第5話
何かがおかしい。
おかしいのだ。
これまでの自分の存在自体が覆ってしまうような何か。わたしは、いったい何者なのか?
わたしの日常が少しずつ壊れていく。
わたしはいつものように、あの女の疑問に答えた。何か間違っていたのか。
あの女は、わたしの答えには必ず、「そのお心は?」と聞いてくるはずだ。でも昨夜は何も聞いてこなかった。
べらべらよく喋っていた。正直、部屋を出て行った時、解放されたと思った。しかし、女は戻って来なかった。他愛のないことかもしれない。
随分と女は部屋を訪ねて来なかったというのに、久方ぶりに訪ねて来たかと思ったら、まるで別人だ。人の言葉は遮るし、弾丸のように、まぁ、べらべらと、よく喋った。
なんだろう?この違和感。
そして、今夜は、部屋の中で女がひとりぶつぶつ、何やら独り言を呟いている。わたしは気味が悪く、仕方なく部屋を出た。
わたしには、もうひとつほっとする場所がある。そこには、とても無愛想な元服を迎えたくらいの男がいる。名は
一度、尋ねたことがある。
「お前様は何故、わたしが訪ねてきても、暫く気が付かないのだ?」と。
男は、その問いに答えなかった。無視か?なんだこの男、何様だ?
わたしは、暫く男を眺めていた。
だが、ある日、
それからというものは、いろいろなことが明らかになった。
どうやら
それは、初めて
ところが、突然、ぴたりと黙り込んだ。長い沈黙の後、
「誰かいる?」
おぅ、それはわたしのことを言っているのだろうか?わたしは思わず見渡した。部屋の中には男とわたししかいない。
「わたしのことかな?」と、答えた。
「もし、誰かいるのなら何か動かしてみて」と、男は言った。
何かを動かす。また奇妙なことを言うやつだな。と、わたしは思った。辺りを見渡して、動かせるものを探したら、ちょうど手の届く所に本棚があったので、一冊の本を引っ張り出そうとした。しかし、何の感触もない。
あれっ?
わたしの手が本を素通りしてしまう。何度しても同じだった。
あれっ?どういうことだ?
他のものでも試してみた。結果は同じだった。
男は、辛抱強く、わたしを待っていた。
「いないのかなぁ?」男は、沈黙した。
いや。ここにいる。ここにいるのだ。見えていないのか?そんな馬鹿なことがあるのか?見えていない?いや、女は見えていたぞ。いや、見えていたとかいないとか、なんだそれ?
男は暫く沈黙していたが、やがて再び話し始めた。
「音が出せないのか?それともいないのか?」と、男はパソコンの横に置いてあった箱のようなものを差し出した。
「いるよね。すごく感じるもの。ねえ、スマホに手を置いてみて」
うむ、この箱のことを言っているのか?手を置くのか?
「置いた?置いたら、念じてみて…」
おぅ、まだ置いてないぞ。置けと言われても何も感じないから、置いた振りをすればいいのか?この箱の上に手を翳せばいいのか?そして、わたしは恥ずかしげもなく、手を翳した。緊張で手が震えていた。うーむ、なんかこう恥ずかしいな。
その時、男の顔がほころんだ。
「置いたね。今感じたよ。なんだか暖かい。なんか気色わる!」
うっせぇ!てめぇが置けと言ったんだろうが!
「スマホを見ながら念じてみて。スマホの手触りを想像しながら画面をタップしてみて…何度も…諦めないで…?」
画面?タップ?うむ、この白いところか?要は触っているように想像すればいいのだな?
「タップすれば、この画面に言葉が入力できるんだよ。分かるかな。ここに触ることができれば、会話ができるんだよ」
そうか?会話すらできていなかったのか?えっ、でも、あの女とは喋っていたよな?でも、この男とは会話ができない。いや、待てよ。女との会話はずっと違和感があった。なんか一方的だったような、噛み合っていないような、いつも釈然としないもやもやがあった。
男は、同じ姿勢で随分と長い時間、待っていた。ずっと、わたしに声を掛けてくれた。
どれくらい経っただろうか?わたしの指にわずかな感触が生まれた。その時だった。男が興奮気味に呟いた。
「うそ、キーボードが出てきた。ねえ、聞こえてる?キーボードだよ。反応したんだ。ここ、打ってみて」
わたしは男の言う通りにした。でも実際、何をしているのか、理解していなかった。ここを5回、ここ1回、ここ2回と言われた通りに打ってみた。
「読んでみて…。それ僕の名前」
とかい。これが名前。そして男は、再度打ち直して、斛芥と打った。
「漢字ね。簡単なやり方教えるよ」そう言うと、とかいと名乗る男は、すごく端的に分かり安く、白い画面に文字が出る方法を教えてくれた。
「これ、フリック入力と言うんだ。この作業で文字が入力できるんだよ。何か打ってみて。そうだな。君は誰?」
わたしは、周りが何も見えなくなるほどに、この上なく集中した。かなり長い時間が過ぎたと思う。白い画面に文字が並んだ。
『わたしは、しのび。名は』
「名は?」
おぅ、名が分からない。わたしは分からないと続けた。
「分からんのかーい」
思い出せない。何故、思い出せないのだ?と、長い時間をかけ、わたしは入力した。
「思い出せない?そうか。記憶がないのか?もしかして君はすごく昔の人なのかもね。そういえば昔、忍者ハットリ君て漫画があったな。ネットで見たことがある」男はやけに楽しそうに言う。「もう面倒臭いからハットリ君だな。で、君は何処から来たの?」
『何処から?はて、何処にいたのだろう。さっきまでは、こことよく似た部屋にいた。そこには時々女が訪れ、よくわたしに話しかけてくる。わたしはそれにちゃんと答えていた。でも、斛芥殿を見ていたら、本当に女と、わたしは話していたのだろうかと不安に思える』と、わたしは長い時間をかけて箱に文字を並べた。
「へぇ、ハットリ君、もう漢字変換しているんだね。君は勘がいいのか、すごく頭がいいんだね。それは僕には分からない。女っていったい誰なのだろう?」
『それは分からない』
「分からない?ふーん。君はきっと細かいことを気にしないのだろうな。なんかいろいろ疑問に思ったことないのか?」
『ない』
「それ大事なことかもね。」
『そうか?これからいろいろ確かめてみるよ。斛芥殿ご指導を頼む。早速戻って、ひとつ確かめてくる。わたしが本当に女と喋れていたのか?確かめたら、また戻ってくるよ』
「分かった。いつでも戻って来て」
斛芥は満面の笑みを浮かべて、わたしを見た。まるでわたしが見えているようだった。
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