第2話 就職
「何?」
――黄色――
なんだろう。ふと、その色がまた気になった。
「何だろう・・」
でも、やっぱり、よく分からなった。
とりたてて何もなかった高校を無事卒業し、私は地元の中堅の中小企業の事務員として就職した。施設からも独立し、自分の部屋を借り、とても安いがお給料ももらえて、ご飯も普通に食べられる日々――。お風呂にも毎日入れたし、服も買えた。贅沢はできないけれど、欲しい物も少しは買えた。何より、好きな時に好きなことのできる時間と空間があった。
幼い時の生活を考えれば天国のような毎日だった。それは普通の人の普通の生活。
十分だった。そんな生活で私には十分だった。普通の人の普通の人生――。それが私にとっては、最高の贅沢だった。
「・・・」
私は、休みの日、新しく借りたワンルームマンションの五階の自分の部屋の窓から外を眺めた。決して、それほど景色がいいわけではなかったけれど、それでも、新しい生活の新しい景色は輝いて見えた。
――黄色――
また、その色がチラリと脳裏に見えた。そして、何かがその色の向こうに見えかけた。しかし、それはすぐに消えてしまった――。
漠然と思い描いていた普通の生活――。普通に、仕事をし、何事もなく生活し、そんな日常が当たり前に流れていく。だが――、
だが、私の生活には色がなかった。世界はどこまで行っても灰色で、硬く無機質だった。何も感じない。感じることがどこかに消えてしまったみたいに、そこには温度がなかった。
日常のちょっとした隙間に、時々、私は無性に自分を壊したくなった。
堪らなく堪らなく、どうしようもなく、すべてを破壊したくなる衝動が私を突き上げる。この社会もこの社会に生きるすべての人間も、そして、私自身も、すべてを破壊して無茶苦茶にして、殺して、切り刻んで、傷つけて、消してしまいたかった。そんなどうしようもない衝動が私を無性に苛む。
「くさい、くさい」
頭のどこかで、今もそんな声が聞こえていた。私は、毎日血が滲むまで体を洗った。自分が今も臭いのではないかという不安が常におんぶお化けに憑りつかれでもしているかのように私につきまとっていた。
大人になっても私には自己肯定感がまったくなかった。自分は劣った人間なのだという漠然とした確信が今も私を形作っていた。原体験として否定され続けた私という人格が立ち直ることはなかった。立ち直る正解がそもそも私にはないのだ。私は間違っていた。私という存在が間違っていた。間違いが私だった。
普通に生きている自分の中で、しかし、人生はやはり苦しいのだと、どこまで行っても苦しいのだと、それを学ばない日はなかった。その私の背負った理不尽を抜けられないのだと、どこまで行っても抜けられないのだと、私はどこかで知っていた。
むしろ壊れてしまった方がどれほど楽だろうか。私はそう思っていた。壊れてしまいたかった。もう二度と立ち直れないほどに、完全に壊れてしまいたかった。そうすれば私は私をやめられる。
苦しかった。幸せなはずの安定した平穏な生活。幸せなはずだった。でも、苦しかった。堪らなく苦しかった。何が苦しいのかすらが分からない漠然とした苦しみが私の心を覆い、いつも私を苛んでいた。
でも、私は普段、そんなことはおくびにも出さなかった。私は、いつも通り普通に仕事をし、普通に、笑顔で近所の人にあいさつをし、会社に行けば同僚と笑い合った。
「ねぇ、菜穂、昨日見た?」
「えっ、何を?」
仕事の休憩時間、いつものメンバーのいつものおバカな会話。下らない話で盛り上がり、笑い合う。
私が、笑顔でみんなと話をしている時に、死にたいと思っているなんて誰も知らないだろう。私が、普通にみんなとワイワイやっている時に、頭の中で自分を切り刻んでいるなんて誰も知りもしないだろう。
――黄色――
またその色が目の前にちらつく。
同僚の子たちは私を普通に受け入れてくれている。まるで、自分たちと同じ普通の人間であるみたいに。
そんな中、でも、私は違う人間なんだと感じていた。私はみんなとは違う。そう感じる。はっきりと・・。
「菜穂さんて、なんかうらやましいです」
何がうらやましいのか分からなかったが、社会人三年目のある日、後輩の女の子からそんなことを言われた。だけど、
「・・・」
だけど、やっぱり私は違う。私は孤独だった――。
それでも、私は与えられた日常を生きた。これだって貴重なものだった。なんだかんだ、結局、高校も卒業できたし、友だちなんかもできた。就職もできて、同僚の子たちともうまくやっている。ろくでもない男たちばかりだったけど彼氏も何人かできた。たまに、仲のいい子たちとお酒を飲み行ったり、買い物に行ったり、そんな時間も楽しかった。
私は、普通に生きることができた。頭はあまりよくなかったけど、世間一般の最低限のことはできたし、私は自分の人生を歩くことができた。辛い心を抱えながら、でも、仕事を続けることもできたし、同僚とも要領よくやっていくこともできた。相変わらず辛いことがあっても何も感じなかったし、泣くこともなかった。仕事を休むこともなかったし、仕事ができなくなることもなかった。
当たり前の日常が当たり前に流れていく。特別何もないけど、特別不幸なこともない。多分、これを世間一般では幸せというのだろう。私もそう思った。
それは、はたから見たら普通の一般的な女子のその人生なのだろう。そんな人生を私は生きていた。
だから、自分を頭の中で切り刻みながら、そんなことを思いながら、でも、それでもなんとなく、今の生活を続けていくのだろうなと私は思っていた。そして、そのまま年を取り、そんな人生で終わっていく――。そういうものなのだろう。私の人生は――。そんな風に漠然と思っていた。
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