第9話

 その心は?

 心…?

 地獄界?

 私が地獄界?

 つい先日のことなのに…すっかり忘れていた。

 地獄界。無限地獄…とは、私のことを指す言葉だったのか?

 あの時、今みたいに尋ねていたのなら、この霊は、こんなふうにアドバイスをくれたのか?

 いやいや、今はどうだっていい。問題は、この畜生界だ。多分、名前も忘れた事故物件プランナーのことだ。

 畜生界。なんて恐ろしい響きだ。そして、私は地獄界だからあの女と一緒にいると、更に深い苦しみの無限地獄に堕ちてしまう。

 私は正直理解したようでまるで分かっていない。

 この霊は何を言っているのか?いや、その前に何がしたいのか?


 私が理解していようが、なかろうが、この霊は更に私に語りかけていた。

 メモの中に文字が増えていく。

 私は、地獄界とか畜生界とか耳慣れない言葉を咀嚼できないまま、新しく現れる文字を追っていた。でも、何も頭に入ってこない。

 ぶつぶつだの、録音だの、気味が悪いだの、そんな言葉が目に付いた。

 私はダイニングルームの空間をただぼんやり見つめた。何も見えない視界の中でいったい何が起こっているのだ?

 あぁ、パニックを起こしている。言葉を拾っても、私の頭の中でなかなか言葉が繋がらない。何が言いたいのか?その前提が不明瞭のうちは文章が成立しない。


 そんな時、玄関から音が聞こえた。私はパニック状態から更にパニックを悪化させた。ダイニングルームの扉が開き、事故物件プランナーが無表情で入ってきた。

 「えっ!出掛けていたんですか?」

 事故物件プランナーは、そんな私を不審者でも見るような目をして、傍に寄ってきた。そして、テーブルに置いたスマホを覗き込んだ。

 私は咄嗟にスマホ画面を隠した。

 「何をしているの?」と、事故物件プランナーが言う。

 「何もしていない」と、私は慌てて答えた。

 「何?何を慌てているのかな?」と、冷たい表情だ。

 「いえ、慌てていません」

 「いや、明らかに慌てていた。何か後ろめたいことでもしていたのかな?」と、更に冷たい表情。もう顔が怖い。

 「って、言うか。本当、もう私一人でも大丈夫ですから、帰ってもらっていいですか」

 「その話しはもう終わっている。蒸し返すな」 彼女の口調がだんだん変わってきている。と、言うかこれが彼女の本性かもしれない。私は、どうしても彼女と話していると苛立ちを覚えた。

 「一方的ですよね。それにシンクの洗い物、あれをどうするつもりなんですか?まさか私に洗えと?どんどん溜まっている」

 「えっ、そんな細かいこと言われても。私は洗い物などしたことがない。気になるのなら洗えばいいことではないの?」

 「私が?まったく知らない他人が食べた皿を?嘘でしょう?」

 「なんか面倒臭いなぁ。明日家政婦さんに来てもらうから。洗い物のついでに掃除でも食事の準備でもなんでもさせるから、それでいいでしょう」と、彼女は感情を露わにした。

 「いやいやいや、あなたもそうだけと、もう知らない人は入れたくないのだけど。あなたが洗い物をすれば済むことですよね」

 私の言葉に彼女はダイニングテーブルを激しく叩いた。その音で私は微かな恐怖を覚えた。

 「黙れよ。家政婦の代金は私が払うのだから文句はないでしょう。そもそもここに住めないと相談に来たのはあなた!私は前向きにその悩みを解消するためにここにいるのだから、その期間だけでも我儘言うな」

 「我儘?これを我儘と言うんですか?なんかもう訳が分からない」

 「訳が分からないのは私の方だ。とにかく家政婦は呼ぶ。だから二度と文句を言うな」

 そう言うと、彼女は霊の部屋に入って、扉を乱暴に閉めた。

 私は、そうした彼女の行動で少しずつ、後悔と恐怖と不安が入り混じったドス黒い感情を覚えていった。そして、かすかに震えた手でスマホを手にして、霊が入力したメモを読んだ。


 『今、お前様の近くにいる者は、わたしから見たら、身体全身に黒い靄がかかって、じつは男か女かも分からない。顔を見ることが出来ないくらい靄に覆われているからだ。そしてぶつぶつ呟いている声はこもっていて何を言っているのかさっぱり分からない。だが、ひどく不愉快で気味が悪いと思うのは確かだ。だから何を言っているのか聞きたい。このスマホとやらに録音機能がついているらしいので、一度あの者がぶつぶつ言っているところを録音してほしい。頼む。じつはお前様はわたしから見たら、淡い、青い靄がかかって、ぼんやりと顔は見える。そしてお前様が話す言葉ははっきりと聞こえる。しかし、あの者が近くにいるとお前様の淡い青色がだんだんと藍色のような濃い色に変わりその靄自体も濃くなって顔が見づらくなってきている。あの者の影響だ。このままだとお前様まで真っ黒になってしまう。だから急いでくれ』


 身体全身に黒い靄がかかっている?

 何かの暗示なのか?これから起こる未来を予言しているのか?もう不安というより恐怖しか感じない。

 「録音?」

 確かに彼女の独り言は異常だ。どうやって録音しようか?どうしよう…。

 私は、とりとめもなく、多分ぐるぐると同じ言葉を繰り返し繰り返し呟いていたと思う。

 私は、いつのまにか恐ろしく思っていた幽霊を頼っている自分にまったく気づいていなかった。


 翌日、予想通り家政婦がやって来た。しかも、私が出社している時に勝手に上がり込んでいたのだ。

 帰宅すると、ジーパンと丈の短いティシャツ姿の女がいた。へそを出し、長い爪に派手なマニキュアを塗った女を見て、私はイチミリも家政婦とは思わなかった。

 「誰?」と、私は咄嗟に聞いた。

 「いや、誰?」と、逆に質問された。

 「いやいや、誰よ?」と、再び聞いた。

 女が舌打ちをする。

 「えっ?」私は、呆然として女をただ見つめた。

 「私は葵さんからここの家事を頼まれた者です」と、女が言う。

 「家事?ああ、昨日家政婦を呼ぶと言っていたが、私は承諾した覚えないんですけど」と、私は呟いた。

 「家政婦?何それ?私は家政婦ではない。ただ家事を頼まれただけ」

 「いやいやそんなことはどうでもいい。私はここに知らない人を入れるつもりはないんで…」

 「何言ってるの?で、誰?」と、まるで上から目線で女が言う。

 「ここの住人」と、私はきっぱり言い切った。

 「えー?聞いてないなぁ、私は葵さんに頼まれただけだから、なんか…あんたとは関係ないな」と、女が言う。

 「いや、そうはいかない。もうここに他人は入れたくないから引き取ってもらっていいですか?」

 「いやいやいや、だからあんたは関係ない。私は葵さんに頼まれたのだから、そういうことは葵さんに言って!」と、きつい口調で女は言う。

 「んもう、まったく話しが通じないな。私はここの住人で、あの人は勝手に居着いているだけの人!分かります?」

 「いや、私は葵さんに頼まれたから…」

 「分からない人だな。とにかく出て行って!」私は苛立ちのあまり怒鳴ってしまった。もうこれ以上の口論は続けたくなかったので、ベッドルームに入った。

 ところが、ベッドルームはすでに占領されていた。床に開けっ放しの、大きなスーツケースが無雑作に置かれ、ベッドの上には無数の衣服が積み重なっていた。

 私はただただ茫然とした。

 

 すごい不安だった。たった数日で私の部屋が見知らぬ他人に乗っ取られるような恐怖を覚えた。

 私は、スマホを取り出し、メモアプリを開いた。

 「今、私の近くにいますか?教えて下さい。私はどうしたらいいの?」と、言うと、スマホを差し出した。暫くすると、涙が溢れてきた。

 やがて、メモに文字が入力された。

 『餓鬼界。あれは物欲の奴隷…』

 「あの家政婦のこと?」

 『あれは、存在自体もわっとしていてふわふわと漂っているように見える。自主性がなく物欲を欲するだけの存在。その物欲を畜生界の者が握っている。つまり、あのもわっとした者は畜生界の者には逆らえない』

 それを読むと、私の方がもわっとした。もはや、私の味方はこの幽霊しかいないことを、私はまだ分かっていなかった。

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