冥官の果断《みょうかんのかだん》

「昼夜を問わず30日かけて東嶽呪符を練り上げました。あとは諱と享年を義兄上が書くのみとなっております。」泰爾が呪符を祇邑に手渡した。


「辱い」深々と祇邑は泰爾に頭を下げる。


「姉上には…。」


祇邑を気遣って泰爾から伝える旨を言いかけるが「比子には何も伝えないでほしい。体が弱りきっているし、心配させるだけじゃ。」


泰爾は頷き、「それでは今夜、子の刻。鬼どもに気取られぬよう呪符を隠すための呪詞の詠唱を始めます。義兄上の悲願成就を祈祷いたします。」泰爾は感じていた。


東嶽呪符を作った自分にも呪いが掛かるだろう。


3ヶ月前…。


祇邑の父、小野夆守(おののみねもり)が安倍益材、賀茂岑雄と共に大将軍・坂上大宿禰(さかのうえのおおすくね)を訪ねていた。


「大宿禰殿。ご多忙の中、面会して頂き誠に有り難き幸せ。」夆守が大宿禰に相談している。


「従四位(じゅしい)殿。ここにおるのは源春宮権大進(みなもとのみこのみやごんたいしん)です。信頼していい男だ。どうぞ、お話をお聞かせください。」


大宿禰が源頼煌を訝(いぶか)しんでいる夆守に背中を押す。


「ここにおられる方々。ここでお話しすることはご内密にお願いいたします。私もまだ半信半疑です。天地がひっくり返ることを愚息が企んでいるとは。」


夆守は続ける。


「安倍右京亮殿からお話をして頂きました。愚息の奥方の弟君になります。ご存知の通り右京亮殿はいずれ陰陽道の棟梁になられるお方。」


さらに続ける。


「ここからは心してお聞きください。」夆守の話が終わり、静まり返る。


大宿禰は目を閉じ、腕を組んでじっと話を聞いている。


「右京亮殿は最後に言われました。」夆守が言われた事をなぞる。


「五行占霊により分かったことは誰にもこれを止める事が出来い。ただ、備えることは出来る。備えがお願いできるのは大将軍のみ。


自分は謀反人の一人となります。


私からお願いする事が出来ません。


義父様、この事を大将軍・坂上大宿禰当宗(さかのうえのおおすくねまさむね)様にお伝えください。」


大宿禰の目がかっと見開く。


「右京亮め、儂が対応を迷っている事もお見通しか。この一大事に逃げ出せば、諱に呪いをかけるか。」そして大宿禰が続ける。


「獄の変が阻めないのは人の力だけでは無い。大きな力が動いている。参議殿や右京亮殿は犠牲者かも知れぬ。」


安倍益材と賀茂岑雄は共に涙を流した。


陰陽道の希望となるはずだった若き天才、安倍泰爾の謀反は陰陽道にとって大きな傷を残すことになる。


「すぐに招集して欲しい。ただし精鋭のみ。武者からは頼煌武士団(らいこうぶしだん)! そして陰陽道からは六壬神火。勘解由五尭! これは訓練ではない。」


大将軍・大宿禰の大号令である。


深夜、天に巨大な一つ眼が現れ。下界を見つめている。


丑の刻。


2人の男が京都嵯峨野、髑髏原の井戸から冥界へ降りて行った。


普段通りの冥府での仕事。


いつもと変わらず祇邑は焔摩大王の傍に座し、亡者への刑罰を確認していた。


焔摩大王のすぐ隣に霊剣が刺されており。


剣の頭にある独眼の六道眼が現世での罪を暴き亡者に責苦を課していた。


その日の御沙汰が終わり、大王は執務室へ。


六道眼は目を閉じた。


祇邑はこの時を待っていた。


平静を保ちつつ、この日の判決結果を書面に書いている。


鬼たちがゾロゾロと退出していく。鬼たちとすれ違う形で良相が入ってきた。


何食わぬ顔をして本の整理をする。「参議殿。」良相が祇邑を促す。


祇邑は剣に近づいていく。「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前(りん、ぴょう、とう、しゃ、かい、じん、れつ、ざい、ぜん)」安倍泰爾から教わった九字の呪文を唱え霊剣の前に立った。


不思議と鬼たちは寄って来ない。


「祓え給い、清め給え!」祇邑は懐から東嶽呪符を出し、10メートルはある下に突き刺された剣の切先に呪布を貼り付けた。


「永子よ!戻って来い!」呪符を貼った瞬間、雷鳴と共に巨大な放電が放たれる。


祇邑と良相は衝撃で吹き飛ばされる。


祇邑は吹き飛ばされたが空中に止まっている。


良相は地面に転がり祇邑を探す。


「参議殿!」良相は空中にいる祇邑に気付いた。


その時「キィーーーーン!」と耳を擘く音がし、良相は思わず耳を塞ぐ。耳を押さえながら空中の祇邑に目をやると服がゆらゆら揺れて、立ったまま空中に浮いている。


よく見ると透けている。色も無くなっていて全体がセピア色になっていた。動けないらしい。


咄嗟に判断した良相は祇邑の顔が見える正面に回り込んだ。


祇邑は良相を見下ろすと微笑んだ。


再び「キィーーーーン!」と耳を擘く音がする。良相が突っ伏して耳を塞ぎ、すぐ顔を上げると祇邑は跡形もなく消えていた。


「囚われた。」良相は直感した。


「まさむらどの〜!」祇邑を探すがどこにもいない。どれくらい時間が経ったろう。


呆然としていると背後から気配がした。


「鬼か!」振り返ると羽衣をふわりふわりと靡(なび)かせて空中を泳いでいる。


天女であった。「あなたは?」良相が問う。


「私は怪しい者ではありません。見ての通りただの天女です。」良相は何かを隠すための常套句に感じた。


「はぁ。見たままですね。」敵意は感じられず良相は取り敢えず納得する。


「そんなことより。あの呪布が貼られている黒餅をこの巾で隠しなさい。」


天女が指を刺すと先程まで10メートルはあった霊剣が黒餅に変わっていた。


「あ!はい。」良相は衝撃のあまり本来の目的をすっかり忘れていた。


天女から巾を受け取る時、体が勝手に片膝を着き頭を下げ両の手を高々と上げて受け取った。


「いいから!早くこの巾を受け取りなさい!」天女が急がせる。


「このお方に、逆らえない。」良相は背筋が凍り、天女が神である事を確信した。


そして死を覚悟した。呪布が貼られた黒餅を抱き抱え巾を被せた。ずっしりと重かったが持てなくはない。


「こっちへ。」天女と一緒に焔摩大王の執務室に向かった。途中、鬼たちが倒れていたが意識が無かった。


そして執務室に入ると巨大な氷河が執務室の中に雪崩れ込んでいた。部屋の中はいろんな物が散乱。


その氷河の中をよく見ると体長10メートルはある焔摩大王が鎮座している。良相は声が出ないように口を押さえた。


顔は下からだと表情が見えない。「これは。」良相は声を絞り出す。


「見ての通り。焔摩は封印されたわ。これから地獄と地上が一つになる。亡者と鬼達が行き場を失って地上に出てくる。


自分たちの楽園を作るつもりよ。人間はどうするつもり?」天女が微笑む。


「あなたは。誰でござるか?」神であることは間違いない。良相は思わず聞いてしまった。


「私の名は…」天女が自分の名前を言うと、良相の額に天女の人差し指が「トン。」と触れる。


「あっ。」良相は惚けるがはっと我に帰る。


「あなたは。誰ですか?」良相が再び尋ねる。


「今言ったでしょ!女(おなご)に二度も聞くなんて野暮でね〜。」天女がはぐらかすと「は?」良相は数秒の記憶を消された。


「神に拝謁するのは、亡霊?鬼?それとも人間?始まるわよ〜!」


「獄の変が!」


微かに大地が揺れている。


「すぐ髑髏原の井戸に向かいなさい。ご察しの通り祇邑は囚われたわ。もうここには居ない。」


「もうすぐ鬼達が目を覚ます。あなたを捕まえにくるわ。でも地上に出るまで巾が守ってくれる。安心して。ただし!決して後ろを振り返らないで!何があっても!いいわね!」


次第に大地の揺れが大きくなっていく。良相は髑髏原に向かって走り出していた。


途中倒れている鬼達も少しずつ動いていた。ただまだ完全には立ち上がれない。その中を良相は一心不乱に走り続ける。


天女は藤原良相を見送ったあと、執務室に入って行った。


氷河に閉じ込められた焔摩大王を見上げていた。


「焔摩…。ううぅ。」氷河に触れ、焔摩大王の変わり果てた姿に涙を流していた。


「ううぅ。うう。ふふ。フフフ。ハハ。アハハ。あ〜はっはっはっ!あ〜はっはっはっ!」天女は何故か大笑いしている。


「こんなに順調な獄の変は9万年ぶりよ。焔摩、何回も懲りずに引っ掛かるわね〜。ちょっとは学習しなさい。」


獄の変は14万年前、9万年前、7300年前と繰り返されていた。


「もしかしたら。焔摩…。あなたも思いは一緒?」


獄の変を実行する少し前。


藤原良相は密かに坂上大宿禰と面会を果たしていた。


「右京亮殿より話は聞いております。」藤原良相は大宿禰と作戦について詰めていた。


「私はただ永子様を母上に一目、合わせてあげたい一心です。」良相は朝廷に対する謀反を疑われていないかと必死に弁明した。


「承知いたしております。西三条殿が今上陛下に対して謀反を起こすなど誰も思っておりませぬ。」坂上大宿禰が笑顔で頷いている。


「それでは髑髏原の井戸から出てからの作戦です。」横から源頼煌が作戦の一部始終を説明する。


「心得ました。私はただ一目散に走れば良いのですな。」良相が自分の役割を要約した。


「この作戦。陰陽道が無ければ、神刀剣、星兜、破魔雷上…。これらが無ければ百鬼などに対等に戦える訳がない。何か大きな意思の意図を感じる。伝説によれば、これらは東嶽大帝(とうがくたいてい)より借り受けている神道具(かむとうのそなえ)と聞く。」


大宿禰が続ける。


「しかし、不安材料もある。我々は陰陽道の最高峰、安倍右京亮を封じられた。この意図は何なのか。右京亮殿では最後に負けるのか? であれば…。私が出会った最強の陰陽道を使う日巫女(ひのみこ)藤原正子(ふじわらのなをこ)殿に…。」


大宿禰はさらに続ける。


「皆様、獄の変が始まるまでニ刻。髑髏原から追ってきた鬼と亡霊は鬼界山に押し出されます。本当の戦いはそこからです。二刻の間、耐えてくだされ。」


この10年、強大な鬼や怨霊などに対抗すべく国を挙げて備えてきた陰陽師と武者の軍団。


期せずして人の存亡を脅かす事態が始まろうとしていた。

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