小野祇邑《おののまさむら》
「べえぇろべぇろべろば〜!」「ベェベェべぇろべろブば〜!」小野祇邑と安倍泰爾(あべのやすちか)が競うようにして赤子をあやしている。
「きゃっきゃっきゃ。」長年子宝に恵まれなかった祇邑に、雪のように白く、可愛らしい玉のような女の子を授かった。
祇邑と赤ちゃんを微笑ましく眺めながら横になっている妻、比子(ならぶこ)。
赤ちゃんをあやしながら妻の下へ、「比子。よう頑張ってくれた。ありがとう。ありがとう。」待望の我が子に目に光るものがあった。
比子は唯々笑顔で祇邑の言葉に答えている。
「それにしても、ちか。あんたあやすのは良いけど唾が飛びすぎなのよ。病気にでもなったらどうするの。」弟、安倍泰爾には幼い頃から比子は手厳しい。
何故なら泰爾は3歳から生意気であった。
「姉上。この子が笑顔になるのであれば、何でもやりまする。唾など散樂(さんがく)の曲芸みたいなものです。あと消毒にもなりますし。」
祇邑から泰爾へ赤子が渡され、まだ首が座っておらず脇で首を抱え、大事にあやしている。と玄関から「ごめんくださ〜い。」と声がした。
翌日、「参議殿。昨日妻がお邪魔しまして申し訳ござらぬ。言い出したら聞きませんで、早く赤子を抱きたいとあっという間に家を出て行きました。
奥方様もご出産されたばかりで申し訳なく存ずる。ですが聞きましたぞ。玉のように可愛らしいそうですな。
ご令嬢。比子様のお子であれば、都一の美女になられますでしょう。」宮中へ共に参内する折、同僚の藤原良相(ふじわらのよしみ)がマシンガンのように捲(まく)し立てる。
寡黙な祇邑、誰とも分け隔てなく話を盛り上げる良相。相反するような性格の2人だが何故だか馬が会う。
「西三条殿も是非、赤子を抱っこしてくだされ。昔から言いまする、いろんな方々から抱っこしてもらうと強い子になります。いつでもお待ちしております。」
と社交辞令で祇邑が言うと「かたじけない。それでは早速、明日、直方を連れてお邪魔します。まだよちよち歩きですが未来の亭主として立候補させていただきます。」
「明日…。はい。」と笑顔ながら若干引き気味の祇邑。
ある日、「命名、小野永子(おののはるこ)。皆様、今後ともお見知り置きをお願いいたします。」自宅にて親戚、お世話になってる方々を招いて、ささやかながら誕生の祝いが執り行われていた。
小野祇邑は笑顔に包まれていた。
2年後…。
「はぁ!はぁ!」宮中から急ぎ邸宅に帰る小野祇邑の姿があった。慌ただしく帰宅すると寝室で横になっている我が子、永子がいた。
息が荒く眠っている。
額には水に浸した手拭いが置いてあり、寝返りを打って転がり落ちる手拭いを母、比子がもう一度額に当てていた。
布団の周りには医師(くすし)の和気貞説(わけのさだとき)とその助手、母比子、世話係の女房たちが心配そうに見ていた。
「先生!永子の容態はどうですか。」祇邑は声を抑えながら聞く。比子も医師の話を聞こうと祇邑の傍に寄り添う。
「熱が高い。症状は今都で流行っている疫病(えやみ)と同じです。ここ2〜3日がヤマですな。」
「ううっ。」涙を浮かべ比子は永子の元へ行き手を握って看病するのであった。
「陰陽師に祈祷をお願いいたしましょう。」貞説が祇邑に進言する。
「それであれば、もうすぐここへ参ります。」と言った矢先、安倍泰爾が入ってきた。
「義兄上、姉上。永子の容態は如何ですか!」入るや否や泰爾は矢継ぎ早に聞いてくる。
「右京亮(うきょうのすけ)殿、来て早々ではあるが一刻を争う。永子の祈祷をお願いしたい。」祇邑が思い詰めた顔で願い出てきた。
それを見た泰爾はことの深刻さを知り、表情が変わる。「承知いたしました。すぐ始めましょう。準備いたします。」泰爾は祈祷の道具を用意するため一度帰ろうとする。
「ちか!あなた今、陰陽道の最高峰なのでしょ。お願い!永子を助けてあげて。」比子は泰爾に懇願する。
「姉上…。私が出来ることは何でもやらせて頂きます。」「永子のために。」と言い残すと邸宅を後にした。
「姉上…。陰陽師は運命を変えることはできません。占いで先を見通すことは出来ても、結果を変える事は出来ないのです。
もし、運命を変えるために謀(はかりごと)を労しても、道が変わるだけで辿り着く場所は変わりませぬ。」
道すがら泰爾は自分に言い聞かせるように呟いていた。
庭に祈祷具を用意し、祭祓(まつりはらえ)が始まった。
魔障調伏(ましょうちょうぶく)、病魔退散(びょうまたいさん)。
陰陽師が交代で三日三晩、祈祷を行なっていく。
祈祷に来てくれたのは安倍益材(あべのますき)、賀茂岑雄(かものみねお)など名だたる陰陽師たちであった。
「右京亮殿。比子様のお気持ち。痛いほどです。」安倍益材が後ろから泰爾に語りかける。
「一刻でも長く。親子で頂けるよう。全力をあげましょう。」陰陽師たちは占術により運命が見えていた。
高熱が出て6日目、次第に熱が下がってきた。永子も少し話せるようになっていた。
「か、か、うえ」うっすら母が見え呼んでいる。「はる。」母は優しく語りかける。
永子は安心したのか目を閉じてふ〜っと息を吐く。
庭では安倍泰爾が最後の力を振り絞って祈祷する。
泰爾の陰陽の力により、焚いていた火が轟音を立てて炎の柱になっていた。
「永子!少しでも長く!母君と!」
2日後…。
永子は賽の河原にいた。3歳まで生きられなかった親不孝を申し訳なく思い、石塔を積み上げている。
「ととうえ、かかうえ。どうかおれんきで。もうし、け、ありん。」
京都嵯峨野の髑髏原、井戸の地下深く、冥界は広がっていた。
現世(うつしよ)と常夜(とこよ)の通じる路、それがこの井戸であった。
小野祇邑は宮中に出仕しながら、冥府の冥官として焔摩大王(えまのおおきみ)の補佐を藤原良相と共に行っていた。
今では焔摩大王から一目置かれる存在になっていた。
ある日を境に毎晩、賽の河原の我が子を遠くで見守っている。
半年後…。
近づくことも、声をかけることも触れることも出来ない。
唯々石塔を積んでは崩れ落ちる繰り返しを見ていた。
永子が亡くなって半年。
「獄の変」を決行することだけを思い詰めていた。
と藤原良相がやってきた。
「参議殿。永子様も石積みが終われば地蔵菩薩がお救いなさいます。ご安心なされませ。」祇邑を慰めるように肩を叩く。
「西三条殿。お願いがございまする。」
祇邑は邸宅に良相と泰爾を呼び寄せた。
半年前…。
「右京亮殿!永子のために全霊で祈祷して頂き、どう感謝を申し上げてよいか。有り難く。辱い(かたじけない)。」
「ただ最後に一つだけ、お願いがございます。永子を反魂(はんごん)にて、もう一度、もう一度だけ。この手に抱かせてくださりませ!この通りでございます!」
祇邑は土下座をして泰爾に懇願した。
「義兄上。お手をお上げください。反魂は死者を蘇らせますが魂は蘇りません。心は獣になって人々に危害を加えます。義兄上と姉上がどうなるか。命さえ危ぶまれます。」
「あの、可愛い、可愛い姪が凶暴な虎となって襲いかかります。到底、抱っこする事はできませぬ。」
「それでは!どうしたら! うううぅ。」泣き崩れる祇邑であった。
「今は…。」泰爾は言葉を詰まらせた。「今は、小さな身体で大病と戦った永子を休ませてあげましょう。」
泰爾にも涙が溢れていた。
祇邑の邸宅は悲しみで包まれた。
翌日…。
祇邑は誰かに誘(いざな)われるように、焔摩大王の執務室の前に立っていた。
取り憑かれたように焔摩大王の執務室の本棚にあった書物を盗み見た。
それを書き留め、家に持ち帰り、書物の写しを読み耽っていた。
「六道眼(りくどうがん)。霊剣(みたまのつるぎ)。黒き玉鋼。東嶽呪符(とうがくのじゅふ)」
ページをめくる。以前、焔摩大王から聞いたことを一言一句漏らさぬよう書き記していた。
「獄の変(ひとやのへん)…。獄の変が成就すると亡霊が百鬼と共に現世に戻ってくる。
そして東嶽呪符に諱を刻むと書いたものが囚われの身になり、諱の者が生き返る。
獄の変を覆すには生き返った諱の者を殺すこと。ただそれは簡単ではない。
何故なら六道眼が新たな主人として諱の者を守り抜く。
六道眼は東嶽大帝(とうがくたいてい)が授けたもので焔摩大王でさえ、手が出せない。
諱の者を殺すことは叶わぬ。」
小野祇邑邸。藤原良相と安倍泰爾が揃っていた。
祇邑は自分の命と引き換えに獄の変を決行しようとしていた。
悲痛な思いを持った祇邑を不憫に思い、良相も協力するのであった。
泰爾は永子が亡くなって以来、ずっと伏せっている姉が見ていられない。
もう一度、永子を姉の元へ。幾度となく祇邑から聞いた言葉が自分の言葉のように思えてきた。
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