第10話

 私は、いつのまにか葵と、新しく来た家政婦に何も言えなくなっていた。

 スーツケースと荷物が散らかった、家政婦に占領された寝室のなかで何故だかプルプル身体を震わせいた。

 あまり日常で起こり得ないことが起こっているのだ。罠にでも嵌ってしまったかのように、行き場のない後悔が全ての選択肢を奪ってしまっていた。

 何故、何も考えずに見知らぬ他人を家に入れてしまったのだろう。

 家政婦は何を言っても葵さんに頼まれたからと、私の話しを聞き入れなかった。


 勿論、寝室を荷物で占領された私は、家政婦に注意した。

 その時、家政婦はリビングルームでソファに座ってスマホの動画を見ていた。ダイニングテーブルには一人分の食事が作られていた。肉を焼いただけの、一見豪華そうに見えるが、明らかに金だけかけた手抜き料理だ。おそらく葵の夕飯だろう。勿論私の分は作っていない。まぁ、作られていても食べないが…

 そして、家政婦が言う。

 「あの部屋は葵さんが使っていいと言ったから荷物をいれたんですけど、そんな話しは葵さんと話してくれないと、私に言われても困りますぅ」

 「いや、勝手に決められても困るのよ。すぐに荷物出してよ」

 「そんなこと言われても、今から葵さんが夕食取るから待っているんです。今は動けません」

 「いやいや、先に荷物出してよ。それに勝手にキッチン使ってるけど、それじゃあ私が食事出来ないでしょう。何から何まで、勝手よね」と、私は感情的に言った。

 その時、葵が霊の部屋から出てきた。

 「少し静かにしませんか?うるさいわね」と、葵が言う。

 すると、すぐに家政婦が立ち上がって葵に歩み寄る。

 「ああ、葵さん聞いて下さいよ。この人があの部屋から出ていけと言うんです。それに勝手にキッチンを使うなとか言うんですよ。私どうしたらいいんですか?」

 葵は一瞬私を睨みつけた。

 「じゃあ出ていけばいいんじゃないの。それに食事の件は、断ったのは鳥居さんの方だから。私は誠意を尽くしたつもりなので…今更色々言われてもですね」と、葵が言う。

 「いやいや、家政婦が来ることから、まず同意していませんが?」と、私が言うと、葵は冷たい視線を向けた。

 「まだ続けます?この話し。何か文句多いなぁ」また、あの口調だ。私はテーブルを叩いた、感情を抑えきれない葵のあの顔が今でも焼きついていた。


 そして、葵はダイニングデーブルに着くと、家政婦に焼いただけの肉の文句をさんざん怒鳴り散らしていた。すごく抑圧的な態度だ。家政婦はすっかり亀のように身を縮め、返す言葉さえ震えていた。

 その場にいた私でさえ身を縮める思いだった。


 私は早々に寝室に戻った。

 葵がこのマンションにやって来て、そんなに時間が経っていない。なのにまるで世界が一変してしまったようだ。私は、次第に自分の居場所が無くなっていく恐怖を覚えた。

 いつも片手に持っているスマホのメモをもう一度眺めた。

 畜生界…関わるな。その言葉の意味が実感として伝わる。

 多分、私はあの葵には敵わないのだ。心の何処かで怯えているのが分かる。言いたいことを言っているつもりになっているが、葵は結局私の言葉には耳を貸さない。私に最後の決定打をいつも言わせない。だから葵は私をころころ転がせるといつも余裕があるのだ。

 しかし、何故、こうも葵に翻弄されるのか?私は最後まで言いたいことが言えていないので、ずっともやもやしたままだ。

 そして、何故か、こうして夕飯も取れずベッドに縮こまっている。

 何でだ?

 その時だった。ベッドに放置したスマホがまた勝手に動き出した。私はぼんやりとスマホ画面を眺めた。

 開きっぱなしのメモに新しい文字か入力された。それは…地獄界とは…から始まった。


 『地獄界とは、自分がいる場所から逃れることができない。どんなに抵抗してもずっとその場所に縛られている。それが地獄界の所以だからだ。お前様はもうそこから逃げることが出来ないのだよ』

 「どう言うことなの?私はずっとここに縛られると言うことなの」

 『こことは…場所のことではない。それがお前様の世界なのだよ』

 「分からないよ。私は、あなたが言うようにあの人たちとは関わらない方がいいと思うのだけど、私がここに縛られるのならば、あの人たちを追い出さなければならないと言うことよね」

 『お前様の世界の話しだ。よく自分自身の願いを考えるといい』

 「考えているよ」

 『考えているのなら、今の状況がお前様の望みだ。これが因果なのだよ』

 「何を言っているの。私はあの人たちとは関わりたくない。それが願いよ。今の状況が私の望みなわけがないでしょう」

 『そうだろうか?状況が全てだ。だからもっと深く考えてみよ。状況が変わらないのは、お前様が変化を望んでいないからだ。よく考えてみよ。何故、あの者がこの家にやって来た。何故、あの者が居着いている。何故、あの者は出て行かない。それはお前様が望んでいるからだ』

 「分からないよ。全然望んでいないよ」

 『それが地獄界という世界なのだよ』

 「あゝもう全然分からない。何言っているの?」

 『状況の変化はどうやって起きるだろうか?考えよ』

 「だからさ…地獄界とか、世界とか…そんなのではなくて、もっと具体的に言ってよ。私が何を言ってもあの人は聞く耳持たないのよ。私は出て行ってと言ってるの。でも聞かないのよ」

 『あの人が聞かない?お前様の責任ではないと?』

 「だから、あの人は人の話しをまったく聞かないの。私は出て行ってと、ずっと言っている。だけど言っても無視するの」

 『この状況を変えたいのはお前様なのだろう。それがお前様が地獄界の住人であることの証なのだよ。まぁ、理解できないからずっと地獄界にいるわけだが…』

 「だから…」私は、もう言い返すのをやめた。スマホも入力が途絶え、やがて画面も真っ黒になってしまった。もうスマホの霊もいなくなったかのように、余計に部屋の中が静まり返った気がした。


 そのタイミングで部屋のドアが勢いよく開いた。そこには葵が立っていた。

 「ねぇ、あなた今、誰と話していた?話していたよね。ねぇ、話していたよね」

 葵はやけに焦っていた。

 「話していません。誰と話すんですか?私、一人ですよ」

 「嘘つかないで。荷物を取りに来た家政婦が聞いている。正直に言いなさい」

 その慌てた葵の様子に私は圧倒されていた。そして、彼女が何を焦っているのか、まったく分からなかった。

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