第10話 記憶ですか? ありませんよ。


 それから、あれよあれよと話は進み、アディルは今、馬車で迎えに来たカイザーの隣に座っている。オルフェノス公爵家へと挨拶あいさつに行くのだ。


 幼い頃に婚約が決まっている場合は例外だが、一般的に婚約することが決まると、女性がまず男性の家へ挨拶に行き、次に男性が女性の家へ向かう。そして、両家の顔合わせとなるのである。

 

「心配するな。皆、アディルに会えるのを楽しみにしている」

「はい……」

 

 返事をしながらも、アディルは緊張でガチガチだ。どうにか心を落ち着かせようと、心の中でカイザーの数を数える。


(カイザー様がお一人、カイザー様がお二人、カイザー様が三人、カイザー様が……)


 けれど、たくさんのカイザーを想像してしまい、アディルの心臓は更に加速した。


(き、緊張ってどうしたらいいんだっけ? 手のひらに人……カイザー様のお名前を書いて飲めばいいの? ううん。文字とは言え、カイザー様を食べるなんて、できないわ。ううぅ……どうしたら……)

(だいぶ緊張しているな。仕方がないと言えば、仕方がないのだが……)


 カイザーは隣に座っていたアディルを自身の膝の上に乗せ、よしよしと頭を撫でた。


「アディルなら、大丈夫だ」


 耳元でささやかれた瞬間、アディルは意識を飛ばした。普段なら心の中で絶叫をしながら、真っ赤になっているだろう。だが、ただでさえ緊張している状況に加えての、大好きなカイザー成分の過剰供給。今のアディルには耐えきれなかった。


「アディル? アディル!?」


 何回か名を呼ばれ、アディルはゆっくりと瞬きをした。そして、視線をカイザーに向ける。


「カイザー様?」

「少し気を失ってたぞ。大丈夫か? どこか悪いのか?」

「いえ、大丈夫です。ご心配おかけしてすみません」

「家に帰って、ゆっくり休め。延期にしよう」

「いやです」


 ふるふるとアディルは首を横に振る。


「だが……」

「お願いします。少しでも早く、カイザー様の婚約者になりたいんです」  

「────!!!!」


 アディルの言葉にカイザーの耳は朱に染まった。言葉の破壊力と位置関係的にどうしてもなってしまう上目遣い。ゆっくりと休ませなければならない……、そう思うのにアディルに強く出られない。


れたら負けと言うが……)


 カイザーは、心の中で白旗を上げた。


(生涯、アディルには敵わないんだろうな)


「もし、辛くなったら何時でも言え。約束できるな?」

「はい。ありがとうございます」


 そう言って微笑んだアディルだが、その後も様子はおかしかった。どうおかしかったかと言うと──。


「昨日は良く眠れたか?」

「朝食ですか? きちんと食べましたよ」


 といった感じに、常にではないものの会話が成り立たないことがあるのだ。しかも、目の焦点が合っていない。

 何度か日を改めようと提案したものの、その言葉を理解するとアディルは泣きそうな顔をするものだから、カイザーは何も言えなくなってしまった。


 

 様子がおかしいままオルフェノス公爵家に到着し、アディルがやっと正気に戻った時、ふかふかのソファに座っていた。

 

「はへ?」

 

 間抜けな声とともに、キョロキョロと周りを見回せば、姿絵で見たオルフェノス公爵家の方々が大集合していた。

 右隣にカイザー。目の前にカイザーの父と母、左側に兄、右側に妹。十個の目がすべてアディルへと向けられている。

 

「は、はじめまして!! フラスティア家三女のアディルと申します!!」

 

 勢いよく立ち上がり、カーテシーをしてふらついたアディルをカイザーが支えれば、拍手が起きた。部屋に集まっているアディルとカイザーを除き、皆が瞳に涙を溜め、母と妹は何度も目元をハンカチで拭いている。


「さっき、挨拶は済んでいる」

「……へ? 記憶にないです」


 挨拶どころか、馬車に乗っいる途中からの記憶もほとんどない。アディルの顔からは血の気が引き、真っ白になった。そんなアディルを当然のように膝上に乗せ、カイザーは頭を撫でる。


(やはり、アディルの定位置はここだな)


 どこか満足げなカイザーに、赤くなったり青くなったりと繰り返すアディル。そんな二人に、嬉しそうに拍手を送りながら眺めているオルフェノス一家。控えめに言ってもカオスなこの状況。残念ながら、ここにはその状況を止める者は誰もいない。無法地帯である。


「あの、降ろしてください……」


(早く降りなくちゃ。これ以上失敗するわけにはいかない……。挨拶だって二回しちゃったみたいだし。……さっきのは本当に二度目だよね? 同じこと何回も繰り返してないよね?)


 降ろしてと言ったアディルだが、不安で無意識にカイザーのシャツをぐっと握った。その行動をカイザー含め、オルフェノス一家はものすごく喜んだ。


「アディルさん、本当にありがとう。これで思い残すことはないよ」

「あら、あなたったら。まだまだこれからよ。カイザーもだけど、リルハートが幸せになる姿を見届けないと。アディルさん、本当にカイザーでいいのよね? やっぱり駄目とかはなしよ?」


 カイザーの父と母の言葉にアディルは、まだカイザーの膝の上に座っていることなど忘れ、じっと二人を見た。


「私、社交界デビューしてから、ずっとカイザー様を見てきたんです。私なんかにも優しくて、かっこよくて……。カイザー様じゃなきゃ嫌なんです。もし、フラレるとしたら、私の方ですよ」


(婚約するから、良く言ってくれているのは分かっている。それでも、こんなに嬉しいものなのか……)


 カイザーの心は浮足立った。感動のあまりすぐには声が出ず、それでも名を呼びたくて、絞り出した声は掠れていた。


「アディ──」

「アディルさんっ!! 本当に本当にありがとう。お兄様ったら、強面だし、表情筋はほとんど活動してないでしょう? 本当は優しいところもあるのに、愛想までないものだから、いつも勘違いされちゃうのよ。アディルさんがお義姉さんになってくれるなんて嬉しいわ!!」

「リルハート様……」

「そんな他人行儀じゃなくて、リルって呼んでちょうだい。家族になるんだもの! 私もアディと呼んでもいいかし──」

「駄目だ」


 アディルを呼ぶ声はリルハートにかき消されたものの、今度は会話に割り込むことにカイザーは成功した。じろりとリルハートに睨まれるが、その視線をカイザーは無視した。


「カイザー様、私は嬉しいですよ?」

「俺が嫌なんだ」


(お情けの婚約だから、ご家族とは仲良くしないで欲しいってことなのかな……)

(リルハートにアディルの愛称を呼ばせてたまるか。俺だって呼んでないのに)


 真っ直ぐな言葉なのに、カイザーの気持ちはアディルには伝わらない。そもそも、カイザーが自身のことを好きだと全く気が付いていないのだから、仕方がないと言えば仕方がないのだが。

 

 

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