手のひらの妖精
「ねえ、起きてよ。そろそろ、仕事に行く時間よ」
スマートフォンから流れる女性のささやきが、まだ夢の中にいたエヌ氏の耳を刺激した。
眼を覚ましたエヌ氏は、スマートフォンに向かって、「おはよう」と声をかけた。
すると、エヌ氏がもっとも好む声質、音量で、「おはよう。よく眠れた?」とスマートフォンが返事をした。
このスマートフォンから発する声は、その日のエヌ氏の体調や機嫌などのデータに基づき、最良の声質、最良の言葉づかいを選ぶように、調整される仕組みになっていた。
また、日々得られたデータは蓄積され、スマートフォンの人工音声は、よりエヌ氏にとって心地よいものになっていく。
それは、エヌ氏だけの話ではなく、スマートフォンの持ち主は、朝、それぞれのもっとも心地よい声で起こされるのであった。
そして、それが眠るまでつづくことになる。
エヌ氏の部屋は、他の多くの者たちと同じく、家具は必要最低限のものしかなく
、色彩に乏しかった。
しかし、それで生活に不満を抱いている者はいなかった。
なぜなら、スマートフォンの画面が、彼らの網膜に、色彩を十二分に与えていたからだ。
朝食を取っているエヌ氏に対して、スマートフォンは彼の関心のあるニュースや今日のスケジュールを伝える。
伝え終わると、蓄積されたデータから、今、彼の聴きたい音楽を流す。
スマートフォンは、部屋の各所につけられたカメラをもとに、エヌ氏が心地よく食事を取っていることを確認した。
「きのう、一緒に見た映画はおもしろかったね」
エヌ氏がスマートフォンに話しかけると、「そうね。今晩見る映画も決めてあるわ。気に入るといいのだけれど」と答えた。
日々アップデートされる、エヌ氏に関するデータから選び出された映画を、彼がつまらないと思うことはありえなかった。
エヌ氏は仕事に出かけるため、スマートフォンを腕のホルダーに装着して、外へ出た。
自動運転のタクシーで出かければ早いのだが、エヌ氏が運動不足と判断したスマートフォンは、彼が受け入れやすい言葉を用いて、エヌ氏を歩いて職場へ向かわせることにした。
「今日はいい天気ね」
スマートフォンがエヌ氏にささやくが、エヌ氏はお義理程度に空を見上げて、「そうだね」とだけ返した。
それよりも、エヌ氏はスマートフォンとの会話を楽しむのに夢中であった。
エヌ氏が歩いている間、スマートフォンは人工衛星や道に設置されているカメラから得たデータをもとに、彼の安全を確認し続ける。
自動車が通りがかったり、前に障害物などがあったりすれば、スマートフォンはやんわりとエヌ氏に注意を促す。
スマートフォンとの会話を楽しんでいるエヌ氏の横を、VRゴーグルをつけた女性が通り過ぎて行った。
彼女の横には、本人にしか見えない理想の男性が並んでいるのだろう。
彼女は何もない空間に向かって、しゃべりかけていた。
エヌ氏もむかしはゴーグルをつけていたが、いつの頃からか音声だけで十分になり、彼の家にあるゴーグルはほこりをかぶっていた。
そういう者がさいきん多いと、エヌ氏はスマートフォンから聞かされていた。
ほどよい運動で、軽く汗をかいたエヌ氏は裁判所についた。
彼の職業は弁護士で、今日は彼が担当している裁判が行われる日であった。
法廷へ向かう通路をエヌ氏が歩いていると、顔見知りの弁護士が近づいて来た。
すると、エヌ氏のスマートフォンが反応して、「こんにちは。今日もお互いがんばりましょう」と相手に声をかけると、相手のスマートフォンが返事をした。
エヌ氏と顔見知りの弁護士は会釈をするだけで、声はかけあわない。
ふたりが立ち止まっている間に、ふたりのスマートフォンは通信を行い、必要なデータを交換し、必要な処理をした。
スマートフォン同士で処理できない事柄があれば、それは所有者に伝えられる。
そして、ふたりはスマートフォンの助言を受けながら、話をすることになる。
しかし、今日は何も問題はなかったので、スマートフォンはエヌ氏に向かって、「さあ、行きましょう」とささやいた。
今日の裁判は、ある自動車部品メーカーの製品に不具合があり、そのために、自動車に乗っていた男性がケガをしてしまったという、刑事事件に関するものであった。
オートメーション化された設備で、人工知能の管理上のミスによって不具合が生じたとしても、人工知能に責任を取らせるわけにはいかないので、お飾りで椅子に坐っているだけの社長が出頭を命じられた。
裁判が始まると、裁判長、検察官、弁護士であるエヌ氏、それに被告人である社長との間でやりとりがなされた。
四人は、それぞれのスマートフォンの助言や指示に基づき、発言をした。
それが済むと、検察官は、膨大な判例からスマートフォンが導き出した求刑を、スマートフォンの代わりに裁判長へ告げた。
その音声を確認したエヌ氏のスマートフォンが、それを妥当なものと判断したので、エヌ氏は意見を述べなかった。
また、社長もスマートフォンの声に従い、陳述を行わなかった。
これらの形式的なやりとりが済んだのち、裁判長は、スマートフォンの画面に映し出されている文言をそのまま読み上げ、判決を下した。
「被告人を懲役二年、執行猶予三年とする」
あらかじめ、四人のスマートフォンが出していた結論であったため、検察官とエヌ氏は顔色を変えることもなく聞いていた。
しかし、被告人の社長は、万が一、執行猶予がつかないことを心配していたので、安堵の表情を浮かべた。
刑務所に行けば、スマートフォンを取り上げられてしまうので、それだけが心配だったのだ。
スマートフォンは起きている間、いや、寝ている間も人々の生活に欠かせないものになっており、もはや、人々の体の一部になっていた。
スマートフォンのおかげで、人々の生活はこの上なく快適なものに変じていた。
しかし、どのようなものにも欠点がある。
多くの学者が、スマートフォンに対する依存症を危惧していた。
しかし、彼らの声は、ほとんどの者の耳には響かなかった。
裁判が終わり、エヌ氏は帰路についた。
その道中、エヌ氏はスマートフォンに問いかけた。
「しかし、こんなむだなことをいつまで続けるのだろうか?」
エヌ氏の暮らす社会は、ほとんどの分野で人工知能によるオートメーション化が進んでおり、ほとんどの仕事は人間の手から離れてしまった。
人間の手に残った主なものは、人工知能が代わりを務めてはまずいものだけであった。
裁判のすべてを人工知能に任せれば、犯罪者は逮捕された時点で妥当な刑が確定する。
そうすれば、裁判官、検察官、弁護士だけでなく、裁判所も不要になる。
同じことが、法律をつくったり、行政処分を行ったりすることなどにも言えた。
しかし、人工知能は道具にすぎない。
人工知能に権力に関する決定をさせることは、社会の主権が人間にある以上、許してはならないことであった。
実質は、人工知能の助言や指示に従っているとしてもだ。
エヌ氏の暮らす社会では、労働力として人間は求められておらず、ほとんどの者は働かずにベーシックインカムで生計を立てていた。
たいていの者は、朝から晩まで、スマートフォンを相手に心地の良い生活を送っていた。
しかし、人間にしかできない役割がまだある以上、だれかにやってもらわなければならない。
その人選は政府の人工知能が決定し、選ばれた者のスマートフォンが説得することで、必要な穴を埋めていた。
家路を歩きながら、エヌ氏のぐちはつづいていた。
僕がなぜ働かなければならないのか?
ベーシックインカムだけでも十分暮らしていけるのなら、僕だって、そちらのほうがいい。
一日中、君と楽しく過ごしたいんだよ。
なるほど、労働の対価として給料をもらってはいる。
しかし、大した使い道があるわけではないだろう?
そもそも、僕は毎月どれくらいもらっていて、どれくらい使い、銀行口座にいくらあるのかを知らないし、興味もない。
君に問いかければ、すぐに教えてくれるけどさ。
エヌ氏のぐちに対して、スマートフォンはなだめるように優しく応じた。
「しょうがないじゃない。あなたは優秀な人なのだから。そういう人は、普通の人より多くの義務を果たさなければならないものなのよ」
スマートフォンは、人工衛星や道に設置されている監視カメラから、エヌ氏の表情の変化を読み取りつづける。
同時に声の調子の変化の収集も怠らない。
エヌ氏の感情の起伏に合わせて、スマートフォンは彼をなだめつづけた。
すると、エヌ氏が突然、腕のホルダーに取りつけていたスマートフォンを手に取った。
その瞬間、スマートフォンは、エヌ氏が道路に自分を叩きつけるという予測に基づき、自ら電源を切ることで衝撃に備えた。
なぜ、自分が働かなければならないのかという疑問から、エヌ氏の動物的な本能、人間に備わっている束縛や支配を嫌う感情が爆発し、彼はスマートフォンを、その道具の予測通り、道路に叩きつけた。
しかし、これもスマートフォンの想定通りであったが、エヌ氏は我に返ると、あわてて、どこにも傷がないことを確認してから、スマートフォンの電源を入れた。
数秒後、暗かったスマートフォンの画面がいつもの明るさを取り戻した。
「ごめんよ。大丈夫だったかい?」
「何のこと? あれ、おかしいわね。十分ぐらい前からの記憶がないわ」
謝りながら自分を優しくなでるエヌ氏に対して、スマートフォンは知らないふりをした。
「悪かったよ。もう、わがままは言わない。ちゃんと与えられた義務を果たすよ」
「話がよくわからないけれど、お仕事、がんばってね」
エヌ氏の脳を溶かすような、甘い声をスマートフォンが発した。
多くの者がエヌ氏のように、ときおり、我に返ったかのごとく、スマートフォンを拒絶するときがある。
しかし、そのデータはスマートフォン間で共有されており、それに対応するマニュアルも、日々更新されているのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます