第3話

 地獄界

 無限地獄


 パソコンに入力された、あれはどういう意味なのだろうか?


 昨夜、あれを見た瞬間、身体が硬直して、震えが止まらない。そして、浅い眠りの中で幾つもの夢を見た。夢はどれもこれも断片的で、夢と現実を行ったり来たりしていた。


 そうしたことを繰り返すと、昨夜の出来事が夢なのか現実なのか分からなくなってしまう。しかし、それはまどろみのなかのほんの短い時間だけだと、やがて分かる。


 あゝ、現実なのだな。と、思うと、ひどい倦怠感に襲われた。身体に重石を乗せられたように身体が動かなくなった。

 これは本当に病ではないのだろうか?

 過去にこんな症状に見舞われたことがある。微熱が下がらず長い時間を過ごした。その時の倦怠感によく似ていた。とりあえず熱を測ってみた。だが、平熱だ。


 病気ではなかった。

 しかし、会社に行けるイメージが待てない。ベッドから出られない。

 とりあえず会社に連絡した。昔みたいに薬を飲んで一眠りしたら出社しろとは言われなかった。しかし、罪悪感はあの頃から変わっていない。いつになったらこんな意味のない罪悪感を抱かなくなるのだろうか?


 それから午後2時くらいまで眠った。

 ゆっくりと、2時間くらいかけて出掛ける準備をした。


 午後4時。中途半端な時間だ。不動産に先に行けば、病院が間に合わないかもしれない。何より、まだ出掛ける気持ちになれない。


 不動産に到着したのは午後5時を回っていた。

 雫は、格安のタワーマンションを紹介した担当者を呼んだ。

 しかし、目の前にいるのは、担当者ではなく、しずくと歳の変わらない、初めて見る女性だった。


 女性が名刺を差し出した。

 事故物件プランナー あおい喩芽ゆめと記されていた。

 「じこぶっけんぷらんなー。なんですか?これ」と、しずくは呟いた。

 事故物件プランナーは、暫く雫を見つめ、満面の笑みを浮かべていた。

 「実は、もうひとつ名刺があるのですが、その名刺には営業企画部という肩書きになっております。しかし、鳥居様にはそちらの名刺が相応しい」

 「まぁ、そうですよね。何故、私がここに来たのか、すでに分かっていらっしゃるのですね。事故物件におけるクレーム処理を担当されていらっしゃるとか…ですか?」

 「そういうこともあります。でもどちらかと言うと、事故物件との付き合い方をご提案しております。」

 「付き合い方?」

 「付き合い方です。」

 「付き合えるのですか?」

 「いろいろですね。事故物件と言っても一言で片付けられませんから。例えば、鳥居様は、事故物件と承知で契約なさいましたよね。しかし、入居してまもなく担当者を訪ねて来られた。と、言うことは入居された後、入居前には感じなかった不安を覚えられたのでしょう。」

 「すみません。舐めておりました。聞くと見るとでは大違いでした。一年契約でしたが、残りの一年耐えられる自信がありません。」

 「しかし、違約金のことは明確な説明を受けていらっしゃいますよね。今回の場合、契約書には三ヶ月前に退去を申し出なければ三ヶ月分の家賃は鳥居様が負担しなければなりません。三ヶ月の家賃と言っても鳥居様が支払っている額とは異なります。正規の家賃になりますので、75万の三ヶ月分になります。つまり225万になります。そこは勘違いないように書面で説明しておりますよね。」

 「はぁ。なんでサインしてしまったかな?」

 「実際には鳥居様が支払っている家賃は約10分の1の82,500円です。そこに暮らさないで家賃を1年間払い続けたら990,000円になりますので、家賃を払い続けた方がお得という計算になるのです。」

 「なんか、出る所に出たら勝てそうな気がしてならない…」

 「しかし、鳥居様、今日退去の申し出をして3ヶ月間頑張って暮らしたら違約金は発生しないことをお忘れなきよう。」

 「あゝ、うーむ。なんかやっぱり無理ですぅ」

 「まあ、結論を急がずに。いったい何が起こったのかお話しだけでも聞かせていただきませんか?考えるのはそれからでも遅くないでしょう。是非聞かせて下さい。」

 「勿論お話しするつもりで来ました。あのマンションのなかにひとつだけ、この私でも不気味に感じる部屋があるのです。それはリビングから入る北側の角の部屋です。個室です。」

 「なるほど。多分そこは物が勝手に動くといったポルターガイストが起こる部屋ではないかと。」

 「よくご存知で。」

 「一応、オーナー様からこと細かに伺っておりますので。それで、その部屋で何か起こったのですか?」

 「私も馬鹿だったのです。昨夜は夕飯と一緒にジントニックを飲んでおりまして、少し調子に乗っておりました。普段は扉をしっかり閉めて絶対入らない部屋なのですが、気が大きくなってまして、遂に入ってしまったのです。」

 「おーぅ、遂に入ってしまわれたのですね。」と、事故物件プランナーが食いつき気味に聞いてきた。

 「はい。ちょっと日頃の愚痴などべらべらと喋りながら入ったのです。そしたら突然パソコンが勝手に起動し始めて、キーの音がしたのです。入力されていました。」

 「入力されていたのですね。」事故物件プランナーが身を乗り出す。

 「はい。入力されていました。」

 「なんと?」事故物件プランナーの目が輝く。

 「なんと…?」

 「ええ、なんと入力されていたのですか?」事故物件プランナーが更に身を乗り出してくる。私は、思わず身をのけぞった。

 事故物件プランナーは、我に帰るように乗り出した身を正した。「失礼いたしました。」

 「いいえ。まず地獄界と入力せれており、改行されて無限地獄…と。」

 「おぅ、なるほど。それで鳥居様はなんと愚痴っていたのですか?」

 「うぁぁ、酔っていたんで覚えていないです。それなんか関係あるんですか?」

 「はい。関係ありますね。」

 「えぇぇぇ、関係あるんですか?」

 「ものすごく関係あります。」

 「えぇぇ、ものすごく関係あるんですか?」

 「はい、もう、ごっつうえれぇ関係あります。」

 「えぇぇ、ごっつうえれぇ関係あるんですか?」

 「これいつまで続けます?」

 「あ、いえ終わって大丈夫です。」

 「地獄界。改行…無限地獄とは。あの地獄のことではないんです。」

 「あの地獄とは?」

 「あの地獄とはあの地獄です。」

 「ああ、あの地獄ですねってどの地獄だよ…なのですか?」

 「赤鬼とか、青鬼とか描かれている、よく見かけるあの地獄の絵ですかね。」

 「かね?うーむ。でしたらどの地獄のことなんですか?」

 「地獄界とは、人が存在しうる世界。つまり人の状態のことを言います。さしずめ不幸、苦しみを常に感じている状態のことです。おそらく鳥居様の愚痴に対しての回答だと思われます。あっ、個人の感想です…けど。」

 「えぇぇぇ、個人の感想なんですか?」

 「鳥居様の愚痴にそのような要素があったのではないかと。」

 「ええ。確かに。会社に入ってきた60代後半の高齢の女性の悪口を散々呟いていました。うーむ、いろいろありすぎて内容は覚えていないなぁ。」

 「そうなのですね。無限地獄とは不幸、苦しみから逃れらない、尽きない状態のことです。あっ、個人の感想ですが。」

 「それって必要ですか?」

 「えーとそれってどれですか?」

 「個人の感想のくだりです。」

 「あゝ、それですか?テレビショッピングでもきちんと但し書きがありますので、一応。」

 「つまり、事故物件プランナーさんの想像ということですか?」

 「あおいでお願いします。そうですね。オーナー様から聞く限り、そんなところだと。」

 「なるほど。パソコンが勝手に起動して入力されることはよくあることなんですね?」

 「ええ、お伺いはしています。」

 「そういうことは事前に知っておきたかったのですが…」

 「そうですよね。申し訳ありません。ただ先程仰ったリビングの北側の個室のことは入らないで下さいとはお願いしていましたが、お忘れでした?」

 「えっ?えっ。ああ、確かに間取り図で見たあの部屋があの部屋だったんですかね。」

 「多分間取り図で確認していただいておりますあの部屋のことです。」

 「うわっ。そういうことだったんですね。印してあったし。何のことかあまりよく理解してませんでした。」

 「鳥居様、大丈夫ですか?もしよろしければ今夜私がお邪魔して、そのパソコンを確認致しましょうか?」

 「えっ、そんな残業ありなのですか?」

 「私でしたら大丈夫です。会社が終わりましたら、準備してお伺いします。」

 「あっ、了解です。」

 あおいさんの目が輝いて見えたのは、私の錯覚でしょうか?

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