第6話 記憶

「何?」

 黄色――。

 黄色が見えた。

 そう、黄色い。はっきりとした黄色。

 それは記憶――

 なぜか黄色い折り紙だけがあって――。

 黄色のその奥の、光り輝くような記憶の渦に意識が吸い込まれるように入っていく。そして、閉じていた私の記憶が万華鏡の光の束のように開いた。

 幼い、何も知らない小さな小さな幼い子どもがいた。その子は、一人、たった一人、ただ一人汚れた部屋の真ん中で、黄色い折り紙で何かを折っている。たった一人、こたつ机に座り、自分が今どういう状況にいるのかさえ知らず、そのよたよたとした手つきで折り紙を折っている。

 私はその子を見た。ご飯もろくに食べさせてもらえず、愛情もなく、保護もなく、たった一人――、部屋で、寂しく、惨めで、悲しくて――、私は・・。私は・・。

 でも、その子は分かっていない。何も分かっていない。自分が置かれている状況も、自分の悲しさも惨めさも寂しさも――。

「ああああ、ああああ」

 言葉にならない感情が突き上げる。

「ああああああああああっ」

 腹の底から猛烈な怒りが湧き上がって来た。すべての――、世界中のすべての物を壊してしまいたくなるような堪らない怒りだった。

 怒り怒り怒り怒り怒り怒り――、猛烈な怒りの感情が私の中に嵐のように渦巻いた。今まで胸の奥に押し込め固く封印して来た私の本当の感情。それが、地の底の分厚い岩盤が吹っ飛び、突然ものすごい勢いで溜まりに溜まったどす黒いマグマが噴き出すように、心の奥底から次々と湧き出して来る。怒り、憎しみ、悲しみ、苦しさ、辛さ、寂しさ、惨めさ、絶望、ありとあらゆる負の感情の渦が混ざり合い、もはやどんな感情なのかさえも分からない堪らない感情が私の胸を激しく突き上げる。

「あああああああっ」

 今まで私の心の奥底に封印されてきた感情。

 私は何も感じていないんじゃなかった。辛い感情を心の奥底に何も感じないように封印していただけだった。

「ああああああああああっ」

 溢れる慟哭のような叫び。苦しくて苦しくて、どうしていいか分からなかった。感情が、堪らない感情が溢れて、溢れ過ぎて私はもう気が狂ってしまいそうだった。

 私はその幼い子を抱きしめた。しっかりと、しっかりと抱きしめた。「一人じゃない。一人じゃないよ。あなたは一人じゃない」

 私はその子を抱きしめた。強く、温かく、しっかりと抱きしめた。

「あなたは一人じゃない。一人じゃない」

 私はその子を強く強く抱きしめた。

「一人じゃない」

 一人じゃない。一人じゃない。私は私に言った。

「ううううっ」

 私は気づくと滂沱と涙を流していた。私は物心ついて一度として流したことのない感情の溢れる涙。悲しくて、寂しくて、苦しくて、そして孤独――。ここまで私は、堪らない孤独を抱え一人生きてきた。そのことに私は泣いていた。溢れる寂しさが私を包んでいた。そう私は寂しかった。私はずっと一人だった。守られるべき、何かを私は得られずに、その永遠の孤独を私はずっとそれでも一人で生きてきたのだ。

 私はがんばった。がんばって生きてきた。たった一人、あの幼い子どもの私は――、けなげに一人ここまで生きてきたのだ。 

 私は泣いた。悲しくて泣いた。苦しいから泣いた。そんな当たり前のことさえも私はこれまでできなかったのだ。悲しみを封印しなければ、余りにも悲し過ぎて、余りにも苦し過ぎて生きてこれなかったのだ。

 私は心の奥底に流れていた痛みに気づいた。私はずっと傷ついていた。ずっとずっと、傷ついていた。痛くて痛くて、その堪らない心の傷を心の奥底に押し込めて私は必死で生きていたのだ。

「ううううっ」

 私は泣いた――。泣いた――。

「許してあげなさい」

 その話をすると師匠はそれだけを言った。それ以外何も言わなかった。ただ微笑んでいた。慈愛に満ちたあのいつもの顔で――。

 私はこの時、気づいた。私は私を呪い憎んでいた。私の人生を呪っていた。私を一番傷つけていたのは私自身だった。

「・・・」

 私は私を許そうと思った。そして、私を傷つけたありとあらゆることを、人を、許そうと思った――。


 一か月が経ち、日本に帰る日が来た。

「あなたはここで死になさい」

 そんな私の背中にお師匠様が言った。その言葉が、私の中のずっと空いていた空洞にピタリとはまった。うれしかった。とても、うれしかった。それ以上の言葉がないくらいうれしかった。私の中のずっと求めていた何かもやもやとした灰色の雲が晴れていくのを感じた。私はずっと自分が死ねる場所を探していたのだと、この時気づいた。

 私は日本に帰ると、いつもの日常に戻った。あの普通の日々――。しかし、私はもう以前の私ではなかった。

 空っぽの私がいた。何ものでもない私。私は私という文脈から切り離され、自由だった。

 そして、私はすべてを捨てた。ありとあらゆるものをすべて――。

 

 私は師匠の下に舞い戻ると、髪を落とし尼僧になった――。


 ―――


 そして、三十年が経った。

 私の心はどこまでも穏やかで満たされていた。それは完全な幸福。完璧な祝福。

 私のあの死にたいとまで思ったあの辛い日々は、しかし、ここに至る境地への道程でしかなかった。むしろ、あの苦しみこそがここへと私を導いたのだった。傷つくこと、失うこと、他の人間が当たり前に持っているものを何も手に入れられないということによって私は導かれていたのだ。

 世界は最初から何もなく、何も起こってなどいなかった。世界は最初からただそれだけで完璧で美しかった。苦しんだ私もいなかったし、その世界もなかった。だから、私の苦しみもなかった。私はそのことに気づいた。

 私の旅は終わった。そう感じた。



                      おわり

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道程 ロッドユール @rod0yuuru

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