第9話 部活クラッシャー

「これが硬球。触ったことある?」ときみは問う。

「は、は、初めて触りました。な、名前のとおり、か、硬いですね」と志賀さんは答える。

 4月20日水曜日の放課後、きみと僕と志賀さんの3人は、野球部室にいた。

 正確に言えば、いまは同好会室なわけだが、そんなことは無視する。部室と呼んだ方がテンションが上がる。


「じゃあグラウンドに行って、キャッチボールをしよう。グラブは部室にあるものを使っていいよ」

 部室には古いグラブがたくさんあって、段ボール箱の中に入っている。

 志賀さんはがさごそと探して、嬉しそうにひとつのグラブを握りしめた。

「こ、これがいいです」

 彼女は右手にグラブをはめた。それが意味するのはーー。

「千佳ちゃん、左利きなの?」

「は、はい。ボールを投げやすいのは、ひ、左手なんです。左打ちかどうは、た、た、試してみないと、わ、わからないですけど」

「左打ちに決めちゃっていいと思うよ。1塁ベースに近くて、有利だから」

「そ、そ、そうですよね。そうします」


 僕たちは部室からグラブ、ボール、バットを持ち出して、グラウンドへ向かう。

 部室棟は高校の敷地内にある。

 校門を出て3分ほど歩き、堤防を越えると、そこに青十字高河川敷運動場がある。

 野球部とサッカー部のそれぞれのグラウンド、陸上競技場、テニスコート。

 僕たちはもちろん野球のグラウンドを使う。


「さ、キャッチボールしよ」

「り、凜奈さんのボールを、う、受け取れる自信がありません。う、う、ウチはまったくの、しょ、初心者なんですよ」

「千佳ちゃんのグラブにピタッと投げるよ」

「あ、そういえば、こ、コントロール抜群の、ぴ、ピッチャーなんですよね。す、スピードは加減してくださいね。全力投球は、ぜ、絶対にやめてください」

「オーケー」

 きみは志賀さんとキャッチボールを始める。

 彼女が構えているグラブに、ぴったりとボールを投げ入れる。

「ひ、ひぃー」

 志賀さんは悲鳴をあげながらも、楽しそうに右手でボールを受け、意外なほどスムーズに左手で投げている。

 運動神経はかなり良さそうだ。


 僕はグラウンド内を走る。ランニングには持久力と筋力を上げる効果がある。どちらも野球選手に必要なものだ。

 きみと志賀さんの微笑ましいキャッチボールを見ながら、僕は走りつづける。

 20分くらい走ったとき、バックネット裏に人影があるのに気づいた。

 青十字高の女子のブレザーを着ている。

 うちの女子生徒だ。ダイヤモンドの中でボールを投げ交わしているきみと志賀さんをじっと見ている。

 僕はバックネットのそばに走り寄った。

 ネットの裏に立っている女子は、端的に言って美人だった。高浜先生の表現を借りれば、マブい女の子。

 髪は黒く、ベリーショート。目は理想的なアーモンド型で、眼差しは鋭い。背は高く、スタイルがいい。


「こんにちは」と僕は声をかけた。

「おまえ、1年か?」と訊かれた。

「はい。先輩ですか?」

「ああ。あたしは野球部2年の草壁静くさかべしずかだ」

「草壁先輩?」

 驚いて、僕の声は大きくなった。 

 高浜先生の話を信じれば、男子部員に四股をかけた部活クラッシャーだ。

 きみと志賀さんもキャッチボールを中断してやってきた。


「草壁先輩、野球部を辞めたんじゃなかったのですか?」と僕はたずねた。

「あたしは辞めてないぞ。他のやつらは皆、退部届を出したみたいだが、あたしは断じて辞めてない」

「えっ、そうなんですか?」

「ああ。部員があたしひとりになったから、活動を休止していただけだ」

「高浜先生は2、3年生は全員辞めたとおっしゃっていたのですが」

「あたしは辞めてないっての!」


 僕は戸惑った。どういうことだ?

 高浜先生は、部活クラッシャーの草壁先輩を部員とは認めていないようだ。

 だが、先輩には退部したつもりはないらしい。


「草壁先輩、まだ部員だったの?」ときみはつぶやく。

「部員だよ! 着替えてくる。練習に参加させてもらうぞ」

 先輩は走り去ろうとした。その背中に僕は声を投げつける。

「待ってください。草壁先輩は男子部員とトラブルを起こし、野球部を壊したと聞きました。顧問の高浜先生の許可なくして、先輩の部活動参加は認められません」

「なんだと?」

 血相を変えて、先輩はバックネットをつかみ、僕を睨みつけた。

「後輩が生意気言うな! あたしが部を壊しただと? 悪いことなんて、なにひとつしていないぞ!」


「先生は草壁先輩が四股かけたって言ってたけど」

 きみはあっさりと言う。

「よ、よ、四股?」と志賀さんはおののく。

「あたしはつきあってくれと頼まれて、いいよ、と答えただけだ。それが4人だったんだが、なにが悪いんだ?」

 僕はあきれ果てた。


「彼氏が同時に4人いるのはまずいでしょう?」

「それがどうした? なにか良くないことなのか?」

 ええっと、草壁先輩に常識は通じないのだろうか。

「恋人が4人って、おかしいでしょう。みんな怒りますよ。それが原因で、野球部は崩壊してしまったんじゃないんですか?」

 草壁先輩は呆然としている。

「そうなのか?」

「先輩、部活クラッシャーの自覚ないんですか?」

「えっ、あたしが野球部を壊したのか? えっ、嘘だろう?」

 先輩はぐらっと身体のバランスを崩した。 

「まさか、そんな……」


 草壁静さんの常識のなさは異常だ。

 四股をかけておきながら、罪悪感がまったくなかったようだ。

 人間じゃないみたいだ。

 先輩はもしかしたら、変身生物なんじゃないのか?

「あたしは楽しく野球をやりたいだけなんだ。頼む、あたしと野球をやってくれ!」

 悲痛な声がグラウンドに響き渡った。

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