ヤマメと水無川

藤泉都理

ヤマメと水無川




 この川ももう、なくなっちまうんだわ。

 ぽつりぽつり。

 薄く張った水面に静かな波紋を作り出す一雫の雨が如く。

 父は言葉を落とす。

 ぽつりぽつり。




 木に浸食されて、なくなっちまうんだわ。






 水無川みずなしがわ

 普段は水がない川で、雨が降った時に出没する川の事。


 どこに隠れているのか。

 大量にある丸石の下には水が流れているのか。

 不思議な事に、水の流れができると、ヤマメもまた姿を現す。

 三月から八月まで、と期間限定ではあるものの。

 ゆえに、本日七月十六日も。


「昔はメダカも一緒に泳いでいたって、父は言ってたっけ」


 川とそれほど高低差がない川べりの敷き詰められた丸石に直に座って、穏やかに流れる川の水に足を浸す。

 氷水のような冷たく、火照った身体には心地よく感じながらも、ずっと浸していたら感覚が麻痺しそうだなと思いながら、澄み切った川の流れに逆らいながら悠々と泳ぐ一匹のヤマメを見続けていた。


 ヤマメ。

 サケ目サケ科に属する魚であるサクラマスの内、降海せずに一生を河川で過ごす河川残留型の個体の事。

 サケ科の高級魚で、渓流の女王と言われている。

 身体の側面、背中からパーマークと呼ばれる楕円状の黒い斑紋が特徴で、全体的にほんのりと赤みを帯びている。

 味はほんのりとした甘みがあるのが特徴。


「父が小さい頃は手で掴まえて、塩焼きにして、よく食べていたらしいけど。今では、全面禁止だしなあ。もし、あんたを取って食べちゃったら。ううん、食べないでもここから連れ出したら。私、罰金を取られるのよ。何円だったかな。十万。三十万。だった。かな。三十万か。まあ、払えない事はないけど。あんたに三十万の価値はあるのかしら」


 ちゃぷりちゃぷり。

 川に浸している足を上下に動かして、それなりに大きな振動を与えるも、ヤマメは意に介さず、近くを悠々と泳ぎ続ける。


 あんなに自由自在にこんな清涼の水中を泳げたら、それはそれは気持ちいいに違いない。

 いや、よしんば泳げずとも、せめて、ぷかりぷかりと浮く事ができたのならば。


「どうしても、身体が沈んじゃうのよねえ。脂肪がないナイスバディだからかしら。困ったものね」


 上半身を敷き詰められた丸石の上へとやおら倒す。

 流石は、丸石。

 痛くはないし、曇り空のおかげだろう、肌が直に触れても熱くない。


「この川がなくなったら、あんた。どうなるのかしら。丸石の下に水が流れているのなら、どこかの川に泳いで居を移すのかしら。それとも、あんたは、実はこの川の精霊で、この川と一緒に死ぬ運命にあるのかしら」


 一年に一回。

 この水無川には、実家に帰った時に必ず寄るようにしている。

 これで、五回目。

 その間ずっと、一匹のヤマメしか見ていない。

 同じヤマメではないのだろう。

 魚の寿命は大体一年のはず。


「あ~。でも。クラゲだったっけ。イソギンチャク、だっけ。分裂して寿命を延ばす水中生物も居るから。あんたも分裂して、生き延びているのかもね」


 ざわざわざわざわ。

 ざあざあざあざあ。


 白南風により木々が大きな音を出す。

 梅雨ももう少しで明ける事だろう。


 ざわざわざわざわ。

 ざあざあざあざあ。

 ざわざわざわざわ。

 ざあざあざあざあ。


 日が強く差せば、木々の漆黒の影が身体をすっぽり覆い尽くしてしまうだろう。

 悠々と泳ぐヤマメも、川べりも水無川も、全部全部覆い隠してしまう事だろう。


 影は未来予想図。


 いつか。いついつの日にか。

 周囲の木々が敷き詰められた丸石を喰らってしまうのだろう。

 水無川を喰らってしまうのだろう。

 一匹しかいないヤマメを喰らってしまうのだろう。


「ねえ。私が、あんたをここから別の場所に連れ出してあげようか?」


 冷静になれば、一匹のヤマメ相手に何を話しているのか変な事をしていると思うのだが、冷静ではないのだろう。全く以て奇妙奇天烈な事をしているとは思わない。


 もしも、

 もしもヤマメが何かそれらしき合図を出したのならば、


 例えば、未だに川に浸している足に突進してきたのならば、

 例えば、空中で大きな一回転を披露してみせたのならば、

 例えば、水中で何度も何度も回転して渦を発生させたのならば、


 幼い頃の父のように、ガッと勢いよく、しかも一回でヤマメを掴み取っては、バケツの中に入れて、罰金を払う覚悟で、どこぞの川へと逃がしてやろう。

 そう思っていたのに、

 上半身を起こして、ヤマメを見つめれば、ヤマメはやはり、私の近くを悠々と泳いでいるだけ。


 ふむ、それが答えかね、ヤマメ君。

 顎に手を添えて、瞼を少し下ろして、声を作ってそう言えば、ヤマメはそうだと言わんばかりに遠ざかる、わけでもなく、ただやはり、私の近くを悠々と泳いでいるだけだった。


 また来年来るよ。


 ぼとっ。

 大粒の疎雨そうが脚に落ちて来た。

 雨に濡れる前にと立ち上がって、ハンカチで足を拭い、靴下を履いて靴を履き、ヤマメに背を向けて歩き出す。

 靴の中がひどく温かく、おぼつかなかった足取りがいつもの調子を取り戻す。






 ちゃぷん。

 水しぶきの音を拾ったが、あれはきっと、











(2024.7.16)



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヤマメと水無川 藤泉都理 @fujitori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ