第3話 事件

 黄色――。

 風が吹いて消えて行くように、その色がまた私の頭に浮かんで、またすぐどこかに消えて行った。


 しかし、人生は予定通りにはいかない。人間の立てた予想など外れるのが常で、そして、そういうものだった。そして、不確定要素は確実に人間の作り出す秩序を壊す。

 それは突然やって来た。祝日のよく晴れた気持ちのよい暖かい日のお昼時。私は人混みのするそんな祝日のどこか浮かれた街の駅前の中心街を同僚の女の子たちと歩いていた。それはなんてことないいつもの休日ののどかな時間だった。当たり前に続く日常の延長にあるその日は、また当たり前に同じような明日があるのだと、疑う余地もないほどに私に確信させていた。

 突然、歩いていた私たちのすぐ目の前に車が突っ込んできた。灰色のプリウスだった。私たちの前を歩いていた多くの人たちが、私たちの左から右にありえないくらいの勢いで、瞬間移動するみたいに吹っ飛んで行った。そして、とまった車の中から男が出てきた。手には大きな、一目で何かプロの使う本格的な物だと分かる重厚なナイフを握っていた。

 男はそのナイフを振り回し、通行人を切りつけ始めた。私たちの前にいた通行人たちが次々倒れていく。そして、私の両隣りにいた同僚の子たちも何かスイッチが切れたみたいに倒れていった。私はそれをただその場に突っ立って見ていた。動くことも思考することもできず、私はただ、その場に突っ立っていた。

「・・・」

 私の目の前で次々、人間が虫のようにかんたんに殺され、死んでいった。それは、他人事みたいに、何かの非現実的な抽象的な映画を見ているみたいに、現実感のない、水の中にたゆたう感覚の歪んだ世界を見ているようだった。

「・・・」

 私はただ、何もできず動くことすらもできず、そこに棒のように立ち尽くして、その光景を見ていた。何も考えられず、動くこともできなかった。

 でも、私はなぜか無傷だった。その場の中心にいるはずの私が、男から私だけが見えていないかのように私には何も起こらなかった。

 気づくと、私の前にはたくさんの動かない人と、たくさんの血が流れていた。

 あまりに突然で、何が起こったのか何も分からなかった。さっきまで一緒に歩きおしゃべりをしていた同僚の女の子たちが両隣りで、それがさも当たり前であるかのように倒れて死んでいた。その目に光はなく、その口はだらしなく開かれていた。

「・・・」

 血の海の中で、私は一人、時間も空間もなんだかとまったまま固まったみたいな世界で、何も考えられず、動けず、ただその場に立体の看板みたいにつっ立っていた。

 どこか離れたところで、そんな血だまりの中で犯人の男が泣いているのが見えた。自分で自分を刺し、しかし、死にきれず男はその場に膝まづき、全身血まみれの状態でまるで自分が被害者であるかのようにしきりと泣きじゃくっていた。


 ――黄色――

 その色が見えた。そして、消えて行く・・。


 気づくと私は病院のベッドに寝ていた。

「意識が戻りました」

 女性の声がした。

「・・・」

 私は天井を見つめていた。黒いひじきのような模様の入った、どこにでもある石膏ボード。なんとなく、今自分が置かれている状況は分かっていた。ここは病院で、あの出来事は夢じゃない・・。でも、そこに現実感はなく、私はただそこにふわふわといて、なんだか分からないまま横になっていた。

「ケガはどこもないみたいですね」

 医者がやって来て、枕元で言った。

「あれだけの惨事の中心にいて、奇跡ですよ」

 医者は重ねて言った。

「よかったですね」

 隣りの看護婦さんが私の顔を覗き込みながら言った。

「・・・」

 私はその顔を目だけ動かして見つめながら、言葉もなく黙っていた。なんだか、すべてに現実感がなかった。今、自分が生きていることにも、それはなかった・・。

 その日の夜、私は何事もなかったいつもの日常の一コマのように、病院から一人歩いて家まで帰った。そのことがなんだか奇妙な気がした。

 家に帰ってから、小腹が空いていつものように、カップラーメンにお湯を入れて食べた。それもなんだか奇妙な気がした。


「・・・」

 同僚たちの遺体の入った棺が並ぶ。お葬式――、私だけがここに立っていることに、不思議な違和感を感じた。私と彼女たちの何が違うの?私は棺の中の彼女たちを見つめる。血の通わない固くなった顔――。

 涙が出た。涙だけが出た。悲しみは感じなかった。心は恐ろしいほどに静かだった。私の心は、こんな時でもやっぱり何も感じていなかった。

「よかった?」

 私はふと、病院のベッドで看護婦の言った言葉を思い出した。

「よかったの?」

 私は、その言葉を頭の中で繰り返した。

「よかったの?助かってよかったの?私は助かってよかったの?」

 その疑問が溢れる洪水のように私の頭を支配した。

 

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