてくる。 その頃には急行は各駅停車に代わり、駅毎に通勤通学の乗客で一杯になる。 たかが二か月の東京暮らしのくせに、方言が珍しく感じてくる。 人の気配を感じてもしばらくはじっと目を閉じたままふて寝をきめこむ。

 東北本線を降りて、在来線に乗り換えるまでの時間に、また立ち蕎麦を食べる。 東京の立ち蕎麦よりも、タレは濃いがマイルドだ。 ヒロが蕎麦をつつきながら。

「武の集まりいつだっけ」

「明日の五時から・・」

「P介・・、親になんていう・・」

 P介が、天ぷらをつゆの中で崩しながら。

「どうして、別の大学に行きたいのか理由を説明しなくちゃだめだよな・・」

 つゆをすすると。

「P介はいいよな、納得できる理由があって・・それに勉強できるし・・可能性あるもんな」

「そんなことないよ・・勉強も一度切れてしまうと、そう簡単には元のようにできないしね・・」

「俺は、今の大学に入れたことだって奇跡のようなものだし、その他の大学の再受験なんかとうてい考えられない難題だよな・・」

 つゆのしみこんだ天ぷらを、蕎麦ごとかき込むと。

 P介より悲観的で、説明するのに筋ってものが無く。 不安だけが心につきまとう。 そんなまとまらない気持ちのまま、在来線はいくつかの山と川を通り過ぎ、海の香りのする懐かしいホームに滑り込んだ。

 ここは、春に東京にあこがれや夢を抱いて一歩を踏み出した場所だ。

 ヒロはホームを通り過ぎる風の音に耳を澄ませると、あの日の光景が目に浮かんできた。

旅立ちの日は、まだ肌寒さの残る塩臭いひなびたこの駅で、母が眼鏡の奥から涙を流して父に寄り添っていた。 まだ小学校を卒業したばかりの弟が素っ頓狂な顔をして、開いた列車の窓から中をのぞいていた。

 父が薄くなった眉を八の字にして。

「栄養のあるものを食べて体をつくれよ、病気にはなるなよ」

 と言って指の間に挟んでいた短くなった煙草を吸った。

「ヒロちゃん。つらくなったら帰ってくるんだよ・・」

 母がハンカチを頬に当てながら涙声で言った。母の脳裏には、少し前の集団就職のような今生の別れの光景が残っていて、息子に二度と会えないようなそんな思いだったのかもしれない。

 父や母が若い頃には東北から「金の卵」と呼ばれて(中学を卒業後集団就職した若い労働力)がこぞって上京していったものだ。 一九五六年の経済白書で『もはや戦後では無い』と言わしめた繁栄は、彼ら集団就職の若者が戦後の日本経済の発展の底辺を担っていたからだ。

そんな母の思いとは別に、ヒロの頭の中では、これからはじまる未知の世界に希望の色がどこまでも広がっていくような世界が駆け巡っていた。

 そして今、あの日母が涙したあの場所にたたずむと(あまりにも自分勝手で、甘えてばかりで、いったい俺は何しているんだろう)と後悔と親不孝のような気持ちがふつふつと沸き上がってきた。 そして、自分のことは棚に上げて、武の死を「親よりはやく死にやがって、この親不孝者め」と罵っている浅はかさに、さらに恥ずかしさが上乗せになった。 ヒロはこの居心地の悪さから逃れるために改札を出ると。

「P介・・あそこに寄ってかねぇー」

 P介も同じ不安な気持ちだったのか。

「おーちょっと茶店に入ってみるかー」

 懐かしい感じで、高校の時よく行っていた喫茶店によった。 ぶ厚いガラスの扉を開けると、カウンターでソーサを拭きながらマスターが顔を上げた。

「いらっしゃい、あー、久しぶり二人そろって珍しいな・・今日はどうしたの・・早々東京に嫌われて帰ってきたか」

「あーちょっと、武の追悼の会で緊急帰省です・・」

 詳しく理由を言うのがめんどうで、さらっと流した。

「マスター何か変わったことない」

 あてずっぽに飛ばした言葉に、マスターがソーサを拭く手を止めて食いついてきた。

「それがさー大きな声じゃ言えないけどな」

 P介はカウンターにのりだして、聞こえるところまで顔を近づけた。

「なになになに・・小さい声でいいから・・」

 マスターは話し出した。 店内にはカーペンターズの曲が響いている。

「実はな・・ここ数年、冬になるとよく起こっていた放火事件な・・どうもちょっとずつだけど分かってきたみたいなんだよなぁ」

 深刻な話しになりそうだと予感がした・・それは放火の手口だった。

「このくらいの大きさに、藁を束ねて(両手で直径七センチくらいの輪を作った)・・真ん中に花火を入れて・・そこに線香を立てていくらしい・・そして線香で花火に火がつく前に遠くに逃げていくらしいんだ・・」

 サイホンで上がった珈琲をかるくかき混ぜて、すーと落とすとカップに注いでだしてくれた。

「だからさー・・線香の時間が逃げる時間だから・・足のある奴・・なんだ」

「・・車、バイク、自転車?」

 珈琲を一口飲んで、P介が・・分析をはじめた。

「線香で火がつくまでって・・五分、いや十分? 足があれば一・二キロ逃げられるよな」

「・・・・」

「最近、警察の警戒がきつくなって、夜の検問なんかすごいんだよ」

「今頃やってもなぁ・・犯人もおとなしくしてんじゃないの・・火事はいつも冬だし」

 やはりマスターの入れてくれる珈琲はおいしい。 レコードをB面に変えた。

「放火ってどこでもいいわけじゃないんじゃないか」

 またP介が、繋がりを求める疑問を投げかけた。

「今まで火をつけられたとこって、これだけ多いと何か関連があるのかもなぁ・・」

「・・・・」

 なんか背筋がゾワーと寒気のようなものが走った。

 それ以上、話は進まないから、東京の話題や、田舎の話を聞いて店を出た。

「P介、あんまり気分よくないよなぁー・・」

「いやだねぇーどうも・・どうして放火したのか・・その動機が何なのか」

 二人、暗い顔で明日の武の追悼の時間を確認した。


                 *


 ヒロは実家に着くと当然、誰もいなかった。 両親は仕事、弟は学校。

 一人、休学し再受験を考える、どうも自分に都合のいい言い分けしか浮かんでこない。(都会での生活を一年でも長く続けたいという強い思いの理由が、果てしなく沸いてくる「都会のにおい」「都会の喧噪」「田舎にはないときめくような出会い」そして「都会の片隅でうごめく見えないものへのあこがれ」・・夢と希望がごちゃ混ぜになり・・止めどなくヒロの好奇心をくすぐる)

 休学する理由を、さらに考えたが、正直に話す方がいいような気がしてきた。 その方がその後に無意味ないいわけをせずにすむような気がしてきたからだ。

 そんなことを考えながら裏庭の小さな池で泳ぎ回る金魚を眺めていると、突然「おーっ」と景気のいい声がして叔父さんが表れた。

「あっ、叔父さん」

「なんだ・・仕事で誰もいないかと思って裏にまわったら、お前がいたとはなぁ・・お前早速大学首になったのか」

「いえいえ・・ちょっと急に友達の葬式があって帰ってきたんです」

「なに、お前の友達の葬式か?」

「ええ・・」

「あー・・えらく早く逝ったもんだなぁ」

「交通事故で亡くなったんです」

「ふーん、おれのように戦争で毎日鉄砲玉や大砲に追い回されても何とか生きて伸びてきた者もいれば、平和な世の中であっさり死ぬ奴もいるんだ・・なんか世の中おかしいな・・」

 そう言われれば、なんだか武の死がものすごく無意味なものに思えてくる。 戦争に行って小さな南の島で死線を這いずり回り、死と隣り合わせだった叔父さんが、今ヒロの目の前で憎まれ口をたたいているのも不思議に思えてくる。

「ヒロ坊、少しだけど野菜置いていくから、親父によろしくな・・それからこっちにも顔出しな・・小遣いぐらいめぐんでやっからなぁ」

「あー・・はい・・ありがとうございます」

 叔父さんは色あせた帽子をかぶり直して、あっさり言いたいことだけ言って帰って行った。


 親が帰ってきた。 昼に叔父さんが来たことを告げ、夕食を食べながら、武の事故のことや追悼のことを話した。 本題を親に正直におそるおそる話すと案外寛容で、親父は。

「ああ・・お前は社会経験が未熟だからなぁ・・一年多く金がかかるけどなぁ」

 そして、親父は自分が若い頃、一人暮らしをしていたときにたくさんのことを学んだことを思い出のように話して、そのことが後の人生に大いに役立っていることを懐かしそうに話しはじめた。

「我が家はみんな遅咲きだから、まあ社会経験を積むつもりで頑張りなぁー、あーそうそう叔父さんさんも戦争から帰ってきたら、人が変わったみたいにえらい賢くなっててなぁ、村のみんなもびっくりしたもんだよ。」

 と思ったほどのお怒りは無かったけど、ヒロより六歳離れている弟の方が心配らしく、何かとダブらないように計算しているようだった。

 意外とあっさり分かっていただいたようで、あんなに張り詰めていた気持ちが、急激にしぼんでいくようだった。


                  *


 その夜、ヒロは、地元に残った干物屋の雅人と会った。雅人の家は大通りに面していて一階が店で二階に住んでいる。 二階の窓で、干した開き魚が風にふかれて、うちわのように揺れている。 二人、残り物のふぐの乾き物をしゃぶりながら。

「跡取りの勉強してんのかー・・」

「昔の丁稚奉公のような風習が残っていて、研修という名目で、他家の飯を食って勉強するのさ・・」

 店の跡取りで、修行で仙台の干物屋に研修に行ったり、大阪や北海道の製造会社に行ったりと、結構忙しい日々を過ごしているということだった。

 話題が武の話になって、雅人は急に声に勢いがなくなって涙目になった。口の中でふぐが急に奥歯に挟まった。気にかかってしょうがない。

「火葬の日は・・武の親父さんとお袋さんの顔は、とても見ていられなかったよ」

「二つ下の弟が取り乱してなぁ・・柩にすがりついて・・ものすごく泣いて俺ももうこらえきれなかったよ」

 口内で、ふぐと舌の格闘が始まった。舌を奥に動かすと、顔が妙に曲がって、もっと曲がって、曲がって、涙がぽろりと出てきた。

「もう・・みんな動けないくらいに・・落ち込んで」

 話しを聞いているだけで、武の面影やすがりつく弟の姿が目に浮かんでくきて、もうダメだった。 泣けて泣けて涙が溢れてしまった。 奥歯のふぐはしゃくり上げてしまってもう忘れた。

「明日、みんな集まったら、また耐えられなくなるかもなぁー・・・・葬儀の時、親戚の誰か分からないけど、事故だったらしい、幅寄せされてコントロールを失ってガードレールにぶつかって逝ったらしい。 でも相手が逃げてしまって、目撃証言に合わせて警察も探したらしいけど、もともとあやふやな証言だったから結局分からなくなってうやむやになったらしい。」

「なんだか、ますます悔しいって言うか、最後にまっとうな調査をされないまま逝ってしまった感じだな」

 ヒロは武の死に、生きている自分たちがせめてものピリオドを打ってやることができないことに、無力感を感じて、この世のいい加減さにやり場のない怒りがわいてきて唇を噛んだ。

雅人はそんなヒロの表情をどう思ったのか。

「はやいよなぁー、はやすぎるよ・・まだ、まだ・・これからだったじゃんか」

 それからは、複雑なやるせない気持ちで、二人は無言だった。武の死は時間とともに死んだ事実だけが色濃くなっていく。 運命の死神に取り付かれたとき、武は死にものぐるいで最後の瞬間までハンドル握っていた、気まぐれな死神の遊技に包まれた瞬間、死の淵に立った。 その生きていた刹那、そして生への執着の瞬間があったことを誰も思い起こそうとはしいない。


       *


追悼会は、メンバーの中の親父の持ち物である休眠中の空きスナックを借りて行われた。親しい友達が十数人集まった。 武の写真が椅子に座っていた。 文助が弔辞のようなものを読み上げて、みんな線香を上げて、奴のためにも、あまりしめっぽくならないで送ろうということになった。

 こうして集まっていると、武がそこに座っていて、声をかけてきそうで「武がいない」ということが不思議な感じだった。

武に話しかけている奴らが多くいて、みんなやり場のない声を上げている。 誰かが。

「いつも一緒にいるから」 「何か食べたいものをいいな」 「欲しいものは」

 ・・何も無い。 「無」ということが「死」ということだ。 どんなに努力しようが・・どんなにお金をかけようが・・どんなに善行を積もうが・・ほんの数ミリも動かすことも、何も変えることさえできない。

 現実が「死」であり「絶対」ということなんだろう。そして、武もあの事故の一分前まで、こんな惨事が自分に降りかかるなんて思ってもいなかっただろう。そして、今ここにいるみんなも・・。

 信子が泣きじゃくりながら、武の写真を抱きしめていた。みんな涙を流しながら・・声もみんな震えていた、喉が詰まってビールもジュースも、ハムもチーズも喉を通らなかった。

 啓治が、いつものように毒づいている。

「すねっかじりの分際で、金もねえくせにバイクなんか持ちやがって、なあそう思わねぇーか・・こいつが悪いんだよ・・自業自得だ・・バカヤローが」

 信子の持った写真を指さして言った・・信子が、キッとにらんだ。 啓治の毒舌は止まらない。

「新小岩から川﨑だってよ・・電車に乗れば二・三百円だぜー・・ガソリン代・高速代・・いくらかかってると思ってんだぁー」

 高校時代から啓治の毒舌の対象は、武が多かった。

「おーら・・武・・どうなんだ・・言ってみろよー武・・武よー」

 啓治の声は震えていた。とっ突然P介の声が響いた。

「啓治よー、今頃バイクの免許取りに行っても・・武とは走れねーよーなーバカッ」

 その一瞬で、みんなが・・啓治に・・涙の花吹雪をあびせた・・

「ばかっ」・「バーッカッ」・「バカッー」

 啓治は涙声をさらに枯らしながら精一杯声を上げる。

「おーい・・みんな・・なんでいつもように止めないんだよー」

 みんな・・みんな・もう泣けて、泣けて、溢れた涙が洪水のようになった。

 もし武がその場にいたら(今しか乗れねーから乗るんだよ・・啓治のバカ・・お前なんか、そのまま白髪のじじいになっちまえよー)と言ったかも知れない。

 P介は、いつも啓治と武の間に入って、丸く収めていた。今夜のP介は倒れそうな啓治を支えて泣いていた。


      *


 次の日、駅で待ち合わせたP介とヒロは、誰も見送る人のいないホームを後にした。荷物は先日とは違って、米五キロ、味噌、カレールー三箱、その他腐らないものだけ詰め込んで、帰ってきたときよりも鞄はぱんぱんに膨れている。

 電車の中で、お互いの首尾についてほっとしてうなずき合った。しかし、なぜかしんみりしている。そして昨晩の出来事の続きのようにヒロがつぶやいた。

「死って、いつやってくるか分からないよなぁ・・」

顔を持ち上げたP介の目は沈んでいた。

「そんなこと分かっていたらもっと苦しむよ・・」

「人間の命って、あっけないんだ・・奴はいつも汗だくで、甲子園目指して一生懸命だった。それが・・2年後にあっけなく死ぬなんて、しかも十八年を凝縮したような、ほんの数秒で」

列車の窓から日差しが差し込んで向かい合う二人の顔を順に明るく照らした・・。

「P介、死を覚悟したらどう過ごすだろう、最後の日か?・・最後の日は・・あー思いつかねなぁー、わかんねぇーよなぁー、死ぬ前の過ごし方なんて」

「まあ、誰にだっていずれ死はおとずれるよ・・そう思うと、どっちかっていうと、今生きていること自体が死を待つ姿なのかも・・」

「なんか難しくなってきたなぁ・・やはり、やり残すことがないように何事も精一杯やることなのかもなぁー」

「そうかもしれないねー、まだまだやりたいことがいっぱいあるからな・・」

「・・・・」

      *


 その後、明かりが消えた列車に揺られながら、マスターが言っていた放火事件を思い起こし、その巧妙な手口を話していた。 そして、ここ数年で放火された場所を思い出してみた。

 真っ暗な車窓に突然、通り過ぎる駅の明かりがスパークするストロボのように何度か明滅した。

「そうだ火事は冬だった」

 おれたちにとっては、高校の二年・三年の期末試験の頃だったり、受験勉強している頃だったりと、夜遅くまで、眠い目をこすりながら起きている頃と時期が合致していた。

 この頃、深夜、数日間、火災が断続的に発生した。 そして、火災現場には必ずと言っていいほど、同級生の何人かが、一・二番で参上していた。

 二人は高二の冬のことを思い出していた。

「あの火事でKの家の物置が燃えたよなぁー、あーHの家の古い犬小屋も燃えたよー」

「その後Gの家の側のゴミ置き場も燃えたぜー、あと分かる?」

「いいや・・」

 雅斗が土産にくれたスルメをかじりながら、頭をひねった。

「Yの家の壁もじゃねぇー」

 P介が、気がついたように。

「おい、これだけでも、あの年四件だぜ・・それもみんな知っている奴だけ」

おれたちは不気味な影を感じ始めていた・・今度はふぐの乾き物を食べた。

「共通点がおれたちだとは、どうなってるんだ」

「するとよ、高三、今年の火災場所を確認してからだけど・・俺たちの知っている誰かってことに・・」

「はやまるなよ、今年の冬の放火場所が・・どこかを確かめてみないとなぁー」

 俺たちは、冬は何せ受験で東京と田舎を往復してたから、受験に関係なく地元を離れなかった奴が必要だった。 思い浮かんだのは雅人だ、二人は雅人から必要な情報を聞き出すことに決めた。

「そうだよ、そしてポイントとなるのは、今度の冬、もしまた放火かがあったら・・その時、田舎にいる奴ってことになる」

「そして、この冬に田舎に帰る奴と、そうでない奴がでる。 そうでない奴は白・・違う奴はまずはグレーだな」

 俺たちは、まず東京に着いたら、今年の火事の場所を確かめることにした。

 ヒロは、放火された奴らのことを考え続けていた、そして突然ひらめいた。

「おいっP介、KとGは俺たちと同じ高校だけど、Hは商業だ、Yは私立だよ・・」

「おい・・中学だ、中学の同級生だ」

  K・G・H・Yと、何かしら関係のあった奴ということだ。 「動機は?」とりあえず、明日の朝、雅人に聞いたら、もっと絞れるかもなぁー。

 二人を乗せた急行は朝早く上野に着いた。 そして、上野から山手線で、新宿に向かった。七時半だ、雅人に電話入れてみた。

 眠そうな声で、

「何か忘れ物か」

 ヒロは脳天気な雅人の声に、大声で話しだした。

「いいや、今年の冬の放火があったよな、その場所を知りたいんだけど」

「ふぅーん」

 雅人の頭はまだ寝ているようだ、ヒロはその鈍さにむっとしながら。

「こらっ、起きろ・・今年の冬の放火の場所を知りたいんだ」

「誰の家が焼けたんだ・・知っていることを教えてほしい」

雅人の全身に血液が流れまじめた。

「お前、なにやってんだよー」

「いいから、冬に焼けた家を教えてくれ」

「そうだねー、Sの家の車庫だろう、△町のうーん、そうそうIの家の近く・・いいやIの家の壁だよ。 それに、それにそうNの家はぼやだって言ってたな、まあこんなとこか」

 つき合わせてみた、側でP介が、ヒロの耳の向こう側から受話器に耳を当てている。

「おい・・やっぱり、みんな中学の同級生だ・・しかも中学当時、半分以上が真面目とは言えない奴らだ」

「いや、真面目な奴も三人いる」

「雅人、Sって、あの不良の頭のSだよな」

「そうだよ・・みんないやな思いをしたよな」

 P介とヒロは顔見合わせた・・雅人に礼を言って適当に話を濁して、また連絡するかも知れない旨を伝えて電話を切った。

「こいつらの共通点は何だ」

 必死な絞り込みの努力のかいもむなしく、いたずらに時間は過ぎていった。

「あー分かった、普通の生徒のHと優等生のKは、五組だよ・・でも後はばらばらだ」

「なんにもなんねーな・・」

「おい、HとYとSとGは二年の時、おれと同じ二組だよ・・」

「P介、お前三年生の時は七組だろう、おれは六組」

「何かこんがらがってきた、まず一人一人確認していくことにした・・」

P介整理しよう。駅にのチケットの申し込みに使う用紙を見つけて書き出した。


「まず、三年生のとき、 五組はKとHとG・・いいな」

「次に、三年生のとき、 六組はYとNとS」

「次に、二年生のとき、 二組はHとYとSとGな」

「じゃ、二年生のとき、 KとNのクラスと、あとはIの二年と三年のクラスだ。」

「じゃ、Iは目立たなかったからなわかんねよなぁー」

 あまりにも前のことで、浮かんできては消えるたくさんの顔が脳裏を通り過ぎる、複雑でわかんなくなりそうなパズルを一生懸命に考えた。」

「おい、なんで三年生はクラスがまたがってんのよ・・」

「わかんねぇー、よっちゃんにも聞いてみないか・・あいつ以外と覚えってかもよ」


 よっちゃんを呼び出した・・おれたちは朝早くから開いている新宿の駅前の喫茶店に集まった。よっちゃんは、いつも通りズボンを腰の高さまでぴっちり上げて、例の場所を強調している。よっちゃんは二人を見るなり「武の葬儀お疲れ様」と声を掛けながら席についた。

 よっちゃんにP介がつり上げズボンをさりげなく指摘した。

「お前のより、おれの方が大きよぉ・・強調すんなよ」

 よっちゃんは、負けずと今度はヒロを指さして、

「ヒロよりはおれの方が大きいよなぁ・・」

 そんなことどうでもよくて、ヒロはパズルの方に集中していた。

「どうだった田舎? 武の追悼式・・悲しいよなぁー」

「お前勉強してる・・模試どうだった」

「やってるけど・・なかなか伸びねぇーなぁー」

 よっちゃんが、あまりにもとんちんかんな話をするので・・真剣な顔をして。

「まずよー、これからおれの質問に答えなさい・・いいね」

「よっちゃん、お前中学校の二年生の時は何組だ?」

「んーっ・・おれ一組だよ」

 張り詰めた気持ちの力が抜け、疲れが倍増した、おれたちは、さっき田舎から着いたばかりなんだ、疲れてるのも当たりまえなんだけど・・。

「じゃっよー、KとNとIの中学校二年生と三年生の時のクラスを知りたいんだけど」

 というと。

「なんだそんなことかー」

「KとNは、二年一組だよ」

「じゃ、Iは?」

「Iは、わかんないよー。 でも、Iと仲のよっかった、女形のしんちゃんに聞けば分かるんじゃねぇー」

「よし、しんちゃんに電話して聞いてくれー」

「これなんなですか。よくわからないだけど」

「いいから、後で説明すっから、まず聞いてみてくれ、中二と中三だよ・・」

 よっちゃんは喫茶店から電話して、しんちゃんに聞いた。さんざん何で聞くのか聞かれたようだけど、本人も分からないことだから、答えられず、後でということになったらしい。それでも、Iのクラスナンバーは三年生は五組だと分かった。それを聞いたP介が。

「ヒロ、お前の隣のクラスじゃねーか」

「そうだった・・だめだね、みんなあやふやで、特に目立たない奴は」

 確信や見通しが無くて、全てがあやふやだから、みんなにストレスがかかる。

「じゃ整理するぞ」

「まず、三年生のとき、 五組は KとHとGとI・・いいな」

「次に、三年生のとき、 六組は YとNとSだ」


「次に、二年生のとき、 一組は KとNとIだ」

「じゃ、二年生のとき、 二組は HとYとSとGだ」


 P介が喫茶店の紙ナプキンに表を書いた。

「ここまでは整理できたけど、何が分かるんだ?」

「この二クラスの意味は何だ?」

 ヒロとP介はここまで追求したけど、限界が近かった。よっちゃんに放火のことを説明して、もう疲れが出て眠くなった。 このことは一時棚上げにして、アパートに早く帰って寝ることにした。


      *


 新宿でP介と分かれて池袋まではヒロとよっちゃんは一緒だ。

「ヒロ、池袋の不動産屋に、下落合の四畳半のアパートが一万二千円、目白駅から徒歩十分で出ていたよ・・お前、下赤(東武東上線の下赤塚)のアパートは失敗だった、チャンスがあったら移りたいって言ってたじゃん・・どうかなぁー」

「下赤って遠いしな」

 池袋で降りると、よっちゃんと不動産屋のガラスに貼られた物件を見た。地図と間取りがあって、なかなかいい感じだ。中に入って。

「表に貼ってある目白のアパート、明日見に行きたいんですが」

 とたずねると、すぐに大家さんに連絡してくれて、OKがでた。

「よかったね・・いい物件だといいけどね」

「まあ、とりあえず広さと、場所だからね、目白、いいじゃん」

 ヒロは長旅の疲れがちょっと軽くなったように思った。 それでもよっちゃんと別れて一人になると、それまで支えていた鉄の心棒が抜かれた見たいにがくんとなって、身体を引きずるようにして下赤塚の三畳のアパートに辿り着いた。

 米と味噌とカレールーは、やたらに重く感じられて疲れはててしまった。部屋に入ると布団にもぐって途中で目を目覚ますこともなく十時間も熟睡した。

 次の日、目白のアパートを見に行った。人の良さそうな、小綺麗な四十代の大家さんが案内してくれた。

「同じアパートのほかの部屋は、陽当たりがいいから一万四千円から一万六千円だけど、ここは陽当たりが悪いから一万二千円よ・・」

「そうですね、陽当たりがいまいちですね」

 それでも、下赤の三畳の部屋に比べて、その広さに感激していた。直ぐにでも飛びつきたい気持ちを押さえて・・ちょっと不満そうな仕草をして、そしてちょっとした条件を出して借りることにした。

「あのー、もし陽当たりのいい部屋が空いたら、優先的に移らせてもらえませんか?」

「いいわよ、この部屋条件が悪いしね、一年以内に部屋が空いたら、敷金とか礼金とか無しで、移れるってことでどう」

 ヒロは、大家さんのいい条件にうなずいた。 なんだかんだいっても目白っていう場所が気に入っていた。


      *


 ヒロは移ったばかりの目白の部屋の薄暗がりで、時々ゆっくりと川のように流れる天井の木目模様が作り出すせせらぎを眺めながら、武の死を何度も考え直していた。 いつおとづれるかもしれない『絶対』という得体の知れない『死』におびえた。 『死』がよく分からない、しかし、何だかあまりにも早い死だったと思う。 まだまだやり残したことがあるように思える。

 いつも明日があると漠然と意識している自分。 そして明日は必ずやってくるものと無意識に信じている自分。 毎日毎日、今日を必死で生き抜かないと納得した明日はこないんだろうか。 ただそれだけだ・・。 明日死ぬって考えて、今をどう生きるかなんて考えられない。 そこまで必死で考えて一息つこうとした瞬間、暗闇のどこからか叔父さんの声が響いてきた。

『おれは毎日鉄砲の弾に追われて道もないジャングルを逃げ回った。 ヒロ坊よ、そこにはとても明日なんかなかったね。 ・・悪魔は、その手に捕まえた瞬間に、口を開けた地獄の暗闇に直ぐに引きずりこもうとするのさ。 ・・足を踏み出すジャングルの草木の中に、地獄の口がいたる所に開いていた。 一緒に逃げていた仲間がいつの間にか一人また一人といなくなり、最後はおれ一人になる。 そして、倒れ込んだ草むらの中で、首筋に蛭が這ってきて、その蛭をひんむいて自分の血を見たときに、はじめて生きてることを感じるんだ・・本当の死の恐怖は、地獄の口が開いて中が垣間見えたときだよ、人間はどうしようもなく追い詰められてそれだけしか選べるものが無くなったときに絶望に支配される・・自分自身にさえも希望がもてなくなるんだよ・・』

『叔父さん、やめてくれ・・』武はあっという間に死んだんだ。 バイクで転倒して死んだんだ、奴は追い詰められてもいない。 事故だったんだ。 また叔父さんの声がする。

『だから言っているんだ、奴は何も苦しまなかったんだ。 義務や命令でバイクに乗ったわけじゃない、そしてたまたま事故にあったんなら、何も何処にも恨みや辛さをぶつける場所は無いんだ・・』そうじゃなくて、若くて死んでいくことの哀れが、かわいそうだっていっているんだ。

『そりゃ・・ちがうよヒロ坊、彷徨った奴等も皆若かった、死ねずにあのジャングルから帰ってきた奴もいたよ・・片足や片腕でない・・そいつらの苦しみながら生きながらえていく姿の方がお前の友達より幸せだっていうのかえー・・生きているからこそ感じるものに幸・不幸をつけられるのか・・だから死と生、どちらにも幸と不幸があるようなものなんじゃねぇのかー』

『お前は死の恐怖におびえていんるんじゃないな。 生きるってことがわからないことに怖がっているだけだ。 もっと追い詰められなきゃ生きてる気がしねえだろう。 馬鹿が』

 汗びっしょりになって、うなされてヒロは目を覚ました。 部屋の天井の木目をじっと見つめると、模様の奥から何かがせせらぎとなって流れはじめた。




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