第2話
そこは、平屋建てのこぢんまりしていて、それでいて目立たない建物で、庭には物干し竿がひっそりと庭にあり、まだ洗濯物が干されていなかった。
「変わりないな・・・あの子も元気でやっているようだ。いや、もう立派な大人だ。」
心地よい笑みを、長右衛門は浮かべた。
「もういいのかも知れない。いや、私はあの子に・・・いや家族に償い切れないほどの罪を犯したんだ。今あの子は好きな人がいるようだ。ずっと見守りたい・・・そうだ。その二人が一緒になり、子供が出来るまでにしよう。間違っても名乗り出るようなことはない。そんなことはしないし、出来るわけがない」
長右衛門は少し離れた牧垣に体をひそめたまま、じっとその家を観察していた。隣の家の境のキンモクセイの木陰に隠れるようにしている。彼は空を見上げた。そこには島根県安来市の真っ青で、見上げる人を惹きこんでしまう透明な空があった。
矢島洋は今も母と二人暮らしであった。そのことが、長右衛門も余計に苦しめた、自分の浅はかな行動を攻め続けた。
「あの時・・・」
長右衛門はうっすらと眼をつむり、時間を逆流させた。
昭和四十一年の夏、彼は車で自宅に向かっていた。あの当時、街灯はほとんどなかったといっていい。ただ車のヘッドライトの明かりが目映いばかりに国道九号線を照らしていた。長右衛門はその頃砂鉄の精製に従事していた。多くの山を歩き回った。それが仕事であり、毎日生きがいを感じ生活していた。自分の親もそうであったし、おそらく自分の子も同じ仕事に就くだろうと思っていた。
深夜ではなかった。時間にして、どうだろう午後十一時を過ぎたくらいたったかもしれない。ヘッドライトの中に小さな黒い影が映り、突然止まった。長右衛門にはそう見えたのである。反射的に、彼はブレーキを踏んだ。闇の中にキーという金属音が響いた。
「何・・・?」
何かにぶつかった衝撃があった。強いものではなく、軽い衝撃だった。こんなことはよくあった。
「犬か・・・それとも、猫か・・・」
そういう感覚だった。このまま行こうとしたのだが、彼は気になり、車から降りようとした。
だが、彼は急に怖くなり、そのまま走り去った。
一方・・・
九鬼龍作は里崎砂鉄記念館の前に立ち三俣安五郎警部の説明をしていた。それを聞きながら、小原警視正は考え込んでいた。
(あいつ、何を考えているんだ・・・?)
答えは浮かばないし、出て来なかった。
里崎の屋敷の背後には清水寺がそびえている。鬱蒼と樹木に覆われていて、参道が続きさらに少し奥に行くと、清水寺の本殿がある。今の清水寺本堂は明徳四年に建立されたものである。天台宗の寺院だ。
長右衛門は信心深くない。ただ、その時代を懸命に生き抜いた人々を愛し、心底敬っていた。。
「ふっ!」
里崎長右衛門は笑みを浮かべた。老人は自分の生きて歩んで来た道を後悔はしない。また、するつもりもない。ただ、あの時だけは、いくら若いといっても余りにも浅はかな行動だった。
「しかし・・・」
今更悔いても始まらない。それは、彼にもよく分かっていて、理解もしていた。だから、この老人は、
(こうして、あの子供の生活を見守り続けて来たのだ)
あの少年の名は、矢島洋といい、当時三歳だった。老人・・・当時は二十四歳だった。若いが、分別のあっていい年齢であるはずだった。だが、その瞬間彼は動転し、一旦車から降り、何が起こったのか確認しようとした。だが、老人は、いや青年は逃げたのだ。
その夜、青年は夢を見た。そこには、小さな子供が額から血を流し、まるで大きな人形のように倒れていた。二歩三歩、青年は歩みを進めた。
次の瞬間、青年の体は震え出し、どれだけその震えを止めようとしても泊まらない。
青年は車に乗り込み、アクセルを強く踏み込んだ。この後のことは何も覚えていない。
数日、青年は砂鉄の業務に就かなかった。手が震えて何も出来なかったといっていい。
青年は自分の行動を後悔し、翌日の新聞で事故があったのか調べてみた。小さな記事ではあったが、三面のすみっこに載っていた。ひき逃げ、という字が、青年の眼にとまった。記事を読んでいくと、矢島洋という少年は重症で命には別条なかったようだ。街灯もなく、一人の目撃者もいないようだった。その点、青年は安堵した。
だが、青年の少年に対して申し訳ないという気持ちが、時間が経つにつれて、ふつふつと沸いて来た。そして、
「俺はこの少年の行く末まで面倒見てやろう」
という償いの気持ちがわいて来た。もう、こうなれば里崎青年の決断は早かった。
その日から彼は毎日病院に行き、少年の回復を見守った。それとなく病院関係者に聞けないから、ただ見守るしかなかった。病室には少年の母らしき女が付き添っていた。二十代後半に見えた。彼は病室の前まで行き、何度も声を掛けようとした。だが、彼は少年の母にそれ以上近付けなかったし、もちろん言葉も掛けられなかった。
ほとぼりが覚めたころ、里崎青年は事故の現場に行って見た。警察の規制線はなくなっていた。警察官と思われる人も見なかった。
どうやら母と子の二人だけの生活のようだった。なぜ二人だけなのか見当もつかなかった。また、彼にはこれまでに何があったのか調べる気もなかった。要は、これから先の生活をどうするか・・・なのである。苦しい生活苦が襲い掛かって来るような・・・いや、もうそのような状況になっていたのかも知れない。
おそらく経済的に苦しいはずである。彼にもそれはよく分かっていたし、想像もできた。しかし、表立った手助けは出来なかった。
方法はあるはずである。ひと昔の様に、郵便ポストにお金を投函するわけにはいかなかった。警察に、こんなことがあったと連絡されたら、元も子もない。彼は奨学金について調べた。その点、彼の父は島根県の副知事までやった人だったから、無理にでも入り込むことが出来た。
この方法がいい、里崎青年は思った。詳しい事情は父に説明しなかったが、許してくれた。父も、その点事情を察してくれたようで力になってくれた。
「これでいい」と、彼はひと安心した。これで自分が表に出ないで済む。そう思った。
里崎長右衛門は全てに欲望がなく、朗々と生きて来た。それはもちろんお金に対してもである。安来市からさらに西に行くと、岩見氏があり、そこは石見銀山でも有名である。長右衛門は岩見の山々をも歩き回った。砂鉄の精製には燃料の木材が多量に必要で、次から次へと山の木々を伐採しなければならない。日本の気候は一つの山をはげ山にしても、何年かするとまた樹木が成長する。そんな気候風土なのである。岩見も例外ではなかった。それ程多くの樹木が砂鉄には必要だったのである。
長右衛門は岩見のある山で銀の鉱石を見つけた。彼には全く興味のない代物であったために見向きもしなかった。ただ、その鉱石を自宅に持ち帰り、家の納屋だったかに保管していた。それがいつの間にか、長右衛門の記憶から消えた。もっとも銀の鉱石は納屋から消えることはなかった。
九鬼龍作は、この仕事の遂行を急ぐ気はなかった。
「しばらくは警視正の動きを観察することにする」
というより、龍作はこの記念館のある場所に、警視正を誘いたかった。
三俣安五郎警部は今里崎砂鉄記念館を案内している。
「見て下さい、警視正。これが、九鬼龍作が狙っている縄文土器です。力強い土器ではありませんか」
三俣警部は縄文土器に顔を近づけながら、まるで自分の作品のように嬉しそう顔をし、小原警視正に説明している。
「今私たちはこうして何の苦労もなく平然として生きていますが、この人たちがあって私たちがいるのですよ。彼らが精一杯生きた証としてこの作品があり、今の私たちが存在しているのです。この人たちがいなかったら、警視正もひょっとしたら存在していないかも・・・警視正そう思いませんか?」
その横にはやはり土器が展示されていた。弥生時代の土器で、縄文土器に比べ優しさが感じられる。
男の名を、古川信綱という。そう、彼は刑務所から刑期を終え、数年前に自由の身になっていた。彼の嗜好品は刀・・・名刀である。兄の所にある和泉守兼定は取り損ねたが、あきらめたわけではなく、今も機会があれば手に入れたいと思っている。だが、今はその時期ではない、と冷静に判断していた。
なぜ彼が島根県の安来市にいるのかは問題ではない。そこにセキュリティ対策に無防備な場所に、藩主だった堀尾吉晴から譲り受けた短刀があるという事実である。たまたま松江藩の藩主堀尾の短刀があるのを信綱の耳に入り、頂こうという欲望が沸いた。それだけの理由で、古川信綱がいるだけのことである。
古川信綱が里崎砂鉄記念館に入ると、小原警視正と三俣警部がいて、信綱に気付くと鋭い眼で睨み付けて来た。二人とも、刑事である。この場合、小原警視正は持ち前の・・・というより長年の刑事としての勘が好ましくない人物だとすぐに見抜いてしまっていた。だが、それ以上のことを警視正は知らない。一方、三俣安五郎警部はなぜか口元に笑みを浮かべた。それだけだった。
三俣警部は小原警視正に砂鉄記念館の警備状況を説明し、そのついでに砂鉄が出来るまでの工程を見て回った。
「奴は来るのかな?」
小原の独り言である。三俣警部は小原の性癖をよく知っていた。
「来ます。来るでしょう。奴・・・九鬼龍作ははかりごとをしない奴です。言ったこと、いや宣言したことは必ずやり遂げるでしょう。そう思いませんか、警視正殿?」
「ほっ、君はあいつを知っているのか?」
「いや、知りません。顔を会したこともありません。しかし、そんな噂は聞いています」
「そうか。そうだな。だからこそ、俺も、こうしてわざわざ島根県までやってきたのだ」
小原警視正は三俣警部を見て、五秒ほど目を逸らさなかった。
「ところで、ここには館主とか、記念館の留守を守る案内人とかは一人もいないのか?」
「はい、この家の家主は外出しているようです。通常、こんな時は夫人がいるのですが、どうやら夫人も母屋の方に行っているようです。娘が一人いますが、その娘も何処かに遊びに行っているのかも知れません」
小原警視正は、
「ふっ!」
と、顔を歪めた。どうやら気に入らないようだ。
三俣警部も同じように口に笑みを浮かべた。
里崎登美子は祖父の様子をじっと見守っていた。
「あっ!」
登美子は慌てて口を押えた。声を出しそうになったからである。祖父は涙を流していた。彼女にはそう見えた。
「あのおじいちゃんが泣いている・・・」
登美子は祖父が泣いている姿を見たことがなかったのだ。彼女は祖父に走り寄って、慰めたくなった。だが、今は、だめ、と思い留まった。それにしても、今日は祖父の見慣れない姿を見られて驚いた。
五十歳ほどの女性が平屋の家から出て来た。その姿を見て、里崎長右衛門は眼を押さえ、しゃがみ込んでしまった。
《本当におじいちゃん、どうしたんだろう?》
里崎登美子はそわそわと落ち着けなかった。そんな祖父を見るのは初めてだったのである。祖父の傍に行けないことが余計に彼女を慌てさせた。しばらくして、家の中から男が出て来た。身体か太くないが、眼の大きい青年であった。愛想のいい柔和な顔立ちをしていた。
二人して何を話しているのか分からないが、洗濯物を干すのを男が手伝っていて、時々笑い声が聞こえて来る。親子なのだろう。良い家族という印象を売れる・・・そう見える。
登美子の視界から祖父が消えた。家に帰ったのか、それとも砂鉄記念館に帰って留守を守っている母久美と交代しに行ったの知れない。祖父長右衛門の行動の秘密が分かっただけが、唯一の収穫だった。定かな理由は、彼女には分からなかったのだが、
「また・・・今度は一人で来てみよう」
と決めた。そして、祖父が泣いた理由を確かめようと思った。この家族が気になった。だが・・・今はこれ以上探り容れるのはやめておこう。何も煩わしい問題も起きていないのである。
「弓ヶ浜海岸に行こうっと・・・」
登美子は気分を変え、九号線まで歩き、そこからスケボーに乗り、弓ヶ浜海岸に向かった。風が眩しい程彼女の体に吹き付けて来ている。国道だから車は来るがそれ程多くない。その時はスケボーのスピードを緩めた。スカートの裾が風に揺れる。
「いい気持ち・・・」
登美子の体は弾んでいて、スカートがめくれることがある。そんな時、追い抜いて行く車の中にはハンドルを慌てて揺らす者もいた。
古川信綱は仲間を作らなかったし、必要としていない。人徳がないのだが、そんな感情は、古川信綱は必要としなかった。だから、今回も独りでことを成すつもりでいた。
ところで、古川信綱が狙っている者は、鳥取城の藩主堀尾吉晴が里崎家に送ったとされる短刀であつた。この短刀が名刀なのか・・・古川信綱には分からない。どうでもいいことであった。彼にとっては名刀となる。
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