第16話 ふたりのピッチャー
草壁先輩はキラリと目を光らせる。
「ずいぶん長い間、捕手に球を受けてもらっていない。全力投球がしたい。受けてくれ、時根」
「先輩、ちょっと待ってよ!」
きみは僕の前に立って、先輩に対して大きく両腕を広げた。
「時根はワタシのキャッチャーだよ。先輩には渡さない」
それは言い過ぎだが、きみの気持ちはわかる。
バッテリーは夫婦にたとえられることがある。それだけ結びつきが強いペアだということだ。
僕はきみの捕手。それは一面の真実ではある。少なくとも僕の心の中では、きみは僕の投手で、僕はきみの捕手だ。そのつもりでバッテリーを組んできた。
しかし、いま僕は青十字高の捕手で、きみと先輩は青十字高の投手だ。僕はふたりの球を受けなければならない。
「僕はきみの捕手だが、草壁先輩の捕手でもある。先輩の球も受けるよ」
「時根、悲しいことを言わないでくれよ」
「きみはわがままを言うな。甲子園に行くと言ったよね? 全試合完投するつもりか? 無理だよ」
「できる。全試合投げ抜くよ」
「全試合投げるのは、あたしだ! エースだからな」
先輩は胸をそらして言う。きみは激しく反発して、睨みつける。
「エースはワタシよ!」
「あたしだ!」
「けんかしないで!」
「む~」「むぅ~ん」
仲裁したら、ふたりとも不満そうな顔になった。
どちらの力量が上なのだろう。きみのピッチングが優れていることはわかっている。先輩も昨年1年生ながら青十字高のエースになり、チームを地区予選の4回戦まで導いた。良い投手であるにちがいない。
「投球練習をしましょう。空尾と先輩、ふたりの球を受けますよ。まずは仲よくキャッチボールをして、肩をあたためてください」
「仲よく?」「嫌」
「チームメイトでしょう?」
きみと先輩は仏頂面でキャッチボールを始めた。
和気あいあいといった雰囲気からはほど遠い。安全ピンを抜いた手榴弾を投げ合っているような感じ。
ふたりの投手がいきなり険悪で、僕は頭を抱えた。
「もういいです! 投球練習に移りましょう」
僕たちは外野の防球ネットの外に設けられているブルペンへ行く。
僕はキャッチャーボックスに座る。
ピッチャーマウンドを見ると、きみと先輩が睨み合っていた。
「あたしが先に投げる」
「ワタシが先よ」
「先輩に譲れ」
「部長に譲ってよ」
言い争いが始まる。
「じゃんけんで決めたら」と堪りかねて僕は言う。
先輩がチョキ、きみがグーを出して、順番が決まった。
きみは右投げの投手だ。
ピッチャープレートを右足で踏み、セットポジションから10球ほど軽めにボールを投げた。
「次から全力で行くよ」
「来い!」
僕は左肘を左膝に当てて、ストライクゾーンど真ん中にキャッチャーミットを構える。
きみは全身を躍動させ、右腕を鞭のようにしならせ、オーバースローで白球を放つ。ボールはほとんど沈むことなく、惚れ惚れするような軌跡を描いて、ミットに届く。パンッという気持ちのいい音が鳴る。
どんな投球でも、地球の重力に逆らうことはできない。きみの球も微かに沈んでいる。
しかし、スピードが極度に速く、重力に抵抗する強烈なバックスピンがかかっているため、肉眼では浮き上がっているように錯覚してしまう。それがきみのストレートだ。
「ほう、速いじゃないか」と草壁先輩がつぶやく。
僕はミットの位置を右バッターの外角低めギリギリに移す。
きみは針の穴をも通す制球力を持っている。僕はミットを寸分も動かすことなく捕球する。
「ナイスボール!」と僕は言う。
内角低め、内角高め、外角高めに構えても、正確無比にボールが来る。球速はいささかなりとも衰えない。むしろしだいに速くなっていく感じだ。
空気を切り裂く快速球。このスピードとコントロールで、きみは中学時代に打者をきりきり舞いさせた。
30球投げて、草壁先輩と交代する。
「なかなかやるじゃないか。2番手投手にしてやってもいい。もっともあたしは打たれないから、出番はないが」とボールを受け取って先輩は言う。
「あたしは最初から全力で行くぞ。しっかりと受けろよ」
先輩はサウスポーだった。
豪快なワインドアップポジション。両手を大きく振りかぶり、左腕のスリークォータースローで投げ込んできた。僕のミットがズパッと鳴った。
スピードはきみに比べると遅い。だけど球質は重かった。
「ナイスピー」と言って、僕は先輩に返球した。
「次は曲げるぞ。カーブだ」
投球フォームはほとんど変わらない。だが、球の握り方と手首の振り方を変えたのだろう。ボールは美しい放物線を描き、右のバッターボックスに向かって大きく曲がりながら落ちていった。球速はストレートと比べてかなり遅く、緩急の差がついている。
先輩が投げたボールの軌道を見て、きみは引き締まった表情になった。ストレートしか球種のないきみは、変化球を投げたいと熱望している。
「今度はスライダー」
ストレートに近い球速で、ホームベース近くで鋭く右に曲がる変化球が、僕のミットにおさまった。
「つづいてスプリット」
スライダーと同じ速度で、シャープに落ちる変化球。
「フォークボール行くぞ」
スプリットよりやや遅く、ストンと沈む落差の大きい変化球。
なんて器用なピッチャーなんだ、と僕は驚嘆した。
キレの良い変化球がズバズバと決まる。
きみの目は猛禽類を思わせる鋭さになった。
きみと先輩、どちらが打ちにくいピッチャーなのか、にわかにはわからない。
草壁先輩も30球投げた。そのほとんどが変化球。僕は曲がるボールを1球も逸らすことなく受け切った。
「ナイスピッチング」と僕が言うと、「ナイスキャッチ。捕球が上手いじゃないか」と先輩は褒めてくれた。
きみは先輩に頭を下げた。
「ワタシに変化球を教えてください」
「やだよ」
先輩はそっけなく首を振った。
「あたしは独学で会得したんだ。天才のあたしでも、そこそこは苦労したぜ。おまえも努力してみろよ」
きみはボールを受け取り、マウンド上で「魔球を投げてやる!」と叫んだ。
すっぽ抜けて大暴投。僕は飛びついたが、捕球することはできなかった。
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